陶芸教室6に続く

令和6年12月31日 師走
人間、年をとればボケるのである。そりゃ、なかには米寿、白寿と生きながらえながら、最後の最後まで頭だけはしっかりしたままめでたく大往生をとげる人間もいることはいるけれど、あれは稀有なる例外と知るべきであって、人間が天命に逆らってこんなに長生きするようになった以上、ボケて当然、ボケないほうが不自然である。
幸か不幸か、たぶん不幸に違いないと私は確信しているのだけれど、長生きしすぎてしまった報いがボケという肉体現象なのだと考える。
呑む 打つ 買う 卒業して認知症

それではまた来年お逢いしましょう。

令和6年12月29日 佐藤愛子
あなたの思い出話は面白い思い出ばっかりね。辛いこともあったでしょうに」といわれることがある。
確かにこの世には辛いこと、耐え難いことが多すぎる。思い出すだけでも耐え難いことは私なんぞには山のようにある。
私はだから辛い思い出を押し退けているのだ。それだけのことだ。思い出は気らくなのがいい。
もう間もなく死ぬというのに、何も今更後悔や懺悔の伴う思い出に浸ることはないのである。
老いぬれば何ごとも気らくなのがいい。
めんどくさがりやにはそれが一番ですと答えたが、それにしても私の思い出はどうしてこうろくでもないものが多いのだろう。

令和6年12月22日 熊谷守一
下手に描けたからといって
消してもやぶっても
下手に描けたという事実は消すことはできない

令和6年12月15日 鴻巣友季子 (翻訳家)
毎年、いまぐらいの季節になると、私は「翻訳行脚」の旅に出る。
翻訳の話など地味で地味で申し訳ないぐらいだが。意外にも、どこの高校に行っても、熱心に聴いてくれる。
さて、ここで、これまでの講演会で出会った名訳をご紹介したい。
この年、わたしは四年半かけて訳し終えた『風と共に去りぬ』を上梓したところだったので、スカーレットが最後につぶやく有名な台詞、Tomorrow is another dayを訳してもらった。
日本では、「明日に望みを託しましょう」「明けない夜は決してない」など、かなりポジィティブに、ちょっと優等生的に訳されることことがあるが、実はいい意味でもっと "いいかげん"なのだ。災禍が降りかかってくるたびに、彼女は目下の精神的激痛をやり過ごすため、「なにもかも明日考えればいいのよ」とおまじないのように唱える。
生徒たちからは「明日から新しく始まる」「明日また続きをやろう」などの訳文が出たが、極めつきは、「とりあえず寝よう」である。明日からまた苦難と闘う。でも、今日のところは寝てしまおう、というニュアンスだろうか。みごとなのは、原文と同じくらいの短さで、絶妙に音まで似ていること。
とぅまろーずあなざでい。とりあえずねよう。ほら、どうですか。妙訳でしょう。

令和6年12月8日
秋になると庭に落ち葉が溜まるから、掃き寄せて焚く。
落葉を焼く煙りを見ていると、いろいろ忘れていた昔を思い出す。
昔住んでいた家、酒を飲みに通った酒場にもう一度行ってみるつもりでいる。
別に昔を懐かしみたいからではなく、何か忘れていたものを探してみたいのである。
探したからといって見つかるものではないことはわかっている。
恐らくこの五十年をかなりいいかげんに過してきたのをあらためて知るだけだろう。

成功と虚栄は人間を弱くして、未熟のまま年をとらせる  フェリーニ。

令和6年12月1日 レナットゥス
シ・ヴィス・パーセム・パラ・ベイルム」
「平和を望むなら、戦支度
(いくさじたく)
をせよ」 四世紀ローマの軍学者レナットゥスの言葉
いまも根本的には、ほとんど変わっていない。

令和6年11月24日 池澤夏樹
北海道の地名を見ていると、人がどういう原理によって土地に名を付けてきたかがわかる。
美唄は元のアイヌ語ではビオパイ、「カラス貝がたくさんいるところ」だそうだ。
美深はピウカ、「石原」の意とか。
美瑛はピイェ、すなわち「白濁した川」。
近年になって人が自然から離れた分だけ地名も恣意的になった。
幸福、愛国、平和などの抽象地名は土地とのつながりが皆無というところが寂しい。
最近では商品名としての地名が増えた。新興住宅地に見栄えのいい名を付ける。
その結果、「ひばりヶ丘」のような地名ばかり。ヒバリはいないし、だいいち丘でさえない。
希望ヶ丘に希望はあるか?

