令和7月5月6日 木蓮
木蓮の花許(ばか)りなる空を見る 夏目漱石
漱石は木蓮が好きだったようだ。「草枕」にこうある。”見上げると頭の上は枝である。枝の上も、亦枝である。そうして枝の重なり合った上が月である”。花色についても鋭い描写があって、ただ白くては寒すぎてわざと人眼を奪うようだし、卑下するように黄ばむから暖かく奥ゆかしいと書いている。
一方、幸田露伴は咲き出す前が良いという。豊満で長身、色白な女は顔も見えない遠見でも人を引きつける。そんな花だという意味の文章がある。
木蓮に白磁の如き日あるのみ 竹下しづの女
この白磁の日とは、底光りしてたゆたう時間か。花曇りの太陽か。焼き物を連想させる花は案外少ない。だが木蓮の黄のまじる白い花は、李朝白磁のぬくもりある肌を、青空高く掲げたように見える。
白が白磁なら、紫の花は釉裏紅と呼ばれる焼き物の神秘的な色を思わせる。
白木蓮咲きしを閨のあかりとす 井上雪
紫木蓮歴史の中に美女がいて 船水ゆき

令和7月5月5日 森本毅郎
ソクラテスはアテナイの広場を歩きながら、こうつぶやいたという。
「まあ、なんと、わしに関係のない物ばかり売られているんだろう」
ソクラテスはここで、アテナイ市民に「知恵」を授けようとしていたのだ。ソクラテスには、人々が人生で一番大事なものを放ったらかして贅沢な飾り物などを買うのが不思議に思えてならなかったのである。
ぼくは、ソクラテスが閉じ込められていた牢獄の跡の礎石に腰を下ろして、アテナイ最盛期の広場の様子を、あれこれ思い描いた。そして、外に出ると、そこに現代の市が開かれていた。そのはずれに、石膏の彫像をゴタゴタと並べた露店があった。見ると、なかにソクラテスらしい像が置かれているではないか。ぼくは、「自分に何の関係もない」とアゴラの市を評したあのソクラテスが、現代の市で売られている皮肉に思わず笑ったが、「そうだ、記念に、ひとつ買っておこう」と、散々値切ったすえ、巻物を手にしたソクラテスの立像を買った。むろん安物である。
だが、帰国して机に置いてみると、それだけで書斎の雰囲気が、ガラリと一変した。
以来、机に向かうたびに、ソクラテスがぼくをじっと見つめる始末となった。
人生の知恵を語っているように、"汝自身を知れ" と説いているように。

令和7月5月4日 立川談四楼
なぜ「松竹梅」という言葉がワンセットで使われるようになったのでしょうか。落語『浮世根問』に出てくる都々逸から考察してみましょう。
松の双葉はあやかりものよ 枯れて落ちても夫婦連れ
「松の双葉は枯れて落ちても離れない。夫婦もその通り、共白髪になるまで生涯添い遂げるものだ」
竹ならば割って見せたい私の心 先へ届かぬフシアワセ
「これは男の気持ちだ。腹の中は竹のようにさっぱりとしている。それでも節があって締まるべきとこは締まっておりますという・・」
シワの寄るまであの梅の実は 味も変わらず酸いのまま
「これは女の心持ちだな。いくらシワが寄って年を取ったとしても、夫を好(酸)いて心変わりがございませんという・・」
夫婦、男、女の道を、松竹梅が出てくる都々逸を使って説いたわけです。
「鰻重の梅」と言っても恥ずかしくないのは、その歴史のお陰なのかも知れません。

令和7月5月3日
遠くへ行きたい。ここではないどこかへ行きたい。
空気の澄んだ雨上がりの夜、いつもは横目に通り過ぎるだけの何の変哲もない歩道橋がやけに目に付くとき、そこに上がってみることも旅である。そうして違う風景を眺めることこそが旅の醍醐味である。
読書や観劇、学問も同じだ。ときおり、人と話していてもそういう気分になることがある。
他者は見知らぬ旅先である。道があり、風景がある。山や海があり、荒野があり、洞窟があったりする。
私たちはそこでほっと息をついたり、眩しさに目を細めたり、ときに慎重に避けたりしながら歩く。
作品を旅し、人間を旅して、新たな自分を見つけることに繋がるのである。
黒き窓に翁いてなんだおれか

令和7月4月27日 作品
陶芸作品は正解などなくアヤフヤなものです。
アヤフヤだから、各人各様な世界があって、各人各様に楽しめるものかもしれません。

あといくつ迎えるか春逝けり

令和7月4月20日 作品
どんなにうまく作られていても、作品を飾ろうとして作りすぎているものは何となく色あせて見える。
これはどんな世界でもいえることだが、造花はどんなにきらびやかでも、人の心にしみるという点では、山陰に咲いた一輪の花に及ばない。

