陶芸教室7に続く

令和7年12月31日 大晦日
令和7年もやがて逝こうとしているこの頃、この国の一年を回顧すると、未だ経験したことのない誠に多事多難の年であった。
例年の師走以上に、多くの人々が走り廻っている。
寄せる波あれば引く波去年今年
「先生はえらい」のです。
たとえ何ひとつ教えてくれなくても。
「えらい」と思いさえすれば学びの道はひらかれる。
内田樹著 「先生はえらい」より

令和7年12月28日 阿久悠
父は退職の時宣言するように、「わしはもう働かないぞ、誰が何と言おうがいっさい働かない。のように暮らす」
と言って、その通りにした。
ぼくの作品については、たった一度、どういうタイミングであったか、おまえの歌は品がいいね、と言ったことがある。

令和7年12月21日 早熟
次男に三人目が生まれるとき、皆で名前を考えた。
「エリカちゃんがいい」と言ったら、幼稚園児の孫が恥ずかしそうに、
「それはだめ、ボクが結婚する子だから」
四十歳独身の長男に爪のあかをせんじて飲ませたい。
日野市・老い先心配な女・66歳

令和7年12月14日 試す
市内のスーパーで温水洗浄便座のキャンペーン販売が行われていた。
商品には「ご自由にお試しください」とはり紙がしてあった。
唐津市・試さずに帰ってきた主婦・35歳

令和7年12月7日 ジャガイモ
私は寮の調理員。ジャガイモが残り少なくなったので、八百屋さんに電話で注文した。
「今日のメークインはひん曲がってあまりようなかよ」
そこで私、「そんなら私んごたるね」
すかさず八百屋さん、「そこまでひどうなかばってん」
長崎県 メークインに負けた寮のおばさん・56歳

令和7年11月30日 愛妻弁当
妻「えーっ、今日はお弁当いらないの。もう作っちゃったわよ」
私「いいじゃないか、お前が昼に食べれば」
妻「いやだ、あんなの」
宝塚市・ 俺はいつも食ってるぞ・34歳

令和7年11月23日 手遅れ
うちのおじいちゃんは『ボケにならない本』を買ってきた。次の日、また買ってきた。
兵庫県・うちのおじいちゃんだいじょうぶかな・15歳

令和7年11月16日 藝術
藝術と芸術。
簡単の方の芸は「くさぎる」「刈る」という意味で、難しい方の藝は「植える」「増やす」、つまり正反対の意味です。
もともと芸術も、農業や工業と一緒で、なにか、人にいいものを植えたり増やしたりする仕事なのである。

令和7年11月9日 仏像
私たちがお寺や博物館で見るのは何時代の作でもキレイな仏像が多いので、つい「仏像って丈夫」と誤解してしまいそうになるが、石でできている西洋彫刻と違って、日本の仏像の九割が木製である。実はとても壊れやすい。
仏像が壊れる原因はいくつもある。
先ず温度や湿度、太陽光など。気温が急に上がったり湿度が急に下がったりすると、仏像の体幹部がひび割れたり折れたり、漆や彩色が剥がれ落ちたりしてしまう。
次に生物。ネズミやタヌキはお供えをねらって仏像をかじったり糞尿で木を腐らせる。虫は木を食べ、像の身体にもぐって巣をつくる。カビ、細菌、バクテリアも大敵だ。
さらに天災、地震、風水害、落雷。東日本大震災では多くのお寺で仏像が倒れ、壊れた。
そして人災。昔は平清盛や織田信長のように「言うことを聞かないから」と寺社を焼いたり壊したりする権力者がたくさんいた。下っ端の足軽や農民も、どさくさまぎれに寺の財宝を盗んだりした。近代になっても、漏電で法隆寺金堂の壁画が、放火で金閣寺が消失してしまった。1960年には、広隆寺の弥勒半跏思惟像が、シャレで抱きついた大学生によって右手の指を折られるという事件もあった。

令和7年11月6日 誕生日
喜びの遊び (どんな状況であっても喜ぶことを探す遊び) ですが、私が陶芸と出会い、陶芸によって生活を楽しみ、陶芸によって人生を支えられる経験をした時、ああ、陶芸は喜びの遊びだと思いました。私たちは、喜びと哀しみの波間に生きています。風のような怒りに苛まれる時、真っ黒な森に迷うかのような悩みに押し潰される時もあります。辛いことがある時、苦しい状態に喘いでいる時、何でも喜ぶゲームなんて出来る筈がない。誰だってそう思います。
心が内へ内へ向き始めると、自分を卑下したり、周りの人を非難したり、社会を恨んだりします。そんな生きづらい日々の中にも、小さな喜びがある。陶芸はその見つけ方を教えてくれます。人生に起きる出来事を、是は是とし、非は非として受け入れる。そこから新しいものの見方が生まれてくるのではないでしょうか。

火はわが胸中にあり寒椿

令和7年11月2日 佐藤久子 遠野市 52歳
コーヒーを沸かしてポットに注いだ。「いざ出発」
晴れ渡った日曜日の昼下がり、私は夫を誘っていつもの場所へと車を走らせた。
山頂近くの牧場では、放たれた牛の群れが草山に引っ付くようにしながら草を食んでいる。
来て良かった。・・・。私はコーヒーをおいしそうに飲んでいる夫の横顔を見ながら安堵した。
いつも不規則な仕事に追われているうちに、夫は体調を崩した。それ以来、薬を常用しなければならなくなっている。
ある日、所用で夫の職場に出向いた。階段を上りきると、ドアの隙間から夫が見えた。何かを懸命に書いている。
私と子供に接する時の優して顔はそこにはなく、仕事に取り組んでいる厳しい顔つきの夫がいた。
私は胸が熱くなった。夫を愛おしいと思った。同時に、自分のことだけを考えている勝手さを恥じた。
「お父さんを大切にしなければいけないな」
帰りがけに夫との好きな大福を買った。
本来ならば豪華なステーキでもと思うところだが、貧乏性の私の頭に浮かんだのは大福だけだった。

