つまり、フランスでもドイツでも宗教戦争の本質を解明し、調停を務めるべき哲学者は一人として現われなかった。問題の解決案を提示して仲裁に持ち込む哲学者がでなかった以上、民主主義者は(英米人は)フランスとドイツの哲学者達を「無能」ときめつけ、無視するのである。デカルトもカントもショーペンハウアーも哲学者ではなく、ただの無能力者であるとして切り捨てるのである。

考えて見れば当たり前でしょう。大量殺戮の糸口を探しだし事態を解決できない木偶の坊(でくのぼう)は、所詮木偶の坊なのです。東京大学と京都大学の哲学者達が、カントと西田幾多郎を標榜して、英国と米国の大学で議論を持ちかけようとしても受け付けてもらえなかった理由がここにあるのです。民主主義国では、木偶の坊の言うことは議論の対象にしないのです。やるだけ「無駄」なことははじめからやらないのです。

     原則1: デカンショを哲学者と認めない。

逆説的に言えば、フランスとドイツでの宗教戦争は大陸では「いまだに」決着がついていないのです。

宗教戦争(1562-1598仏、1618-1648独)に関し、

        大陸での哲学的決着はついていたのか?

画像:イマヌエル・カント

 別項フォンテーヌブロー (2)を参照願いたい。

 フォンテーヌブロー宮殿が大々的に拡大されたのはフランソワ一世(在位1515-1547)からアンリ4世(在位1589-1610)であり、この時代は宗教改革の嵐が吹き荒れた時代であったことは既に説明しました。

 1517年にルターが宗教改革を開始し、1536年、フランス人ジャン・カルヴァンがバーゼルで『キリスト教綱要』を発刊して追随した。改革派教会(ユグノー)は瞬く間にフランスにひろまり、1562年ユグノー戦争が始まる。

 1562  ヴァシーの虐殺
 1572  サン・バルテルミの虐殺
 1598  アンリ4世はカトリックに改宗し、
         
ナントの勅令が発令されたが、

 こういう話、すなわち出来事は皆知っているのだが、皆が知っていないのは、「民主主義国においてこの宗教戦争がどのように捉えられているか?」である。

 民主主義国である英米においては、「ドイツとフランスには、旧教と新教の本質を解明し、両者を仲介し、事態を調停すべき哲学者がただの一人も現われなかった」と理解するのである。

 確かにフランスには17世紀初頭、デカルトが出て『方法序説』(1637)を著わした。しかし、彼がノイブルクの炉部屋で体験した霊感は、カトリックの聖霊体験にほかならず、彼が著述した「Je pense, donc je suis.」は、中世神学からの脱却という論点はあったにせよ、彼の理論の根拠となる体験そのものは、大アタナシウス理論の焼き直しにすぎなかった。つまり、デカルトは旧教と新教の本質を解明し、仲介者として行動することができなかった。

画像:ルネ・デカルト

それは政治的妥協策に過ぎず、カトリックとユグノーの対立状態は延々と続き、1685年、ルイ14世はフォンテーヌブローの勅令に署名してナントの勅令を廃止した。この結果ユグノーは改宗をせまられたが、大部分のユグノーは改宗を拒み、イングランド、プロイセン、オランダ、スイスへ移住した。さらに後年、プロイセンのフリードリヒ大王の治世(1740-1786)下でも、フリードリヒ大王がフランスで虐待をうけたユグノーの大規模な受け入れを行ったことはよく知られている事実である。

 つまり、フランスでは、旧教と新教は対立し、仲介者が現われないまま互いに虐殺をくりかえした。

 人間の本質に係わる問題が現前しており、この問題のゆえに大規模な殺戮が繰り返されているときに、事態の本質を見極めることができない哲学者は、哲学者の名を語ることができない、と英米の人達は考えるのである。

 ドイツにはフリードリヒ大王の時代にカントが出た。フリードリヒ大王はカントを無視したのだが、のちに(筆者の推量だがドイツ人の国民性のおかげで)人気の出たカントの「統一された統覚(132)」、すなわち「純粋理性」もカトリックの聖霊の焼き直しにほかならない。

 ドイツでは時期が若干遅れて30年戦争(1618-1648年)の間に新教と旧教の間で熾烈な戦いがあった。この間、人口が1/3あるいは1/2減少したと言われる。(参考:アイヒシュテットの歴史ジャック=カロの『戦争の惨禍と不幸』

画像:ジャック・カロ『戦争の悲惨(大)』:車裂きの刑、国立西洋美術館蔵