蝶々の素通りするや名なし草

令和7月4月13日 立川談四楼
「蒟蒻閻魔」
家で閻魔のように威張っていても、外では蒟蒻のようにブルブル震えている内弁慶の意。いますよね、そういう人。
東京・文京区の源覚寺にその閻魔が祀られていて、性分を直そうと内弁慶が結構訪れるそうです。
さ、そこのあなた、詣でましょう。あ、待って、私も行きます。心細いから一緒に行きましょうか。

令和7月4月6日 立川談四楼
「精神圧力」。中国語では「ストレス」のことだそうな。「圧力」が効いていて、そうだろうなと思わせます。
「美人会話」。韓国にはそんな看板があるという。いわゆる美人喫茶の類で、美人との会話が楽しめるのかと思ったら、さにあらず。「英会話教室」のことなんだそうな。韓国では「美国」と書いて「アメリカ」を指すんですね。つまり美人はアメリカ人で、美人会話は美国人から会話を学ぶという意味なんですね。

令和7月3月30日
桜の花に春を感じると言えば、在りきたりで当たり前のようだが、この二、三年私は一本の桜の木に春を思い知らされている。といっても花の名所のさくらではなく、山小屋の庭の奥にある大きな霞桜である。
この木は私が山小屋を建てた土地に随分前から生えていたもので、落葉松を伐採して、光が射して来てから咲き出して、今は見事に咲いている。
顔をあげて見ると、はるかな高みから桜の淡い花びらが舞い落ちてくる。
木の下に寝椅子を拡げ、仰ぎ寝に花を眺めてぼんやり過す日が、またやって来る。

令和7月3月23日 法律
売春のことを、よく「世界最古の職業」と言ったりします。
いわゆる(被害者なき犯罪)と言われているから、売春防止法はせいぜい1〜2年かと思いきや、
「ちょっとお兄さん、2万円でどう・・」の勧誘は懲役6ヶ月。
「あそこのビルの向かいにいい娘が・・」と売春周旋した人は懲役2年。
売春を行う場所を提供することを業とした者は、懲役7年。
一番上が、いわゆる管理売春で、懲役10年です。
ちなみに「なぜ、本番性行為自体は刑事処罰にならないか」というと、「売春に陥った者は処罰よりは救済を必要とする者である」との観点でそもそも立法されているからだそうです。
売春が違法かどうかも、国によって異なるようです。

令和7月3月16日 竹内整一
桜が咲いて散る季節は、別れと出会いの交錯する時節でもある。三月から四月にかけて、学校や職場で、どれだけの「さよなら」が交わされたことだろう。一般に世界の別れの言葉は「神の身許によくあれかし」か「また会いましょう」か「お元気で」の三つに大別される。が、日本語の「さよなら」はそこには入らない特殊な表現である。
「さよなら」という言葉は、もともとは、先行のことを受けて、後続のことが起こることを示す、「然らば」「左様ならば」という意味の接続詞であった。それがやがて、別れ言葉として自立して使われるようになったのである。
つまりそれは、これまでが「さようであるならば」、これからさきどうなるかわからないけど、わからないままに「何とかなる」「だいじょうぶ」だと、言い聞かせようとする、たくまずして編みだされてきた、いわば「おまじない」のような言葉なのである。先人たちからずっと引き継がれてきた大事な挨拶言葉である。
春一ト日おんもおんもにすぐ負けて

令和7月3月9日 崎 南海子
人は一生に何人の人と出逢うのでしょうか
おなじ瞬間にふふふと笑いあう人
一度すれちがっただけなのに 生き方をみせてくれた人
めぐり逢う人は誰も大切な人
むずかしいけれどまず
ここに存在する自分という人間を
守るのではなくたいせつにしましょう
まだ出逢ってないのにたいせつな人もいますね

令和7月3月2日 あおげば 尊し
あおげば 尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月
今こそ 別れめ いざさらば

別れの季節が来ました。

「教わったものは身につきません。自分が苦労したものだけが身につくのです」

令和7月2月23日 藤原正彦
「他人の迷惑になることはしてはいけない」というのが、最近の若者にとってほとんど唯一の道徳基準のようだ。
この標語自体は結構だが、結構でないのは、若者の多くがそれを拡大解釈し、「他人の迷惑にならないことは何をしてもよい」と思っていることである。援助交際などは両者が納得のうえで秘密に行っている限り、まったく誰の迷惑にもならないから、文句なしに肯定されることになる。
先の二つは同義ではないのである。論理的に言うと「AならばB」が正しくとも、「AでなければBではない」は必ずしも正しくないということである。
「雪は白い」は正しいが、「雪でなければ白くない」は誤りである。
必ずしも正しくない、と用心して言ったのは正しい場合も時にはあるからである。また、正しいか正しくないか判定しがたいものもある。女性に関して、「妻を愛してよい」は当たり前で誰も異論をはさまないが、「妻でない女性を愛してはいけない」については、女房と私の意見は異なる。