令和6年11月17日 善因恵果
私は子供の頃から、いろんな事に期待しないよう心がけてきた。その結果、期待することのワクワク感がほとんど失われてしまっている。これは淋しいことだ。期待して、はずれて、ガッカリするほうが、まだましなのかもしれない。
仏教では、すべてのことには原因があると教える。因縁とか、因果という考え方だ。
善因恵果、といい、悪因悪果などという。
運不運が五分五分であれば諦めもつくが私のこれまでの体験では、幸運二分、不運八分、といった感じで、ハズレの方が多い。
そう覚悟していれば、不運にも、かなり平然としていられる。負け犬の思想のようだが、意外に逆境に強いのがその発想だ。

令和6年11月10日 恥ずかしい
私は失敗することにかけては人後に落ちない。
うーん、恥ずかしい。実に恥ずかしい。口に出してつぶやいてみると、顔も赤らむ思いである。

私は疲れ果て、傷つき、失意の底に沈みこんでいた。
これからまともに生きていくことはできない、ひっそりと旅に出よう。
一番慰めになったのは、無心に生きている動物や物言わぬ草木だった。これからは草木を友として生きていこう。
ニ三日すると少し立ち直り、放浪の旅は延期し、山小屋へ行くことにした。
山小屋で枕に顔を埋めてしばらく泣いたのち、写経。

令和6年11月6日 池内紀寿
七十ニ歳になった。なんとすごいトシヨリになったことだ。見知らぬ森に迷い込んだようである。
なにしろこれまで、こんなすごいトシを経験したことがないので、日ごとに戸惑うことばかり。
若かったころ、かいのない憧れや、身を灼くような煩悶や、いらざる妬みに苦しんだ。
そしてひそかに思っていた。いずれ年齢をかさねれば欲望が薄れていく。
憧れ煩悶も妬みも薄れ、トシとともに消えていく。それが老いの効用というものだ。
すごいトシヨリになってみてわかったが、欲望はちっとも薄れない。薄らいだふりをするのが上手なっただけである
トシヨリに不機嫌な人が多いが、自分で自分に腹が立ってならないせいではあるまいか。
私は喜寿(七十七歳)になりました。
老いてくると日々が単調になる。年寄りは「一日がアッというまに過ぎて行く」という。
健康は病気にならないとわからない。若さは老いた身になって初めて判明する。

人間関係には、巡り合わせの妙、というものがあります。
私と生徒さんとの間に、いい巡り合わせがあったということなのでしょうか。

令和6年11月3日 雑草
数ある植物の中で、土壌改良できるものは雑草だけだといわれている。
土が硬い場所にはギシギシやタンポポなどの地中深くまで根を張るものが生え、土をほぐしてくれる。
酸性の土壌にはスギナが生え、枯れてカルシュウムを補給し、中和しようとする。
雑草が生えるのは、壊された生態系を取り戻す第一歩なのである。
つまり雑草が生えることには、すべて意味がある。
その意味をすくい取る感性が我々人間に残されているか、雑草に試されているのである。

令和6年10月27日 笑顔
表情を作るのは難しい。「笑って」と言われて満面の笑みを作れる人は、相当訓練された俳優か、生まれついての俳優だ。笑おうと思って本当に笑える人はいない。表情がなくてカメラマンを困らせることもある。
「表情が硬いですね。緊張してます?」。特に緊張していないのだが、いやぁ、と薄ら笑いを浮かべるにとどめる。

令和6年10月20日 日本語練習帳 大野晋
違いは?
「思う」と「考える」
「ので」と「から」
「大学へ行く」と「大学に行く」
「大野さんと会う」と「大野さんに会う」

