英米の哲学者達は聖徳太子と同じく、聖霊の認識も存在し、悪霊の認識も存在することを認めたうえで、「この2つの認識は互いに滅却する」と考え、「諸行無常」が成立する、と考えるのです。従って、聖霊あるいは悪霊のどちらか一方を根拠とする「絶対論」は成立しないのです。「絶対論」というものははじめから「嘘」だと知っているのですから、彼らに「絶対論」の議論をもちかけてもflat rejectionしか返ってきません。

 民主主義というのは実にここが原点なのです。

       原則4: 民主主義においては絶対論は存在しない。

 私のホームページのなかの

       アメリカの旅-モンティチェロ
       『勝鬘経義疏』のコア「空智」

を参考資料として読んでおいてください。

 彼の主張を簡単に述べると、

1. 人間には啓示的に伝達される神秘体験がある。

2. いわゆる聖霊の啓示(A)であり、またの名はイデアである。

3. その啓示という伝達方法は、伝達された本人しか理解することが出来ないけれども、真実であるから、これを本源的啓示という。

4. 本源的啓示ではなく、「本源的啓示を受けた人から聞いた啓示」は伝承的啓示と称する。これは真実の啓示ではない。他人の言うことを鵜呑みにして、伝承的啓示を信じることは「盲目的軽信」にしかすぎない。

5. 実際には、本源的啓示を受けた人の数は、伝承的啓示の数にくらべて圧倒的にすくない。1000人に一人以下である。このような場合、本源的啓示の内容が仮に真実であり真理であると認定された場合でも、「名目的真理」に格下げすべきだ。

6. 盲目的軽信に陥ることを避けつつ、なんとか本源的啓示に達したとしても、その到達した本源的啓示が「名目的真理」としてしか見なされないのであれば、なにをもって「真理」とすべきか? それは「経験」だ。タブラ・ラーサ(tabula rasa、白紙)に書きこまれる経験だ。

7. 人間に啓示的に伝達されるもう1つの神秘体験がある。それは「悪霊」の啓示(B)だ。「悪霊に取り憑かれた」状態であり、内容的に聖霊の啓示と正反対だが、これも本源的啓示である。

8.まるきり性向が反対である精神的存在が(A)(B)2つあるときは、「絶対唯一」という概念は存在しなくなる。

9. (A)あるいは(B)のどちらか一方を唯一の絶対的存在と信じ込むとき、人はこれを「狂信」と呼ぶ。

10. 2つの絶対的存在があり、伝承的啓示で戦うときは、(「絶対唯一」という概念は存在しないのだから)戦う前に価値規準を変更する必要がある。判断基準を「相対規準」に変え、そして判断の基準を「どうすればよりよき幸福が実現できるか?」に変更する必要がある。

 英 国 で の 哲 学 的 決 着

画像:エドワード・ギボン(Edward Gibbon1737–1794) の肖像画 Sir Joshua Reynolds (1723–1792)画、 62 x 74 cm キャンバスに油彩、Private collection

画像:文殊菩薩(左上)
『西域美術』大英博物館スタイン・コレクション 第1巻 敦煌絵画Ⅰ、講談社 1984
23 四観音文殊普賢図
唐時代 咸通五年(864年)
絹本着色 縦 140.7cm 横 97.0cm
の内、23-2 普賢菩薩と文殊菩薩の内文殊菩薩Mañjuśrī

画像:ジョン・ロックの肖像画、ゴドフリー・ネラー卿(Sir Godfrey Kneller)画。画布油彩、76x64 cm. 英国, 1697.  ロバート・ウオルポール(Sir Robert Walpole、英国初代首相)のコレクションより。ホートン・ホール(Houghton Hall)、1779.

10.について)

だから、信念のために戦わなければならないと考えたときは、まず「絶対」という概念を捨てなさい。絶対的信念で盲目的に戦うことを捨て、戦う前に「どうやったらよりよき幸福が入手できるか」を考えなさい。価値基準を変えるのです、幸福を規準にするのです、と民主主義者(英米人)は教えるのです。聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と裁断されたのとまったく同じスタンスです。

 上記した原則1,2,3,4,5で民主主義のなかの哲学的論点は網羅しました。もっとも分かりにくいところはこれで終了です。民主主義の政治面の考察については『統治二論』を熟読してください。

 付け足しますが、「自由」と「平等」は政治的権利であります。しかし、「幸福の追求」については哲学的判断基準であることに留意してください。

 でも、あなたは日本人ですから、簡単に理解できるはずです。『勝鬘経義疏』のコア「空智」を読んでください。

 聖徳太子が説かれるように、

      生命を証する四聖諦
    死を証する四聖諦
      (四聖諦とは「苦」「集」「滅」「道」)