令和7年10月26日 花火
祭りの花火が終わり、辺りはすっかり暗くなった。人々は三々五々、その場を離れていく。いよいよ諏訪も秋だ。
毎年繰り返される諏訪の花火。見るものも、焼き付けるものも、こうして秋を迎え、日々、年老いていく。
無意識に人は花火に自分の人生を見ているのかもしれない。

令和7年10月19日 父 阪田寛夫 内藤啓子
男一対女三で、どうしても家内では分が悪い父だったが、どちらかと言えば、母と私、父と妹で気があった。
父も妹も根は真摯で頑固な人間だったと思う。が、自分がまじめな努力家であることを表立たせるには、羞恥心が強すぎたのかもしれない。父は好色なダメ人間と名乗っていたし、妹は自らナマケモノと称していて、二人ともこんなに努力しているなどとは決して言わないし、見せなかった。

令和7年10月12日 紅い花
作詞 松原史明 作曲 杉本眞人 唄 ちあきなおみ
昨日の夢を 追いかけて 今夜もひとり ざわめきに遊ぶ
昔の自分が なつかしくなり 酒をあおる
騒いで飲んでいるうちに こんなにはやく 時は過ぎるのか
琥珀のグラスに 浮かんで消える 虹色の夢
紅い花 想いを込めて ささげた恋唄
あの日あの頃は 今どこに いつか消えた夢ひとつ

悩んだあとの 苦笑い くやんでみても 時は戻らない
疲れた自分が 愛しくなって 酒に唄う
いつしか外は 雨の音 乾いた胸が 思い出に濡れて
灯りがチラチラ 歪んでうつる あの日のように
紅い花 踏みにじられて 流れた恋唄
あの日あの頃は 今どこに いつか流れた 影ひとつ

令和7年10月5日
花はいくら美しく咲き誇っていてもいずれは散る。その散り方にもいくつかの種類がある。
桜は美しいままに花弁がちりぢりになって舞い落ちる。
ちるさくら海青ければ海へちる 高屋窓秋
椿などは、美しい形を保ったままの状態で、花全体がぽたりと落ちる。
ほったりと椿落ちけり水の紋 安藤橡面坊
牡丹は花びらが一枚ずつ落ちて下に重なってゆく。
牡丹散りてうちかさなりぬ二三片 蕪村
花の咲いている時間も様々であるが、いずれにしても花は咲初めが美しい。
今朝咲きし山梔子の又白きこと 星野立子
くちなしが散る時は、美しく咲いていた花の花弁の色が少しずつ変わり、形もしおれてから土に落ちる。

令和7年9月28日 八世 坂東三津五郎 七五年フグ中毒で急逝
三十年ほど前、私が初めて「勧進帳」の弁慶をやった時、もちろん先代幸四郎さんのところへ稽古に通った。三度目に行ったとき、高麗屋の小父さんはたいへん喜んでくれて、三度来たのは俊ちゃんお前だけだ、君はこの次やる時は滝流(能の『安宅』の特殊な演出法)を是非やりなさい、と言ってくれた。
そして終戦の翌年、京都の南座でやった時は、父はたびたび見に来てくれて、いろいろ駄目(注意)を出してくれた。そして千秋楽になってからの叱言は、「お前さんのは一生懸命がむき出しだからいけない。一生懸命にやっても、それが一生懸命に見えないように、心掛けなさい」と言われた。
近頃になって父の言っていたことの意味は、実によくわかるようになったが、そんな役者になるなんて大変なことだ。父の芸を本当に好きだった人に、岸田劉生がいた。その岸田さんも生きている間は不遇だった。自分の絵が正しく評価されないことを、常に怒っていた。そして遊印に「隠世造宝」を使っていた。死んでしばらくたってから高く評価されるようになった。
絵は残る、役者の芸は死んでしまえばそれっきりだ。
今朝秋や見入る鏡に親の顔 村上鬼城

令和7年9月21日 キューブラー・ロス 「死の受容への五段階」
第一段階「否認」予期せぬ衝撃や事態を直視できず、「そんなはずはない」と否認する。心理的緩衝装置である。
第二段階「怒り・恨み」否定の感情を維持できなくなり、怒り、恨み、ねたみ、憤りの感情が表面化し、なにごとに対しても怒りや不満を抱く
第三段階「取引」延命や苦痛のない日々の保証を得るために、神や治療者と見返りを約束して取引を行う。
第四段階「抑うつ」病気に対する自覚が高まり、喪失感が増す。愛する人々との別離、残した仕事への未練、死への恐怖などから抑うつ状態になる。
第五段階「受容」嘆きも悲しみもなく、静かな状態で近づく自分の終を見つめることができる。受容には感情がない。患者は衰弱し、嗜眠(強い刺激を与えないと睡眠から覚醒しない状態。これが進むと昏睡に至る)となる。

また一人友達逝きて秋彼岸

令和7年9月14日 名嘉あゆみ (東京都 30歳)
「主人は沖縄出身ですの・・」この上なく穏やかな笑顔を浮かべながら母はそう言った。朦朧とした意識の中で母は新婚時代の夢でも見ていたのだろうか。目を半開きにしながら必死で息をしているはずなのに「主人は沖縄出身ですの・・」。黒砂糖によって母は確かにそう言った。それをはっきりと耳にした父の目から溢れ出た涙が、握った母の手にぽたりぽたりとと落ちていくのを、私はそっと見ていた。生まれて初めて見た父の涙だった。
「どんな薬よりも沖縄の黒砂糖がカラダに一番いいんだ」と言って、自慢の黒砂糖水を染み込ませたティッシュを、母の口元に必死に添えた父。最後にあの言葉を発したのは、間違いなく母が黒砂糖を味わい、そして父の思いが通じた瞬間だったと思う。そして、その言葉が母の最期の言葉になった。49歳だった。
あれから十年、結婚をして新しい家庭を持った私の元に、一人暮らしをしている田舎の父から、時々大量のお米や果物が届く。そして大きな箱の片隅に、いつも入っているのは黒砂糖。
父はあの時のことをおぼえているのだろうか。私は、未だに黒砂糖を口にできないでいる。
まだ手を振っている一本道や鰯雲