令和6年10月13日 喜角田光代
自分がどういう人間か、年々考えなくなる。若い時はよく考えたし、その自分を変えたいと思い悩みもした。
加齢にしたがって自分に興味がなくなる。まったく、ではないのだろうが、若い時ほど、他人の目も気にならなくなる。
以前の自分理解は、自身による内省や観察で「私はこのような人間である」と、たとえ間違っていたにしても理解していた。
このごろ私がひそかに驚いているのは、自身の、あまりの小心さ、慎重さ、そして根気強さである。
私はまったく私を誤解していた。長らく、自分は無謀で無計画で軽率で飽き性で怠けものだと思っていた。
そのように行動してきたし、幾多の失敗はそれらが原因だと思っていた。
意図せず自分と出くわさせてくれるのは、周囲の、まことに奇妙な人達なのである。
自分以外の人はまことに奇妙なのだなあというのも、最近知ったことだ。
もちろん、他人から見た私も例外ではなかろう。

令和6年10月6日
野には秋の風がふき、山では山のクリがはぜていた。アケビは樹上で、大きな口をあけていた。
谷では山ドリの声。その声は、夕暮れ時の声なのだ。
西の空が、ほんのり紫に染まりはじめていた。

令和6年9月29日 坪内稔典
先日、あるお寺で四天王に踏まれた天邪鬼を見た。いや、その日の目的は四天王を見ることだったのだが、なんだか四天王に踏まれた天邪鬼ばかりが気になった。気になりながら、ふと吉本隆明を連想した。なぜだろう。
では、吉本隆明さんに追悼の一句を捧げたい。
桜咲くぐしゃと踏まれて天邪鬼

令和6年9月22日
さわやかな風がとおりすぎ、苔むす山の匂いがたちこめて、ここは清浄の地だ。
春はツツジの花が咲き、秋はリンドウの紫が、ひっそり詩情をまきちらす。
静寂の中で夢見る夢の楽しさは遠い昔からずっと、いまに続いてきた、と思う。

令和6年9月15日 土屋賢二
敬老の日が作られて久しいが、老人をうやまうのが一年で一日でいいと考えている者は一人もいない。
老人は一年に一日では少なすぎると考え、若者は一年に一日では多すぎると考えている。
老人が自分を尊敬するように叫ぼうとも、尊敬を要求するものは尊敬に値しないとされているから、泣き寝入りするしかない。年をとっているだけでは尊敬されない時代だ。
老人が尊敬されるには実力がなくてはならない。実力がないなら金がなくてはならない。
実力と金がないなら、実力か金があると思いこませなくてはならない。
多くの老人はどれも不可能だと考えて諦めているが、金はともかく、実力で老人が優位に立つ方法はある。
一口に実力といっても、分野はさまざまだ。将棋の分野で実力があっても、水泳の能力があるとはかぎらない。
老人が得意とするような分野も数多くある。
どんな分野を重視するかということが、老人を尊敬するかしないかの分かれ目になる。

令和6年9月8日 山小屋
いつの間にか、山は黄昏。さあ、帰ろう。
空は紫に染まり、山鳥が二羽、仲良く塒へ帰っていった。

令和6年9月8日 立川談四楼
「お前との結婚は、相撲で言うと金星だな」
「あら、私は勇み足よ」

令和6年9月1日 警告
「人のふり見て我がふり直せ」は、もう通用しない。
「あいつもやるなら、おれもやる」で、啓蒙は奨励になって、警告にならないのだ。

令和6年8月25日 平和
考えてみれば、八十年の長きにわたって全く戦をしなかった国というのは珍しい。
しかも国内の治安は良く、ほとんどの国民は本物の銃器に触ったこともなければ銃声を聴いたこともない。
それはそれで素晴らしいことである。
しかし、昔、ベトナムに平和を(べ平連)とか、PK0議論とか、戦闘機は他の国に行ける長距離はだめだとか、公的メディアで論じ合う連中は、全員どうなったっててめえが死ぬはずはないので、口ほどは真剣ではなかったのである。
評論家という無智な人間が無責任なことを言うのは、平和な国・そして時代の証明であろうか。

令和6年8月18日 金子酒音留 (かねこしゃねる)
 五分だけ泣いて洗濯栗の花
何か辛いことがあったのでしょう。思い切り泣いて、一気に胸のつかえを吐き出してしまおうと言うのです。
涙はあらたな涙を誘うから、"五分だけ" と最初に自分で区切りました。
手放しで泣いたあとは、すぐに気持ちを切り替え、日常に戻って洗濯をはじめたのです。この潔さ。
涙は心の選択をしてくれるのですね。女性の強さと可愛らしさを感じさせる清々しい一句です。

