30年戦争の映像はほとんど残ってい
ません。場所は違いますがが、右図
(St. Bartholomew in Paris, 1572)が
その当時の戦争の実態を映しています。
都市が戦場となり、皆殺しが戦い方に
なっていたようです。
この30年戦争以降は、欧州での戦争
の戦い方は変わってしまったように思
えます。また、人間のものの考え方も
急激に変化しました。人間はもはや
「絶対」という概念に頼らなくなった
のです。
人口のほぼ半数が亡くなった勘定になる。
30年戦争の本質については次を参照せよ。
では、Eichstättの町で1634年に何が起こったか、調べてみましょう。
訳文
1634年
2月12日、スエ―デン軍によってこの街は占領され、
ほとんど完全に破壊された。444軒の家屋と六つの教会
が火事で燃えた。被害を受けずに残ったのは、家屋127
軒、ドーム(大教会)、町のマリア教区教会、聖ヴァ
ルブルク教会、ドミニコ会教会、ならびにヨハネ教会
だけだった。
9月5日、さらに44軒の建物が放火された。織物生産
業が完全に滅びた。
この時期に、この街に生じた死者の数は多大であっ
た。全人口がほぼ5千人ないし6千人しかいなかったの
に、死者の数は、
1630年 141人
1631年 178人
1632年 494人
1633年 827人
1634年 982人
5年間合計 2,622人
に達した。
この地図で読み取れるように、1634年9月、援軍として駆け
付けたスペイン軍はNördlingenでスエ―デン軍と会戦して勝利
したのですが、その間、スエ―デン軍はその東方に居たことに
なり、ちょうどEichstättが最後に蹂躙された9月5日と合致し
ます。Eichstättでのスエ―デン軍による虐殺は事実だったの
です。
Jacques Callot (1592 Nancy - 1635 Nancy)はフラン
ス人。この銅版画の別題は「the Thirty Years War」。
Metropolitan Museum of Artで実物を鑑賞することがで
きます。
はたしてこのような光景だったのか判然としませんが、
後で見聞するように、人口の半分近くが失われたという
ことは、実際には、「逃げ遅れた住民は皆殺しにされた」
のが実態だったのでしょう。
出典:commons.wikimedia.org/wiki/Image:Jacques_call...
Jacques Callot - The miseries
of war