一時的に革命の旗印にされた第一条「自由と平等」理念はもともと政治上の権利に過ぎず、哲学的評価基準としての「幸福の追求」(ミネソタ大学人権図書館による日本語翻訳の「序文」を見よ)を伴っていなかった。つまり、「幸福の追求」が表象される第四条「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある」が無視された。「民主主義は絶対性を伴わない」ことを内容とする哲学理論が抜け落ちたまま、民衆は「自由と平等」理念に絶対性があると思い込んだ。この結果「自由と平等」はカルト思想に転化した。カルトとは絶対的な判断基準が存在すると信じ込む行為であり、このカルト思想によってマラー、ロベスピエール、ダントンなどの恐怖政治が姿を現した。

実にビスマルクはこのようなフランスと対峙するためにドイツ帝国を創始したのでありますから、彼の視点から見れば、暴力主義にたいして暴力主義を採用するのは当然であり、ドイツにも皇帝をつくり、皇帝という絶対的権威に従っておれば、他人の金を盗もうが、弱い者いじめをしようが、なにをしても許される、と考えたのもおかしくない。つまり、フランスとドイツは同罪だったのです。

ただ、フランスとドイツが異なっているところがただ1つあります。

皇帝という地位には絶対性があります。だから、ビスマルクは、この絶対性の理論を確立するために、たまたまそのときに流行していたカント哲学を利用してドイツ哲学を「施政方針の一部」として構築したことです。カント哲学は絶対精神を核とする哲学です。ドイツ帝国の大学は小規模の王侯国家によって設立されたものですが、ビスマルクは、の帝国のなかの諸大学を「文化革命」によって洗脳し、カント哲学を画一的な指導要領としました。思想面での全体主義を構築したのです。

聖徳太子が説明した「世俗諦」と「勝義諦」のうち、「勝義諦」を無視して、「世俗諦」のみを絶対的存在とするのがカント哲学なのですから、これは現代的表現方法に従えば、「カルト」なのです。

1795105ヴァンデミエールの反乱で、烏合の衆であった国民公会から全権を委任されたボナパルトは、至近距離から葡萄弾を込めた大砲を発射し、暴動者を皆殺しにした。ここではじめてパリの民衆は彼らが信奉しているのは「自由と平等」理念ではなく、暴力であることを理解した。そしてこれ以降は暴力主義にいそいそと従った。

こういう次第でナポレオン一世の時代には、英米の民主主義はきれいに消え去って、「力」による暴力主義が政治原理となった。

その後のフランスにも民主主義の芽生えはないまま、フランス国民は暴力主義に付き従い、ナポレオン三世の時代に入った。人権宣言がフランスに戻るのは第二次大戦後、フランス第五共和政憲法が採択された1958104のことです。

最  終  稿

 私はこれまでながながと『カイゼル・システム』を書き続けてきたが、そろそろこの論文を打ち切りにしよう、と思う。

 必要最低限の事項はすでに解説済みであり、これ以上の饒舌を継続することはよくない。

  目次にある(4-Aの)3-D以下はまだ未了であるが、賢明な読者は目次をご覧いただくだけで、内容を把握いただけることだろう、と考える。

こういう理論的根拠をもって、私は日本の大学がいまだに形而上学を教えていることを「憲法違反」だと考えています。東京大学の「カント」、京都大学の「西田幾多郎」は憲法違反です。第二次大戦後69年経った今でも形而上学を無上の哲学として教え込んでいる東京大学と京都大学には、独立的な学問の世界に本来備わっているべき自浄能力がかけています。だから、私はアメリカ人の学者と相談し、この「カイゼル・システム」を書くことにしたのです。過去に日本社会をカイゼル・システムに従って洗脳し、幾多の社会的害悪を流したこれら2大学が、反省もせずいまだに態度をあらためていないところから、私はこの2大学の文学部を永久廃部としたらどうだろう、と考えています。皆様のご賛同をお願いいたします。