栗の花はブナ科の落葉高木。およそ花のイメージとは遠い毛虫に似た花をつけ、独特の匂いがあります。

令和6年8月16日 ひめゆり学徒隊
鉄血勤皇隊やひめゆり部隊を初めとする女子学徒隊は、今でいう中学生と高校生で編成されていた。
その総数は二千三百六十一名に及び、過半数の千二百二十四名が死んだ。
流行歌のかわりに軍歌を唄い、美しい母国語を吶喊の悲鳴に変えて死んで行った少女は、撃ち倒されて仰ぎ見たふるさとの青空に、いったい何思い、何をを見たのであろう。
ダブダブの軍服を着せられて、鉄兜をかぶせられ、銃を持たされた少女は、おそらく恋も学問の楽しみも知らなかった。
だだ、自分の死ぬべき理由だけは、正確に知っていたと思う。それは祖国のために死ぬということ、日本のために死ぬということである。

令和6年8月15日 御高配
昭和二十年六月六日夜、大本営の海軍次官あてに一通の電報が届いた。
激戦の続く沖縄で孤立無援の那覇空港付近を守備する、海軍根拠地隊司令官・太田実少将からの緊急電である。
文面はいきなり 「沖縄県民の実情」 から始まる。以下、いわゆる「決別電」の成句である勇ましい戦闘経過や将兵の敢闘ぶりについて、この電文は一行一句も触れない。ただ綿々と、沖縄県民が祖国の防衛に身を捧げ、家屋財産を失い、大変な辛酸をなめたと書きつづる。
男子は老人から少年まで軍とともに戦い、若い女性は斬込隊を志願、看護婦となった女学生は軍が残置した重傷者を介抱した。依然として作戦経過や戦闘の美辞麗句は一言も記されていない。そして、本戦闘はすでに末期であり、沖縄は一木一草もない焦土と化してしまったと述べた後で、太田少将は万感をこめて、電文をこうしめくくる。
ー沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
電文には「天皇陛下万歳」 も 「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」 もない。沖縄県民はこのように戦ったのだから、後世決しておろそかにはせず、格別の処遇をして欲しい。
太田海軍少将はこの電報を玉砕の決別電として、六月十三日、豊見城村の司令部壕で自決した。

令和6年8月14日 見る
書家の故鈴木翆軒翁は、上州四万温泉に滞在していたある日、細い滝が石の上に落ちてははねあがっているのを見て、悟りを開いたといいます。「七十年間苦しんでいた ”の”の字の返し〈ハネ〉がやっとわかった」ということです。長時間見つめていて、ひらがな一字の転折(返し)の呼吸(阿呍)がやっと理解できた、というのですから、あきれた深さです。
深く見る、ということがいかに大切であるかを、現代に生きるわたしたちは、もっと考えてもいいのではないかと思います。

令和6年8月11日 藤原正彦
もののあわれは、四季の変化にめぐまれた日本の繊細で美しい自然により育まれる。
この情緒は我が国の有する普遍的価値である。普遍的価値を創出した国だけが、世界から尊敬される。
経済的繁栄をいくら達成したところで、羨望や嫉妬の対象とはなっても尊敬されることはありえない。
英国の個人当たりGDPは日本のそれの六割程度である。にもかかわらず世界は英国の言うことにじっと耳を傾ける。
英国は議会制民主主義を産んだ国である。力学のニュートン、電磁気学のマクスウェル、進化論のダーウィン、経済学のケインズを産んだ国である。
シェイクスピアとディケンズの国である。このような普遍的価値に対し敬意を払うから、その意見を傾聴する。
ドイツやフランスも同様である。我が国も紫式部や芭蕉といった十世紀に一人の天才を産んできた。
華道、茶道、書道、能、狂言、歌舞伎、柔道、剣道など枚挙にいとまがないほどの普遍的価値を産んできた。
ごくローカルなものの中にも、親孝行や交番もそうだし、リストラのない社会も終身雇用という福祉もそうであった。
グローバリズムの跳梁に幻惑され、気軽に捨てたものの中に宝物がいくつもある。