令和7年9月7日 鈴木真砂女
笑い茸食べて笑ってみたきかな
鈴木真砂女は銀座「卯波」の女将として、恋に忠実に生きた女流俳人。
仏頂面ばかりしていると鏡を見る度に我ながら思うが、仕事も忙しけりゃ、世間の風も冷たい、暢気に笑っている余裕も暇もない。落語に出てくる仏頂面の仏頂さんみたいに、たまには笑い茸でも食べて思い切り笑ってみたいものだよ。

令和7年8月31日 花冷え
癌らしき友の便りに花冷えと
亡き妻の小箱の中の桜貝
夕やけや路地に幸せ不幸せ

令和7月8月24日 小笠原諸島
父・母・嫁・婿・兄・姉・弟・妹・姪・孫・・・。小笠原諸島の島の名前は家族構成になっている。
この小笠原という名前が、信州松本の殿様小笠原貞頼からとられているのも面白い。
海のない山国の殿様が、1593年にこの島を発見、さらに1675年幕府の役人が島の名前を付けている。
いきいきと 生きたしと思う 鳥渡る

令和7月8月17日
ブロードウェイのパブリック劇場はもと市立図書館だった。市当局はその家賃についてパップにこう告げた。
「一年分の家賃として一ドルはいただかないとニューヨーク市の財政は破産してしまいます」
パブリック劇場の観客動員係に「それでその一ドルはきちんと払っているんですか」と訊くと、答えはこうだった。
「一度も収めたことはないんじゃないかな」

令和7月8月15日 夕菅
夕菅(ゆうすげ)、別名黄菅の名は、夕闇に黄色い花を咲かすところから出ている。日光黄菅、野萱草、藪萱草、すべてユリ科ワスレ草属、いとこどうしのようなものである。ただ、萱草は昼咲きで色も朱に寄る。この一族紐のような根で勢いよくふえることと、一日花であることとが共通している。忘れ草の名も一日花と関係がありそうだ。
天が下万のきすげは我をつつむ 阿波野青畝
一日花でも、見渡す限りのひろがりの中で見ることが多いだけに、花の饗宴という印象が強い。殊に、灯ともし頃に咲く夕菅は、無限の彼方に続く夢、幻を思わす。

今年も山小屋の夕菅は少し寂し気に咲いています。

令和7月8月14日 金子勝 慶応義塾大学教授
人はほめられることで、才能が伸びる。人は励まされることで、努力できる。
若い時には、こういう当たり前のことが理解できなかった。
思い出すのは、四十年前の出来事である。私は小学校四年生で学校を変わった。新たに通うことになった小学校の担任であった伊東先生が、テストの答案を返すとき、何度か「金子君は算数ができるのね」と褒めてくれた。たぶん、伊東先生は転校生の私に、早く学校に馴染ように気遣ってくれたのかもしれない。しかし私は、なぜか「自分はひょっとすると、勉強ができるんだ」と勘違いして、勉強が苦にならなくなった。人が変わるのは、些細なきっかけである。
最近、自分が学生に発する言葉が、その学生にどういう意味を持つのかを考えるようになった。
もちろん、考えない学生を叱らないわけではない。しかし、その数はめっきり減った。逆に、その学生の良いところ、努力しているところを褒めるようになった。歳をとったと言えばそれまでなのかもしれないが、実際に、私が予想しているより、ずっと学生は伸びる。
振り返ってみると、どんな人間でも、努力すればそこそこのところまでいけるものだ。結局、一番難しいのは、自分が持っている才能に気づき、その才能に自信を持つことなのではないだろうか。

令和7月8月10日 妻から夫へ 梶原英子 72歳
介護施設の行事で、お買い物ツアーに初めて参加したあなた。子どもが遠足に行ったように落ち着かなかったわ。脳梗塞で半身不随、失語症、歩行困難のあなたが、お買い物できるかしら。お金を払えたかしらと一日中心配していたのよ。
あなたは七十七歳、私七十二歳、自宅で介護してから六年。あなたは話せないことに悲観して意味不明の言葉で私を怒鳴る。私は介護疲れで泣いてばかりいたわ。毎日、忘れた言葉を取り戻そうと練習したわね。一年ぶりに「おか・・あ・・さ・・・ん」と私を呼んでくれたとき、あなたを抱きしめて泣いたわ。
イチゴ大福を大事そうに抱えて、お買い物ツアーから帰ってきたあなた。
「大好きな、奥さんにプレゼントですよ」と介護士さん。
覚えていてくれたのね。私の大好きなイチゴ大福を。
あなたに、ありがとうの手紙を初めて書きました。

令和7月8月3日 内田敏博 (山梨県 38歳)
父の職業はこの地方独特のハンコの行商だった。印材や印刻道具まで詰めた大きなトランクを持って夜行列車に乗り込むと、三ヵ月は家を留守にする。そしてまた夜行で帰ってくる。帰ってくる時の父のトランクには僕らへのお土産が、それは田舎では売っていないような絵入りの美しい下敷きだったり、童謡のレコードだったりした。
家では父は無口な人で、蓄音機を囲んで「里の秋」を聞く僕ら兄弟をニコニコしながら眺めていた。そして一週間ほどで、また行商に出かけて行くのだった。
父が他界してもう二十年も経つのだが、「里の秋」を口ずさむと、大きなトランクをさげ、鳥打ち帽をかぶって改札口から出て来た父の姿が、いまでも目に浮かぶ。

里の秋 作詞 斎藤信夫 作曲 海沼実
静かな 静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人 栗の実煮てます いろりばた

斎藤信夫がこの詩を書いたのは昭和十六年。太平洋戦争がはじまって二週間目だった。斎藤は千葉県船橋市の小学校で教師をしていた。南方で戦う父親の安否を気づかう教え子の心情を詩ったもので「星月夜」という題は「里の秋」として、ラジオから流れた。
しかし、「教師として子供たちに教えていたことがすべてうそになった」といい教師を退職した斎藤の姿を思うとき、その痛みが少しわかるような気がする。
父親の無事を心から祈る歌詞から、残された家族と父親との間に流れるつながりの深さや愛情を感じます。
「お父さんのようになっちゃだめよ」と子どもに教育するいまの家族関係は、いったいどうなってしまっているのでしょうか。