明治時代以来、東京大学と京都大学ではカイゼル・システムに従って、「カルト」を教え込んだ。これが理由で第二次大戦中は「竹槍精神」が横行しました。聖徳太子の精神に背いたのです。なぜカイゼル・システムが日本に入り込んだのか、という歴史秘話カイゼル・システムへの移行はすでに説明しました。

残念なことにドイツではいまだにビスマルクを賞揚するセバスチャン・ハフナーが幅をきかせています。(たとえば『ドイツ帝国の興亡』山田義顕訳、平凡社 1989 これは民主主義ではなく、暴力主義であり、全体主義であり、哲学的には「カルト」でありますから、ヒトラーの主義主張と変わるところはありません。

しかし、考えてください。ドイツには歴史上「空」の思想に辿り着いた哲学者は誰一人いないのです。フリードリヒ大王は極めて賢明な国王でしたから、ジョン・ロックの思想を完全に理解していた。ところがビスマルクにいたってドイツ国の思想は退歩したのです。したがって、これからもなお、(セバスチャン・ハフナーが幅をきかせるかぎり)、ドイツにはヒトラーが出現する可能性が充分あります。ドイツ人は「絶対」という概念を好むからです。ドイツ人には「勝義諦」がどうしても理解できないからなのです。

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ボナパルトが敵小隊に機銃掃射させる。
『革命の歴史』アドルフ・ティエール著 
1866 ヤン・ダルジャン画

 カンパン夫人の回想録に記述されている1789106日のヴェルサイユへの襲撃は、もはや民主主義の理念も建前もない剥きだしの暴力主義であって、英国の政治学者エドマンド・バークが鋭く批判したところである。(『フランス革命についての省察ほか』T、バーク、訳者:水田洋、水田珠枝 中央公論新社、2002P69ほか)

 1792810日、同じくカンパン夫人の回想録に記されたチュイルリー宮殿の襲撃によりフランス君主制が終焉したが、このときナポレオン・ボナパルトは、チュイルリー宮殿襲撃の一部始終を友人ブーリエンヌとともにチュイルリー宮殿の河沿いのテラス(至近距離)からじっくりと観察していた。ド・ブーリエンヌナポレオン・ボナパルト回想録) ナポレオンはこのとき、この襲撃が民主主義ではなく、単なる暴力主義、「力によってもぎとる権力」だと理解した。

 ラファイエットの人権宣言(原稿は勿論当時パリに滞在中のジェファーソンが書いた)は重々しく発表されたが、これはバスティーユへの襲撃によって取り消された結果になった。人権宣言によってフランスに導入された民主主義は直ちに反故にされ、「自由と平等」という革命理念は存続したが、内容は暴力主義にすり替えられた。(第一条の「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」は保持されたが、第四条の「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。」は侵害された)

画像:ロダン博物館のウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ(Ugolino)。ダンテの『神曲』地獄篇。飢餓のゆえに牢獄のなかで子孫をむさぼり食うウゴリーノ。

画像:荒野の誘惑 ドゥッチョ、フリック・コレクション、NY
  洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエスは霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔(サタン)の誘惑を受けた。(マルコ、マタイ、ルカ福音書由来。)
  キリスト教における「勝義諦」です。「勝義諦」なくしてはキリストは完結しません。

画像:降魔成道、フリーア美術館、ワシントンDC
悟り
  菩提樹の下で四十日間瞑想を行ったあと、仏陀は全知の瞬間に近づいた。悪魔は彼の心を転ずることに失敗した。そして、彼は悟りの成就を示すために静かに地下の女神に触れる。彼の右手が降ろされて、地面に触れる仕草(bhumisparsha mudra)で、その瞬間を知らせている。仏陀は特徴のある額の白毫(urna)と頭蓋の肉髻(ushnisha)とともに描かれている。これらは彼の広大な精神的な知的能力を象徴している。(美術館の館内説明から)

画像:アリスティド・マイヨ−ル (1861-1944)「川」、1943  鉛。チュイルリー宮殿跡地。

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盛装した仏陀
カンボジャ、正確な出自は不明
アンコール後期、19世紀
ベンの木、漆と金塗装
螺鈿ならびにガラス象眼
ギメ美術館、パリ