という修業の道程のなかで、人間が辿り着くさきは、「生滅」(「世俗諦」)と「死滅」(勝義諦)という2つの真理でした。そしてこの2つを滅却すると「空」になる、と説かれたのです。即ち「諸行無常」です。「諸行無常」とは、絶対唯一な概念がない状態なのです。(「諸行無常」については「雪山童子」の項を参照のこと。)

 なお、「勝義諦」は聖徳太子の発案ではありません。釈迦の一番弟子でありもっとも優秀であった文殊菩薩が説いた仏教の極意なのです。「三人寄れば文殊の知恵」の文殊です。2世紀龍樹による『』、『般若経』、また玄奘が『大唐西域記』で記した世親菩薩を参照のこと。)

画像:聖徳太子

8.について)

 聖霊(A)の示すところは「生命」であり、悪霊(B)の指さすところは「死」である。この2つの認識のヴェクトルは互いに逆向きである。ヴェクトルが正反対である認識が2つ存在するときには、「絶対唯一」という概念は存在しなくなる。

      原則3: 生と死の間にはさまれている人間にあって、「絶対唯一」という概念は成立しない。

 フランス人とドイツ人がもっとも理解できないポイントがここです。

 英国人哲学者ジョン・ロックについてはすでに「神秘体験」ジョン・ロックでくわしく述べてあります。参照願います。

といってもよくわからないでしょうから注釈を入れますが、

5.について)

カトリックは聖霊の存在を絶対的な信仰の基礎としている。しかし、聖霊の伝達を受けた人の数はとてもすくないから、聖霊の伝達は名目的真理しか構成しない。聖霊の伝達を受けていない人は単に伝承的啓示を信じる「盲目的軽信」にすぎない。

       原則2: 認識に到達する人の数があまりに少ない場合は、これを真理と認めない。

 この原則は現在では2つのケースに分類される。1つはカトリックの主張する三位一体の1つである聖霊(よく「白鳩」で表現されているアレ)を真理と認めない。もう1つはフランスの哲学者達が指摘する神秘体験(A)(たとえばデカルトの炉部屋での体験)、カントの主張する「統一された統覚」(別名「純粋理性」)など神秘体験に基づく哲学は真理と認めない。万人が首肯する普遍的原理を構成しないからだ。

7.について)

一方、プロテスタントは「悪霊の存在を示現する神の顕現」をもって信仰の基礎としている。これはカトリックの主張する「聖霊」と同程度に正しいが、これも数の上からは「名目的真理」に過ぎず、上記原則2に従い、真理と認められない。また、伝承的に啓示を信じる「盲目的軽信」もうけいれられるものでない。

9.について)

 「狂信」の定義についてですが、ジョン・ロックの説明を敷衍するために、エドワード・ギボンが18世紀にロンドンに現われ、歴史学者として補足的な説明を行ないました。彼は、ローマ帝国衰亡史』(刊行は1776-1788年)のなかで、三位一体説を確立するためにアレキサンドリアで展開された狂気の沙汰4世紀半ば)を冷静に報告しています。

 313年にコンスタンティヌス一世による「信仰寛容令が出てキリスト教界の平和と安逸とがもどると、ふたたび三位一体論争が、古来プラトン哲学の本拠だった学都、富裕な商都、また熱閙をきわめたアレクサンドリア市からはじまることになった」。

 「年齢、性、あるいはまた職業からしてもとうてい判断力など期待できぬ、また抽象的思惟にはおよそ不慣れな大衆までが、神性の性格構造などといった問題に思いを潜め出した。テルトゥリアヌスの豪語をかりれば、もっとも賢明なギリシャ人賢者たちをさえ困惑させた諸難問に対し、キリスト教徒ならば一介の職人でも、いとも簡単に答えができたはずだというのだ。問題自体がはるかに人間知性を超えるも のだけに、最高知性と最低知性との格差といっても、ほとんどそれは極微に近いだろうし、むしろその頑迷さ、独断的過信性の程度こそが、愚かさを測定する尺度であるかもしれぬ」。中野好夫訳第21章、筆者のホームページ『三位一体論の成立過程』を参照乞う。

 絶対的真理が存在すると教え込まれた人間(伝承的啓示の信奉者)は理性を失い、狂い出すという歴史的事実を披露したのです。時期的にアメリカ合衆国の独立宣言(1776年)とシンクロナイズしましたから、トーマス・ジェファーソンの理論のなかにもしっかり組み込まれました。

       原則5: 「狂信」とは絶対唯一を信じることである。