令和7月7月27 法律
美容師と理容師が一緒に仕事をしてはいけない (日本)。
同性愛は死刑 (イスラム諸国)。
死後の世界に天国と地獄が存在することを否定するものは、テネシー州においては公職に就くことが出来ない (アメリカ)。
どれも実在する法律でする
大手のチェーン店から、美容師と理容師を一緒に働かせてくれという提案がされてますが、厚生労働省が反対。
理由は「消費者のため」
いや、消費者の為なら、選べるようにしようよ。心から、そう思いました。

令和7月7月20日 叙勲
「受賞祝いの費用がない」そういって、政府の生存者叙勲を断ったのは講談の神田伯山である。
「あたしは別に勲章が嫌いなわけじゃないんですよ。講談のわからないお役人に誉められたって、うれしかないからもらわないだけなんです」

作曲家の浜口庫之助も平成二年七月、勲四等の叙勲を断った。その理由を日記にこう書いている。
<芸術家は肩書を持ったときに死ぬ>
勲章の代わりに死後、彼が眠る神奈川県の鎌倉霊園に愛娘の手で「バラが咲いた」の歌碑が建てられた。

令和7月7月13日 長 新太(絵本作家)
このあいだ顔の左半分が激しく痛むので、病院でレントゲンを撮った。
四、五日して行ってみると医者が、わたしのレントゲン写真を持って、「なにが、おかしいの?」と言う。
医者が手にした写真 (つまり、わたしのガイコツ)を見ると笑っているではないか。
顔を押し付けたとき、わたしは何を考えていたのだろう。ーー以上のような話をしたら、ある女性が。
「そんなバカなことがありますか!笑顔というものは、筋肉なんかの動きで表情となるもので、骨格そのものまで笑ったりはしませんよ。笑うガイコツなんてあるものか!」と大マジメの顔で言った。
確かにそうかもしれないけれど、わたしのガイコツは笑っていたんだもの、しょうがない。
話はちょっと変わるけど、わたしは子どもの本の絵を描いているが、ほとんどがナンセンスなもので、超現実的なものである。
子どもは喜ぶが、大人は「ナンナノヨ」と言う。ことに母親は、「こんなことが、あるものか」と、大マジメな顔で言う。
「このごろ不条理な話の絵があり、子どもはよろこぶ。しかし、わたしにはサッパリわかりません。なぜでしょうか?」
という母親の質問に、ある評論家が、「それは、あなたがバカだからです」と答えていたのを読んで大いにおどろいた。
とても私はそこまで言えない。

令和7月7月6日 加門七海
占いは面白い。当たるも八卦、当たらぬも八卦というものの、悩みのあるときなどは、つい聞いてみたくなるものだ。
「私の理想の人生は、果報を寝て待つタナボタ人生なのですが、なかなか、うまくいかなくて」
「うーん、残念ながら、あなたにはタナボタ運はないですね」聞いて、ショックを受ける場合もある。
しかし、運命は変えられないけど、運勢は変えられますから。

どこの国でもそうだけど、占い師は手腕次第で高額所得者になれる仕事だ。
噂によると、台湾のこの占い師。実はすごい金持ちなのだが、泥棒避けに貧乏なふりとか。
だが、現れた羅先生は服装の貧乏臭さのみならず、水玉のパンツまで腰から見えている。
「ふり」というより個人の資質が現れている気がするのは私だけか。

令和7月6月29日 加門七海
この世に戻ってきましょうぞ --恐山
梅雨時というせいもあり、空はどんより曇っている。私達はタクシーで山道を登って行った。
両側に迫る雑木林に点々と、石のお地蔵さんが並んでいる、途中に「冷水」がある。
原生林から滾々と湧き出してくる水は霊地に入るための清めの清水。
「一口飲めば寿命が一年延びる、二口飲めば二年、三口飲めば、死ぬまで生きる」当地ではそう言うらしい。
私はしっかり三口飲んでしまった。これで死ぬまで生きられる。・・うーん、何だか悔しい気がする。
宇曽利湖が見えてきたところで、私はまた車を停めた。降りたのは、赤く小さな太鼓橋。
この橋は善人しか渡れないと言われるが、それよりも「三途の川」に架かる橋として有名だ。
この橋を渡らなければ「あの世」に行けない。恐山はただの硫黄を噴き出す景勝地となるだけである。
橋を渡れば、私はもう死者。
「帰りも必ず、この橋を渡ってくださいね」すでに幽霊気分の私に、運転手さんが真剣な顔で言い諭す。
はい、必ずや、この世に戻ってきましょうぞ・・。
突然、芝居がかった様子で、私は静かに頷いた。
紙芝居 来し夕映えや 七昔

令和7月6月22日 続 エッチな本 林真理子
ところが、それから五年後、私は再び「青い山脈」を大声で歌うことになる。大学のテニスサークルの初めてのコンパで、上級生の男性が、身ぶり手ぶりでこの歌を歌い、そして私たちにも一緒に歌うように強制したのだ。
♪胸もふくらみ、毛も生えて、私も大人になりました。青いパンティ〜〜〜、膝まで下げてえ〜〜〜、早くして、早くしないとママが来るう〜〜〜♪。
今思うと全く下品な替え歌なのだが、それでも私の胸に、感動に近いような思いがひろがった。新しい場所と、新しい"とき"に来た。もう昨日までの田舎の高校生ではない。初めて親元を離れ、ひとり暮らしの東京の大学生なのだ。それが実感となったのは、この春歌を歌った時だ。街に出たい、恋をしたい、そしてそれらの願望がいっぺんに胸につかえ、なんだか泣きたくなったのを今でもはっきりと憶えている。石坂氏にははなはだ失礼かもしれないが、あの替え歌によって、私は「青い山脈」のエッセンスにふれたのである。