令和6年8月4日 長谷川町子
漫画「サザエさん」は昭和二十一年、疎開していた福岡で「夕刊フク二チ」に依頼されて始まった。
家の裏が海で、浜辺に寝ころびながら想を練った。登場人物が海産物がらみなのも、そのせいである。
人見知りが強く、恥ずかしがり屋なので、漫画家との交際も、ほとんどない。
一九九一年の暮れ、机に乗って高窓を閉めようとして転落した。
打撲の痛みで徐々に食欲がなくなり、翌年五月二十七日の朝、亡くなった。
姉には常々、病気になっても入院し手術をしない、と言っていた。
また密葬し、納骨がすむまで公表しないでほしい、と頼んでいた。新聞には五七日の七月一日に公表された。
町子は生前、インタビューや対談などで、しばしば、ひっそりと引退したい、と訴えている。
新聞の四コマ漫画は、短編小説を毎日一篇ずつ仕上げるような過酷さである。
人を笑わせる人は、七千回余の連載の陰で、胃を五分の四も切り取るほど体を痛めつけていた。

令和6年7月28日 公文書館
米国国立公文書館の周りに像が四つある。それぞれ未来、過去、伝統、保護を象徴している。
右側で巻紙を持っている老人の彫刻の土台には "過去を知れ" と彫られている。

令和6年7月21日
この自然界のものは何を見ても不思議です。
一匹の蟻、一輪の花、一羽の鳥にしても、見れば見るほど、何と不思議なことであることか。
色にせよ、仕組みにせよ、ただただ驚くばかりです。
ヒマワリのあの種の見事な並びよう。チューリップの花の中はびっくりします。
筍の皮をむくと、中身は親竹になるまでの節が全部出来上がって詰まっています。

「竹の子をむけばビルマの搭になる」

令和6年7月14日 大きな作品
相変わらず本はバカに買い込むのですが、さっと見て読む暇のないまま、積まれるばかりです。
  人それぞれ 書を読んでいる 良夜かな
令和6年7月7日 乳房
西東三鬼に「おそるべき君等の乳房夏来る」という世評高い句がある。
あの大虚子にも「浴衣着て少女の乳房高からず」という句がある。
でも、柚子湯こと土屋耗一さんの「大乳房あたまは弱し四月馬鹿」のほうが、私は好きである。

令和6年6月30日 愚痴
愚痴 (ぐち) 。「愚」はおろか、「痴」は道理に暗いこと。
言葉を尽くしていくら相手を責め立てても、それで自分が救われるわけではない。
どうにもならないものは、どうにもならないのです。
生徒さんの大きな作品(展覧会作品)12個の釉掛けが終わりました。これから本焼きです。
7月末の展覧会までに焼き上げます。

令和6年6月23日 大きな作品
山本夏彦の持味は諦念と開き直りである。
「馬鹿は百人集まると百倍馬鹿になる」
「善良というものは、危険なものだ。殺せといえば殺すものだ」
「身辺清潔の人は、何事もしない人である。出来ない人である」
「職業には貴賤がある」
「言葉は乱用されると内容を失う。敗戦このかた、平和と民主主義については言われ過ぎた。おかげで内容を失った」
「何用あって月世界へ?月は眺めるものである」

令和6年6月16日 立川談四楼
スイートルームはカップルや新婚が泊る部屋と理解し、スイートは甘いの意と思っていたのですが、この度、衝撃の事実が判明しました。スイートとは、「次の間付き」の意だというのです。つまりどんなに広くても高い値段でも、ワンルームはスイートではないのです。知らなかった。甘いの意で、方々喋り散らしちゃったもんなあ。

「鬼も十八、番茶も出花」これを「娘十八、番茶も出花」と間違って覚えている人が多いとか。
はい、私もその一人です。アチャー。

令和6年6月9日 清原亜希
「人間は上ばかり見ていたらキリがない。自分の足元を見なさい」五年前に他界した母の言葉です。
母は私が十八歳の時にプレゼントしたオパールのリングを亡くなるまで、肌身離さずに身につけていました。
もっと高価なものを買ってあげようとしても、「これはあなたが頑張って働いたお金で、最初に買ってくれたものだから、ずっと大切にしたいの」と言ってくれました。
その最愛の母が亡くなった年に長男を授かりました。
無条件に私を頼ってくる存在。私がどんなことをしても守らなくてはならない存在。女性としての幸せを噛みしめました。