令和7月2月16日 月村了衛
先日ネットを眺めていると、「本を百冊近く持っている」 という自称 (蔵書家) の人が、友人知人から 「スゴい」 「図書館みたい」 「本がありすぎて気持ち悪い」 と驚かれている一方で、通りすがりの人達の失笑を買っていた。
私の正直な感想を申し上げると、「蔵書百冊」 はせいぜい中学生のレベルである。
蔵書家を名乗るのであればケタが二つ、なんなら三つくらい違う。しかし、大多数の人達には、百冊でも驚異的な範疇に入るらしい。
こうなるともう私の理解の及ぶ世界ではない。
これは、若者の貧困、国家の衰退という政治問題も切り離して考えることはできない。過去数十年にわたって国民の労働対価を収奪し、国力と文化を削り取ってきた政治の責任だ。そして、官僚の天下り先をせっせと増やしただけである。美しくないことこの上ない。
事態がここまで悪化した責任は、己の保身、と利権、名誉欲に固執した一部の者達にあることは否定できないであろう。
日本は未だ奈落の底へ着いていない。現在も加速しながら落下している最中なのだ。

令和7月2月9日 森まゆみ
20年くらい前、上海の手相見が「あなたは9の才能を持っているのに、3つしか使っていない。あとの6つを花咲かせなさい」と言った。私は真に受けて、あとの6つは、歌手かな、女優かな、政治家かな、と旅の空で考えたものだった。
瞬く間に20年が経ち、声はかすれ、セリフも覚えられそうになく、選挙ポスターに耐えられる容姿でもなくなった。
もうひとつやってみたかったのはバーのママ。カウンター越しに人の話を聞き、慰めたり、励ましたり、そんなことは得意だ。
あるバーのママは言った。「男は弱いからね、ちょっとでも褒めて元気にしてやらないとね」。
褒めるところがない男はどうするの、と私が聞くと「あら、いいネクタイしてるわね、というのよ」。
陣内秀信さんにこの話をしたら「イタリアでは懺悔を聞いてくれるカトリックの坊さんがいなければ自殺は増えるだろうと言われているけれど、日本でママや女将がいなかったら男たちはもっと自殺するでしょう」とおっしゃった。

令和7月2月2日 立川談志
奥様の「則子(くんくん)語録」
・「パパは一番大切。でも何もしてあげられない」
・「あたしはペットなの。でもいいペットでしょ。トイレも自分で行けるし、ラーメンも作れるし」
・「お風呂もプールも大丈夫なんだけど海は苦手。だって、つかまるところがないから」
・競馬の八百長事件を知って、「馬がどうして八百長出来るの?」「騎手がやるんだよ」
・「お弟子さんが増えちゃって、顔も名前も覚えられないわ。でも、お弟子さんはあたしの顔を覚えるのよね」

令和7月1月26日 火野葦平
「青春と泥濘」は、日本陸軍の戦争史で最も無謀な作戦と言われた、インパール従軍記である。
本の帯には葦平の怒声が記されている。
"誰が戦争などしやがるのか"
マラリアと栄養失調で兵士は下痢が止まらない。幽霊の行進とみまがう姿だ。ここで命を落とした日本軍は三万人という。白骨街道と呼ばれた。集落では見かねた村人が出て、まだ息のある倒れた兵士の尻を草の葉で拭いてくれた。
無残な敗走の終局は、増水したチンドウィン河に行く手を阻まれる。兵の筏は濁流に流された。
指揮官の牟田口廉也はとっくに船で脱出していた。

令和7年1月19日 努力
誰だって汚いオヤジの指導で陶芸を習うのはイヤであろう。
年齢に逆らった若作りをするのはかえって痛みを感じさせるであろうから、歳相応の、衒(てら)いも嫌味もない演出をするのが最善の策であろう。年齢と親和しつつ、男であること、女であることを忘れずにいる人はいつまでも美しい。
たとえば職人の腕前や役者の芸が、明らかに年齢とともに磨かれてゆくように、人間の魅力もまた自然に蓄積されてゆくはずなのである。ただし、職人や芸人と同様、努力を怠らねばの話である。