令和7月6月15日 エッチな本 林真理子
私は中学校の図書館で「石坂洋次郎」という文字を探すようになっていた。太宰治などと並んで、石坂洋次郎は青春時代にかかわらなければならない作家としてまだ存在していた。
実を言うと、親に知られてもとがめられない、「エッチな本」として、私は石坂洋次郎の本を愛読し始めていた。
「光る海」を読んだ時のショックもかなり強い。
女子大生が自分から「抱いてちょうだい」と男に迫り、セックスの話もずけずけとする。
当時この映画に出演された吉永小百合さんが、インタビューにこんなふうにおっしゃっていた。
「大胆なセリフが多くて、とても苦労しました。でも石坂先生がおっしゃるには、こんなふうなことを平気で言い合える世の中が、もうじききっと来るでしょうですって」嘘だぁ、と私は心の中で叫んでいた。たとえそんな日が来るとしても、三十年後か四十年後に違いない。どうして男と女は抱き合うのか、どうやったら赤ん坊はできるのかという話題は、私と同じようなおませな少女たちとこそこそささやき合うものであって、決してまっ昼間、男の人と堂々と議論し合うものではないはずだ。
続く

令和7月6月8日
娘へ・・・
父は風呂場の君に、「熱くないかい」と聞いただけじゃないか
なぜ水をかける
今村榮次郎 (静岡県 36歳)

令和7月6月1日 立川談四楼
役人はあまり仕事をしてはいけないんだそうです。出ず引っ込まず、目立たず、「仕事をしているフリ」が一番なんだそうで、まわりに合わせる、突出しないということでは、今時の子供達と同じ体質を有しているようで・・。
省庁で一番優秀なのは旧厚生省のお役人ではないでしょうか。昔からなんです。二十年(四十)ほど前に刊行された『厚生年金保険制度回顧録』なる本があり、なかなかいいことが書いてあるんです。
元年金課長が、社保庁長官や年金局長を前に、なぜ厚生年金制度ができたかを語っていて興味深いんです。
「基金や財団を作れば、厚生省の連中がOBになった時の勤め口に困らないから」と。
いいところに目を付けましたねえ。ホントに頭がいいんです。で、こうも言っています。
「年金を払うのは先のことだから、今のうちにどんどん使ってしまっても構わない」と。
ね、優秀でしょ。今のうちにどんどん使ってしまっても構わないなんて、バカじゃ言えませんよ。
「自分のものは自分のもの。人のものも自分のもの」という意識が徹底しているんです。
ヘイ、厚労省が旧厚生省の頃から優秀だったという話でした。

令和7月5月25日 立川談四楼
「パット開いてさせそな素振り、さすにさせない破れ傘」
下ネタと思わせといて、実はそうではないという典型の都々逸ですが、大手電機メーカーの〇×社のOBから面白い唄を聞きました。「〇×ソング」と称して、社歌として唄っていたそうです。トンコ節のメロディーでどうぞ。
1.前を開いてさあお乗り 乗ったところがチョイトいい気持ち 上へ下へと上下する これが〇×のエレベーター ねえ、トンコトンコ
2.叢かき分け押し進む 土手の周りをチョイト撫で回し 奥へ奥へと突き進む これが〇×のブルドーザー ねえ トンコトンコ
3.君のリンゴは大きいね 僕のバナナは小さいけれど 入れて回せば汁が出る これが〇×のミキサー ねえ トンコトンコ
どうです。いいでしょ、この思わせぶり。私ゃ大ウケでした。しかしOBは相当の年配でして、現在も唄い継がれているのかどうかを大変心配してましたよ。〇×社の皆さん、ぜひ継承を。

令和7月5月18日 関川夏央
年を重ねるうち、いやな気分にもなる。歯は抜ける、目は弱る。おまけに物忘れがひどくてなあ、とぼやいたら南伸坊がこういった。「物忘れといっちゃいけない。それはね、忘却力がついた、といおう。都合の悪いことを忘れる力、忘却力、なにごとも前向きに考えるものだよ」なるほど。
じゃあセックスの弱りは、色気に対する抵抗力か。一人夜半にテレビを見ながら、ニュースキャスターをののしってしまうのは独白力の増進か。そして、そのうちめでたく失禁力もついて、完璧な自由を手に入れるというわけか。
ひとりものでいることが生活上の癖なら、老いを毛嫌いするのも時代のクセにすぎない。そう見切ればいくらか心はなごむ。もっと忘却力を付けなくてはいかん、と自分を励ましつつ、中年シングルが微笑をたたえて初老シングルになりかわることも、まあ、できない話ではないと思いたいのである。
毎年恒例の大きな作品作りが始まりました。
10湊11宮坂・野中・東城 17山田・萩原 18増沢・小口 6/7漆戸・伊籐

令和7月5月11日 菜の花 高橋治
菜の花が春の到来を思わせるのは、花の色もさることながら、群れて咲く広がりのせいだ。
菜の花や淀も桂も忘れ水 言水
野や田の中をきれぎれに流れる水を忘れ水という。淀川や桂川の流域が小さくなったと思えるほど、野は春爛漫、言水は花の中に立っているのだが、次の句は視点が逆になる。
菜の花の遥かに黄なり筑後川 夏目漱石
秀句数ある中に、この一句、見逃せないというのが、御存知?
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
陶淵明、柿本人麻呂の名作を踏まえているといわれるが、まあ、いいではないか。芸術は模倣から始まる。模倣もこの域に達すれば、へたな創造ははだしで逃げ出す。