令和6年6月2日 立川談四楼
麻生さんが漢字を読めないのは有名です。
ミゾユウ(未曽有)、ハンザツ(頻繁)、サンガ(参画)、ショチ(措置)、ユウム(有無)、ギソウウケアイ(偽装請負)。
ギソウウケアイには驚きました。偽装を請け合ってどうするんだよ。
衆議院初立候補の時がすごかったそうですね。有権者を前に「
下々(しもじも)の皆さん」とやったとか。
シモジモ。インパクトのある言葉です。でも「よく読めたね」の声もあったそうです。
「カカ」「ゲゲ」、どちらかを言った可能性もあるわけです。

令和6年5月26日 暇  立川談四楼
「やって!TRY」で「貧乏■なし」という問題が出た。
正解者は十二人中二人、しかも二人のうち一人は漢字が書けずというもので、ウケたのは不正解の「貧乏財布なし」であった。
貧乏だから財布を持つ必要がないのだという理屈を女の子がこね、ここへ割って入った男友達が「バカ、カネがなくてメシが食えないんだから、"貧乏食欲なし"ってんだよ」と言い、見事な割れ鍋に綴じ蓋コンビがいるものだと、感心したのでした。

令和6年5月19日 大きな作品
何事も同じだと思いますが、陶芸も長くやっているとだんだん上手くなる。
「もっと下手に、もっと乱暴に」 と私。
つまり、上手ければ同じものを大量に生産する職人と変わらない。
職人にできないのがアマチュアの味だからです。

令和6年5月12日 ハダカデバネズミ
ハダカデバネズミは東アフリカに生息し地下にトンネルを掘って生活している。上下二本ずつ生えている出っ歯は、ささやかな目や耳や鼻を押しのけ、強い存在感を放っている。そして彼らは、寄生虫を防ぐため、未練なく毛皮を捨て、内臓が透けて見えるほど薄く、皺だらけでたるんだ皮膚を、惜しげもなくさらしている。十九世紀、世界で初めて発見された時、死にかけているか、逆に生まれたてでまだ完全に成長していないと、本来あるべき真っ当な姿とは思ってもらえなかった彼らである。
平均八十匹、最大三百匹となる群れの中に、赤ちゃんを産む女王様はたった一匹。彼女と交尾できるオスは一~三匹。残りは外敵が侵入してきた時、真っ先に駆け付けて食べられる兵隊と、雑用をこなす働きデバたちで構成される。
中でも一番心ひかれるのは、女王に赤ちゃんが生まれた時、働きデバの一部が床に寝そべって肉布団になる事実だ。何と健気な犠牲の精神であろうか。一方、女王様は、さぼっている者を叱る。叱られた者は、仰向けに転がり、前足を「どうぞお許しを」と懇願するように顔の前で固まる。お腹に寄った皺がいっそう情けなく、哀れを誘う。
「これは一体、どうしたんですか」と声を上げてしまうほどにやせほそった、痛々しい一匹がいる。それは、女王との繁殖を許されている王様のデバだった。出産を繰り返すごとに体が大きくなる女王に比べ、王様はどんどん痩せてゆく。
見ていた男性達は、心からの同情をこめ、深々とため息を漏らした。

令和6年5月5日 静岡県 足立幸子 (47歳)
♪匂い優しい白百合の・・・「北上夜曲」
昭和三十年代後半の頃である。野良仕事、そして機織りを真っ黒になって切りまわす疲れ切った顔の母。
口から出るのは深いため息ばかり・・・。子ども心に母は歌を忘れたカナリアなんだと思っていた。
が、ある夏の夜、湯上がりにほてる体を庭先で涼ませている母の後ろ姿から、確かに聞いたこの曲。
消え入りそうなもの哀しいその歌い方は、タオルの隙間からのぞいた白い乳房の色香と重なり、声をかけるのがためらわれた。
あのときの母の歳を私はとうに越えた。
"匂い優しい" と口をついて出るとき、一瞬見せた母のあの青春の輝きを思い出し、胸がせつなく締めつけられる。

令和6年5月4日 渥美清 最期の日々 篠原清治
私は、寅さんの撮影の間、付き人兼、諸々の雑用係として、亡くなるまでの十四年間、渥美さんに仕えました。
渥美さんは、映画の寅さんのように、飄々と、楽天的に晩年を生きたわけではありません。
渥美さんの晩年は「老い」や「病」との凄絶な日々でした。世の中の多くの人と同じように「死ぬのは、いやだねえ」と言いながら、やがて力尽き、そのときを迎えたのです。
「人間、嘆いたり、ふてくされたりしちゃいけないね。精一杯生きていれば、年をとったって、それなりに、その人にしかできないことってのがある。それを誰かが真似したくなることだってある。だから、精一杯生きなきゃいけないんだ」
これも、琵琶湖を眺めながら聞いた渥美さんの言葉です。