令和7年1月12日 出久根達郎
まもなく七十六歳になる。この年になると、明日のことがわからない。親しい知友が、次々と別れていく。
先だって十数年ぶりに再会した幼な友だちが、別れぎわ、ふと思い出したように、「ほら、覚えている? これ」 と右手を上げ、「アバヨ」 と言った。「忘れてないよ」 とこちらは 「バカよ」 と言い、右手で頭を指す。すかさず友人が 「マタ、アシタ」 と言って、上げた右手で股と足を指した。
子供の頃の別れの挨拶である。何十年ぶりだろう。「覚えているもんだなあ」 二人で笑いあった。
その幼な友だちが、まもなく本当に 「アバヨ」 をしたのである。「マタ、アシタ」 のない 「さよなら」 だった。
明日は我が身である。そういう年なのだ。

令和7月1月5日 丸元康生3
父は今年に入ってからは、日に日に体力が衰え、自宅で寝たきりになりました。
声もかすれ果てていましたが、母が質問すると、答えてくれました。
「好きな食べ物は?」「大根おろし、ナスのヌカ漬け、唐人干」
「天国に行ったら、神様になんて言われたい?」「・・歓迎しますよ」
亡くなる数日前、父は家にいた母と妹を呼び寄せ「ぼくは、もう話ができなくなるかもしれないから、今のうちに話しておくね」と感謝の言葉を伝え始めました。母は、家族がみな大好きだった父のエッセィ集「地方色」の中から、「ベゴニア」、「欅を見れば」、「十七歳」を朗読して聞かせました。父は涙を流していたそうです。
私には、父の心の内は分かりません。幸福な一生だったかどうか分かりません。
でも、
最後にとてもよい日を持てたのだなぁと、嬉しく思っています。
三月六日の朝、父は静かに息を引きとりました。

令和7月1月4日 丸元康生2
今日は死ぬのにとても良い日だ」というエッセィでは、死を間近にしたインデアンの詩を紹介したあと、次のように締めくくられています。
「こういう死は病院では迎えられない。笑い声にあふれたわが家で、老人はいま死と対面しているのだが、心にあるのは美しいもの、内なる歌声、そして生命への慈しみである。それは星の降る大地の上でしか、見ることも聞くことも感じることもできないものかもしれないが、誰しも天寿を全うしたときには、これに似た幸福感が得られるのではなかろうか。死とはまさに生涯をかけての達成なのである」続く

令和7月1月3日 丸元康生1
父、淑生は、一昨年の十一月、東京広尾の総合病院でがんの宣告を受けました。食道がんです。
父の様子は、ふだんと何も変わりませんでした。
「まだ半年あるじゃないか。みんなで楽しく過ごそうよ」 自然で、あたたかく、力強い父の声でした。
治療に関して、父の方針は明快でした。生活の質を下げて、仕事ができなくなるような治療はやらない、ということです。
父は、ベストセラーになった「丸元淑生のシステム料理学」をはじめ多くの著書を残しました。
父は、若い頃からずっとそうでしたが、毎日をアクティブに過しました。本来なら入院して安静に過ごすべき状態の時でも、通院して放射線治療を受け、すぐに仕事に出かけました。「少し休んで」という家族の声にも耳を貸しませんでした。からだが動くかぎり、休まず、精力的に活動し続けました。続く

令和7月1月2日 大西峰子
明治三十八年生まれの志村喬は、昭和五十七年、七十六歳で亡くなっている。
志村喬といえば、座するだけで高邁な人の魂の重みを醸し出せる稀有な名優である。
夫人は生涯を通して、夫に、来客にと、人においしいものを食べさせることに心を尽くし続けた。収入がなく物のない時代にも、客が来れば、嫁入支度で持ってきた高価な着物を持っては質屋に走り、惜しみなく食物に化けさせて饗応した。
夫の大きな優しい保護力、少女のように生き生きした茶目っ気のあるかわいい妻の夫婦。
夫は無口でも、夫人の明るく屈託のない心和む楽しい魅力に引かれて、多くの人が気安く集える家になったのであろう。
政子夫人は回りから何度も『志村喬』を書くように勧められた。志村本人も「この人、書けますよ」と夫人の文才を認めている。しかし、政子夫人は「書かない」の一点張りであったという。
「この世でよく捨てることを知り、名誉、利益からよく隠れることを知り、良く生きることを知っている」賢い女性がいた。
何かの本に『人徳』とは『何となしにその人に引かれ、成長させられる魅力』とあった。ならぱ政子夫人は私にとって、まさに人徳あふれる女性だった。

令和7月1月1日 正月
最近の私のモットーは「今日は昨日より美しく」です。
別に外見とかに限定していなくて、身の回りの環境でも教室でも仕草や言動でも,意識して美化していきたいと思っています。
新年は けだし心の なかのこと