令和7月5月6日 木蓮
木蓮の花許(ばか)りなる空を見る 夏目漱石
漱石は木蓮が好きだったようだ。「草枕」にこうある。”見上げると頭の上は枝である。枝の上も、亦枝である。そうして枝の重なり合った上が月である”。花色についても鋭い描写があって、ただ白くては寒すぎてわざと人眼を奪うようだし、卑下するように黄ばむから暖かく奥ゆかしいと書いている。
一方、幸田露伴は咲き出す前が良いという。豊満で長身、色白な女は顔も見えない遠見でも人を引きつける。そんな花だという意味の文章がある。
木蓮に白磁の如き日あるのみ 竹下しづの女
この白磁の日とは、底光りしてたゆたう時間か。花曇りの太陽か。焼き物を連想させる花は案外少ない。だが木蓮の黄のまじる白い花は、李朝白磁のぬくもりある肌を、青空高く掲げたように見える。
白が白磁なら、紫の花は釉裏紅と呼ばれる焼き物の神秘的な色を思わせる。
白木蓮咲きしを閨のあかりとす 井上雪
紫木蓮歴史の中に美女がいて 船水ゆき

令和7月5月5日 森本毅郎
ソクラテスはアテナイの広場を歩きながら、こうつぶやいたという。
「まあ、なんと、わしに関係のない物ばかり売られているんだろう」
ソクラテスはここで、アテナイ市民に「知恵」を授けようとしていたのだ。ソクラテスには、人々が人生で一番大事なものを放ったらかして贅沢な飾り物などを買うのが不思議に思えてならなかったのである。
ぼくは、ソクラテスが閉じ込められていた牢獄の跡の礎石に腰を下ろして、アテナイ最盛期の広場の様子を、あれこれ思い描いた。そして、外に出ると、そこに現代の市が開かれていた。そのはずれに、石膏の彫像をゴタゴタと並べた露店があった。見ると、なかにソクラテスらしい像が置かれているではないか。ぼくは、「自分に何の関係もない」とアゴラの市を評したあのソクラテスが、現代の市で売られている皮肉に思わず笑ったが、「そうだ、記念に、ひとつ買っておこう」と、散々値切ったすえ、巻物を手にしたソクラテスの立像を買った。むろん安物である。
だが、帰国して机に置いてみると、それだけで書斎の雰囲気が、ガラリと一変した。
以来、机に向かうたびに、ソクラテスがぼくをじっと見つめる始末となった。
人生の知恵を語っているように、"汝自身を知れ" と説いているように。

令和7月5月4日 立川談四楼
なぜ「松竹梅」という言葉がワンセットで使われるようになったのでしょうか。落語『浮世根問』に出てくる都々逸から考察してみましょう。
松の双葉はあやかりものよ 枯れて落ちても夫婦連れ
「松の双葉は枯れて落ちても離れない。夫婦もその通り、共白髪になるまで生涯添い遂げるものだ」
竹ならば割って見せたい私の心 先へ届かぬフシアワセ
「これは男の気持ちだ。腹の中は竹のようにさっぱりとしている。それでも節があって締まるべきとこは締まっておりますという・・」
シワの寄るまであの梅の実は 味も変わらず酸いのまま
「これは女の心持ちだな。いくらシワが寄って年を取ったとしても、夫を好(酸)いて心変わりがございませんという・・」
夫婦、男、女の道を、松竹梅が出てくる都々逸を使って説いたわけです。
「鰻重の梅」と言っても恥ずかしくないのは、その歴史のお陰なのかも知れません。

令和7月5月3日
遠くへ行きたい。ここではないどこかへ行きたい。
空気の澄んだ雨上がりの夜、いつもは横目に通り過ぎるだけの何の変哲もない歩道橋がやけに目に付くとき、そこに上がってみることも旅である。そうして違う風景を眺めることこそが旅の醍醐味である。
読書や観劇、学問も同じだ。ときおり、人と話していてもそういう気分になることがある。
他者は見知らぬ旅先である。道があり、風景がある。山や海があり、荒野があり、洞窟があったりする。
私たちはそこでほっと息をついたり、眩しさに目を細めたり、ときに慎重に避けたりしながら歩く。
作品を旅し、人間を旅して、新たな自分を見つけることに繋がるのである。
黒き窓に翁いてなんだおれか

令和7月4月27日 作品
陶芸作品は正解などなくアヤフヤなものです。
アヤフヤだから、各人各様な世界があって、各人各様に楽しめるものかもしれません。

あといくつ迎えるか春逝けり

令和7月4月20日 作品
どんなにうまく作られていても、作品を飾ろうとして作りすぎているものは何となく色あせて見える。
これはどんな世界でもいえることだが、造花はどんなにきらびやかでも、人の心にしみるという点では、山陰に咲いた一輪の花に及ばない。

蝶々の素通りするや名なし草

令和7月4月13日 立川談四楼
「蒟蒻閻魔」
家で閻魔のように威張っていても、外では蒟蒻のようにブルブル震えている内弁慶の意。いますよね、そういう人。
東京・文京区の源覚寺にその閻魔が祀られていて、性分を直そうと内弁慶が結構訪れるそうです。
さ、そこのあなた、詣でましょう。あ、待って、私も行きます。心細いから一緒に行きましょうか。

令和7月4月6日 立川談四楼
「精神圧力」。中国語では「ストレス」のことだそうな。「圧力」が効いていて、そうだろうなと思わせます。
「美人会話」。韓国にはそんな看板があるという。いわゆる美人喫茶の類で、美人との会話が楽しめるのかと思ったら、さにあらず。「英会話教室」のことなんだそうな。韓国では「美国」と書いて「アメリカ」を指すんですね。つまり美人はアメリカ人で、美人会話は美国人から会話を学ぶという意味なんですね。

令和7月3月30日
桜の花に春を感じると言えば、在りきたりで当たり前のようだが、この二、三年私は一本の桜の木に春を思い知らされている。といっても花の名所のさくらではなく、山小屋の庭の奥にある大きな霞桜である。
この木は私が山小屋を建てた土地に随分前から生えていたもので、落葉松を伐採して、光が射して来てから咲き出して、今は見事に咲いている。
顔をあげて見ると、はるかな高みから桜の淡い花びらが舞い落ちてくる。
木の下に寝椅子を拡げ、仰ぎ寝に花を眺めてぼんやり過す日が、またやって来る。