  遅き日の つもりて遠き むかし哉

令和6年5月3日 宮子あずさ
精神科に移って、うつの患者さんとかかわるうち、自分の気ふさぎのメカニズムがわかった気がします。
それは、気力が落ちた時に、忘れる力が落ちるということ。人間、生きていれば誰でも些細な失敗はしでかすし、人間関係のきしみだって当然ある。どんなに隙のない人だって、それがまったくないわけではないでしょう。
それをうまく忘れていくからこそ、私たちは楽しく暮らしていけるのです。人間が生きていくためには、あまり細かいことは覚えていない方がいいのかも。嫌なことは程良く忘れていくからこそ、私たちは生きていけるのです。
その一方で、実は私たちが忘れたと思っていることも、別の所にそれがプールされているんじゃないか、なんて、脳を研究する人がいます。ある時それが制御不能になってあれこれ飛び出してきたら、私は過去の恥に押しつぶされて、パニックになるに違いありません。
私は、うつ病は単なる心の病気ではないんだと思います。それは、ある意味で思考過程の狂い。
考えつく内容自体が正常でも、とにかく自分が傷つくように回る思考は、それ自体が病気のメカニズムなのです。
高血圧の人が降圧剤を飲むように、快適な暮らしをするために、抗うつ剤を必要とする人がいます。
精神科の薬を飲むことを特別視する考え方は偏見ではないかと思います。何回かの通院で治る人も少なくありません。
これが、うつ病が「心の風邪」と言われるゆえん。多くの人がかかり、大過なく治っていく心の病気、それがうつ病なのです。

令和6年4月28日 満ち足りた死
安らかな死を迎えるための五つの言葉、
「あなたを許します、私を許してください、ありがとう、愛しています、さようなら」
アイラ・バイアック博士
春の暮れ 家路に遠き 人斗(ばかり)

令和6年4月14日 変哲 (小沢昭一)
 カアチャンよ働きすぎだ玉子酒
「句集 変哲」にある句ですが、いいですねえ。カアチャンが風邪で寝込んでしまった。
たまに台所に立ったトウチャンとしては、慣れない手つきで玉子酒をつくる。
他のだれでもない、小沢印のハンコがぺたりと押された句です。

令和6年3月31日 夫の宿題 遠藤順子
作家の遠藤周作氏は頼りにしていた、かかりつけ医の不注意により、重病を得た。間違った薬を服用させられていたのである。しかも内科医の常識とされていることさえ守らず、遠藤氏が亡くなるまでの三年半、見舞いの電話一本、ハガキの一枚もよこさなかった。
本書は、いかに医者選びが大切か、実例をもって説いている。
それにしても、あれほど生前、医療問題に真剣に取り組んでおられた遠藤氏が、肝心の医者に足をすくわれるとは、何という皮肉だろう。不運としか言いようがない。

令和6年3月17日
小津安二郎の映画で、老夫婦が「いまが一番しあわせな時かも知れないよ」とうなずきあう場面がある。
家族のしあわせな時というのは、明日もの保証はなく、たった今だけなのだ。
誰か一人が倒れると、家庭の時計は、いつも通りに動かなくなる。
花を美しく眺められたことが、夢のように思えてくる。
  思い出す 妻の旧姓遠花火。

令和6年3月3日
強い香りの梅の花が散り始めると、菜の花が畠一面に咲き、周囲にはかわいい紫紅色の蓮華のしとねが広がってゆく。こんな季節になると、私の大好きな桜の便りが南から届いてくる

令和6年2月18日 家族
家族の話は人にするにも、また人から聞くにも遠慮がある。
問題の一つや二つを抱えていない家庭はない。しあわせいっぱいの家族だけではないのだ。
そんな問題や不幸を、包み隠さず、淡々と人様に語れるようになるのは、やはりそれ相当の年齢だろうか。
若い時はとてもそんな気になれない。
自分の家庭だけじゃないんだ、どこでも同じような悩みを持って生活しているんだ、とわかるのは、老年にさしかかった年代だろう。いろんな人と会い、さまざまな体験をして、初めて自分の特殊でないことに気づくのである。
大体、何事に限らず特殊というものは、めったにあるものでない。