令和7月3月23日 法律
売春のことを、よく「世界最古の職業」と言ったりします。
いわゆる(被害者なき犯罪)と言われているから、売春防止法はせいぜい1〜2年かと思いきや、
「ちょっとお兄さん、2万円でどう・・」の勧誘は懲役6ヶ月。
「あそこのビルの向かいにいい娘が・・」と売春周旋した人は懲役2年。
売春を行う場所を提供することを業とした者は、懲役7年。
一番上が、いわゆる管理売春で、懲役10年です。
ちなみに「なぜ、本番性行為自体は刑事処罰にならないか」というと、「売春に陥った者は処罰よりは救済を必要とする者である」との観点でそもそも立法されているからだそうです。
売春が違法かどうかも、国によって異なるようです。

令和7月3月16日 竹内整一
桜が咲いて散る季節は、別れと出会いの交錯する時節でもある。三月から四月にかけて、学校や職場で、どれだけの「さよなら」が交わされたことだろう。一般に世界の別れの言葉は「神の身許によくあれかし」か「また会いましょう」か「お元気で」の三つに大別される。が、日本語の「さよなら」はそこには入らない特殊な表現である。
「さよなら」という言葉は、もともとは、先行のことを受けて、後続のことが起こることを示す、「然らば」「左様ならば」という意味の接続詞であった。それがやがて、別れ言葉として自立して使われるようになったのである。
つまりそれは、これまでが「さようであるならば」、これからさきどうなるかわからないけど、わからないままに「何とかなる」「だいじょうぶ」だと、言い聞かせようとする、たくまずして編みだされてきた、いわば「おまじない」のような言葉なのである。先人たちからずっと引き継がれてきた大事な挨拶言葉である。
春一ト日おんもおんもにすぐ負けて

令和7月3月9日 崎 南海子
人は一生に何人の人と出逢うのでしょうか
おなじ瞬間にふふふと笑いあう人
一度すれちがっただけなのに 生き方をみせてくれた人
めぐり逢う人は誰も大切な人
むずかしいけれどまず
ここに存在する自分という人間を
守るのではなくたいせつにしましょう
まだ出逢ってないのにたいせつな人もいますね

令和7月3月2日 あおげば 尊し
あおげば 尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月
今こそ 別れめ いざさらば

別れの季節が来ました。

「教わったものは身につきません。自分が苦労したものだけが身につくのです」

令和7月2月23日 藤原正彦
「他人の迷惑になることはしてはいけない」というのが、最近の若者にとってほとんど唯一の道徳基準のようだ。
この標語自体は結構だが、結構でないのは、若者の多くがそれを拡大解釈し、「他人の迷惑にならないことは何をしてもよい」と思っていることである。援助交際などは両者が納得のうえで秘密に行っている限り、まったく誰の迷惑にもならないから、文句なしに肯定されることになる。
先の二つは同義ではないのである。論理的に言うと「AならばB」が正しくとも、「AでなければBではない」は必ずしも正しくないということである。
「雪は白い」は正しいが、「雪でなければ白くない」は誤りである。
必ずしも正しくない、と用心して言ったのは正しい場合も時にはあるからである。また、正しいか正しくないか判定しがたいものもある。女性に関して、「妻を愛してよい」は当たり前で誰も異論をはさまないが、「妻でない女性を愛してはいけない」については、女房と私の意見は異なる。

令和7月2月16日 月村了衛
先日ネットを眺めていると、「本を百冊近く持っている」 という自称 (蔵書家) の人が、友人知人から 「スゴい」 「図書館みたい」 「本がありすぎて気持ち悪い」 と驚かれている一方で、通りすがりの人達の失笑を買っていた。
私の正直な感想を申し上げると、「蔵書百冊」 はせいぜい中学生のレベルである。
蔵書家を名乗るのであればケタが二つ、なんなら三つくらい違う。しかし、大多数の人達には、百冊でも驚異的な範疇に入るらしい。
こうなるともう私の理解の及ぶ世界ではない。
これは、若者の貧困、国家の衰退という政治問題も切り離して考えることはできない。過去数十年にわたって国民の労働対価を収奪し、国力と文化を削り取ってきた政治の責任だ。そして、官僚の天下り先をせっせと増やしただけである。美しくないことこの上ない。
事態がここまで悪化した責任は、己の保身、と利権、名誉欲に固執した一部の者達にあることは否定できないであろう。
日本は未だ奈落の底へ着いていない。現在も加速しながら落下している最中なのだ。

令和7月2月9日 森まゆみ
20年くらい前、上海の手相見が「あなたは9の才能を持っているのに、3つしか使っていない。あとの6つを花咲かせなさい」と言った。私は真に受けて、あとの6つは、歌手かな、女優かな、政治家かな、と旅の空で考えたものだった。
瞬く間に20年が経ち、声はかすれ、セリフも覚えられそうになく、選挙ポスターに耐えられる容姿でもなくなった。
もうひとつやってみたかったのはバーのママ。カウンター越しに人の話を聞き、慰めたり、励ましたり、そんなことは得意だ。
あるバーのママは言った。「男は弱いからね、ちょっとでも褒めて元気にしてやらないとね」。
褒めるところがない男はどうするの、と私が聞くと「あら、いいネクタイしてるわね、というのよ」。
陣内秀信さんにこの話をしたら「イタリアでは懺悔を聞いてくれるカトリックの坊さんがいなければ自殺は増えるだろうと言われているけれど、日本でママや女将がいなかったら男たちはもっと自殺するでしょう」とおっしゃった。

令和7月2月2日 立川談志
奥様の「則子(くんくん)語録」
・「パパは一番大切。でも何もしてあげられない」
・「あたしはペットなの。でもいいペットでしょ。トイレも自分で行けるし、ラーメンも作れるし」
・「お風呂もプールも大丈夫なんだけど海は苦手。だって、つかまるところがないから」
・競馬の八百長事件を知って、「馬がどうして八百長出来るの?」「騎手がやるんだよ」
・「お弟子さんが増えちゃって、顔も名前も覚えられないわ。でも、お弟子さんはあたしの顔を覚えるのよね」