令和6年2月 4日 「花」 東京都 志村久恵 (三十八歳)
老人ホームの廊下の長椅子に腰かけ、実習生の私は六人の痴呆性老人と歌を歌っていた。
何曲目かで、♪春のうららの墨田川・・と、この歌を歌いだした時、今まで静かに聞いているだけだったAさんが初めて口ずさんだ。
それも笑顔で。私は嬉しくて、何度もこの歌をくりかえし歌った。
歌え終えたところへ、五十歳くらいの男性が私に声をかけてきた。涙ぐんでいた。
「母が痴呆になってから笑顔を見たことも、まして歌を歌うなんて。あんなに楽しそうに皆さんとご一緒できるなんて。ありがとうございます」と。Aさんの息子さんだった。
老人福祉の仕事をつづけながら、私自身迷ったときはこの歌を歌ってみる。
私には世界を救えないとわかっている。でも、誰かを助けることなら、次世代の人を少しだけ守ることなら出来るかもしれない。

令和6年1月28日 細川護熙
墓石といえば、たいていはそこに字が彫ってある。「○○家塁代の墓」とか享年、戒名などがそれだが、外国の墓碑銘では、なかなか気の利いたものがある。パリのシテ島にあるスタンダールの墓碑銘「生きた、愛した、書いた」はさすがに洒落ている。歌手のフランク・シナトラの墓には「いちばんいいのはこれからだ」と書かれているそうで、これも面白い。
わたし自身は自らの墓碑銘として「長居無用」というのを考えていたことがあったが、いまは石に小さく「不東」とでも彫っておこうかと思っている。自分が死んだ先のことはどうでもいいといえばどうでもいいことかもしれないが、いずれにせよ、墓は簡素なものがいい。世俗の栄辱は来世に持っていくるものではない。

令和6年1月14日 日々の心得  細川護熙
1、即起  朝、目覚めたら床の中で惰眠をむさぼることなく、ただちに床を離れて一日の活動の準備に入る。
2、作務  ろくろ、農作業や掃除など、体を動かして汗をかく仕事全般。
3、夜不門 夜の巷を遊び歩いたりせず、会食などの付き合いも控える。
4、読書  そして夜はひとり静かに「習字」や「読書」をして過ごす。ここまでが毎日のルーティン。
5、勤倹  衣食住すべてを可能な限り簡素に暮らす。
6、居敬  誰に対しても敬意をもって謙虚に接すること。
心がけとして、私もこれを自分に言い聞かせて日々過ごしています。

令和6年1月7日 元気なうちの辞世の句 米田久美子 富山県・六十一歳
 これよりは あせらず生きて 百日紅  (百日紅・・夏から秋に咲く。幹はなめらかで猿も登れないという意味の名)肩の力を抜いて生きる。無理をせず見えをはらず、自分らしくゆったりと生きていけたらいいなあとつくづく思う。子育てや仕事をしていた頃は、いつも何かあせっていたような気がする。

令和6年1月3日 極寒
一月初めの小寒から、大寒を経て、二月初めの立春まで、この間ほぼ一か月がもっとも寒さの厳しい季節である。
しかし、冬来たりなば春遠からじ、寒に入った瞬間から春に向かっている。

オトロエの進む私に何か妙薬はありますか?
令和6年1月2日 陶芸教室
下手下手と思わないで、上手上手とうぬぼれること。楽しくないと続きません。

下手の一生懸命は上手の小手先よりも遥かに素敵です。

造っているうち自然に自信が湧いてきます。自分でも造れると思わないうちは造れません。
造れる造れないは自分が決める事なのです。

  行きかう人の下駄が気になる初詣

今年も元気いっぱいの年にしましょう。

令和6年1月1日 正月
いくつになっても、お正月になると、ちょっと改まった厳かな気分になる。
元日にはまず「若水」(我が家では水道水) で顔を洗い、二人で神棚にお参りしてから、
「おめでとう」の挨拶をかわし、お雑煮を食べるというのが、我が家の習わしだ。
今年は喜寿(77歳)になります。

共白髪 喜寿には似合う 古畳
喜寿の賀や 妻と手をとり 初詣