令和7月1月26日 火野葦平
「青春と泥濘」は、日本陸軍の戦争史で最も無謀な作戦と言われた、インパール従軍記である。
本の帯には葦平の怒声が記されている。
"誰が戦争などしやがるのか"
マラリアと栄養失調で兵士は下痢が止まらない。幽霊の行進とみまがう姿だ。ここで命を落とした日本軍は三万人という。白骨街道と呼ばれた。集落では見かねた村人が出て、まだ息のある倒れた兵士の尻を草の葉で拭いてくれた。
無残な敗走の終局は、増水したチンドウィン河に行く手を阻まれる。兵の筏は濁流に流された。
指揮官の牟田口廉也はとっくに船で脱出していた。

令和7年1月19日 努力
誰だって汚いオヤジの指導で陶芸を習うのはイヤであろう。
年齢に逆らった若作りをするのはかえって痛みを感じさせるであろうから、歳相応の、衒(てら)いも嫌味もない演出をするのが最善の策であろう。年齢と親和しつつ、男であること、女であることを忘れずにいる人はいつまでも美しい。
たとえば職人の腕前や役者の芸が、明らかに年齢とともに磨かれてゆくように、人間の魅力もまた自然に蓄積されてゆくはずなのである。ただし、職人や芸人と同様、努力を怠らねばの話である。

令和7年1月12日 出久根達郎
まもなく七十六歳になる。この年になると、明日のことがわからない。親しい知友が、次々と別れていく。
先だって十数年ぶりに再会した幼な友だちが、別れぎわ、ふと思い出したように、「ほら、覚えている? これ」 と右手を上げ、「アバヨ」 と言った。「忘れてないよ」 とこちらは 「バカよ」 と言い、右手で頭を指す。すかさず友人が 「マタ、アシタ」 と言って、上げた右手で股と足を指した。
子供の頃の別れの挨拶である。何十年ぶりだろう。「覚えているもんだなあ」 二人で笑いあった。
その幼な友だちが、まもなく本当に 「アバヨ」 をしたのである。「マタ、アシタ」 のない 「さよなら」 だった。
明日は我が身である。そういう年なのだ。

令和7月1月5日 丸元康生3
父は今年に入ってからは、日に日に体力が衰え、自宅で寝たきりになりました。
声もかすれ果てていましたが、母が質問すると、答えてくれました。
「好きな食べ物は?」「大根おろし、ナスのヌカ漬け、唐人干」
「天国に行ったら、神様になんて言われたい?」「・・歓迎しますよ」
亡くなる数日前、父は家にいた母と妹を呼び寄せ「ぼくは、もう話ができなくなるかもしれないから、今のうちに話しておくね」と感謝の言葉を伝え始めました。母は、家族がみな大好きだった父のエッセィ集「地方色」の中から、「ベゴニア」、「欅を見れば」、「十七歳」を朗読して聞かせました。父は涙を流していたそうです。
私には、父の心の内は分かりません。幸福な一生だったかどうか分かりません。
でも、
最後にとてもよい日を持てたのだなぁと、嬉しく思っています。
三月六日の朝、父は静かに息を引きとりました。

令和7月1月4日 丸元康生2
今日は死ぬのにとても良い日だ」というエッセィでは、死を間近にしたインデアンの詩を紹介したあと、次のように締めくくられています。
「こういう死は病院では迎えられない。笑い声にあふれたわが家で、老人はいま死と対面しているのだが、心にあるのは美しいもの、内なる歌声、そして生命への慈しみである。それは星の降る大地の上でしか、見ることも聞くことも感じることもできないものかもしれないが、誰しも天寿を全うしたときには、これに似た幸福感が得られるのではなかろうか。死とはまさに生涯をかけての達成なのである」続く

令和7月1月3日 丸元康生1
父、淑生は、一昨年の十一月、東京広尾の総合病院でがんの宣告を受けました。食道がんです。
父の様子は、ふだんと何も変わりませんでした。
「まだ半年あるじゃないか。みんなで楽しく過ごそうよ」 自然で、あたたかく、力強い父の声でした。
治療に関して、父の方針は明快でした。生活の質を下げて、仕事ができなくなるような治療はやらない、ということです。
父は、ベストセラーになった「丸元淑生のシステム料理学」をはじめ多くの著書を残しました。
父は、若い頃からずっとそうでしたが、毎日をアクティブに過しました。本来なら入院して安静に過ごすべき状態の時でも、通院して放射線治療を受け、すぐに仕事に出かけました。「少し休んで」という家族の声にも耳を貸しませんでした。からだが動くかぎり、休まず、精力的に活動し続けました。続く

令和7月1月2日 大西峰子
明治三十八年生まれの志村喬は、昭和五十七年、七十六歳で亡くなっている。
志村喬といえば、座するだけで高邁な人の魂の重みを醸し出せる稀有な名優である。
夫人は生涯を通して、夫に、来客にと、人においしいものを食べさせることに心を尽くし続けた。収入がなく物のない時代にも、客が来れば、嫁入支度で持ってきた高価な着物を持っては質屋に走り、惜しみなく食物に化けさせて饗応した。
夫の大きな優しい保護力、少女のように生き生きした茶目っ気のあるかわいい妻の夫婦。
夫は無口でも、夫人の明るく屈託のない心和む楽しい魅力に引かれて、多くの人が気安く集える家になったのであろう。
政子夫人は回りから何度も『志村喬』を書くように勧められた。志村本人も「この人、書けますよ」と夫人の文才を認めている。しかし、政子夫人は「書かない」の一点張りであったという。
「この世でよく捨てることを知り、名誉、利益からよく隠れることを知り、良く生きることを知っている」賢い女性がいた。
何かの本に『人徳』とは『何となしにその人に引かれ、成長させられる魅力』とあった。ならぱ政子夫人は私にとって、まさに人徳あふれる女性だった。

令和7月1月1日 正月
最近の私のモットーは「今日は昨日より美しく」です。
別に外見とかに限定していなくて、身の回りの環境でも教室でも仕草や言動でも,意識して美化していきたいと思っています。
新年は けだし心の なかのこと