1625 春、ルター派の教えによって国内を統一・強化してきたクリス
ティアン四世(在位1577-1648)は、ドイツ新教徒を救う名目を立
てて、ドイツを侵略した。背後にイギリスとオランダがあり、
旧教だがハプスブルク家と対立し続けてきたフランスもいた。
この新たな強敵を迎えて、皇帝軍はたちまち苦境に陥った。こ
こに救世主として現れたのが戦争企業家ともいうべきヴァレン
シュタイン(1583-1634)である。
ヴァレンシュタイン……ボヘミアの小貴族の出、フリートラン
ト公に列せられ、破格の出世をする。身分的上昇のため富裕な
老未亡人と結婚して、土地・財産を得、それをもとに利殖を図
る。高利貸しを行い、皇帝フェルディナントにさえ資金融通し
た。他方、軍を率いては各地でフェルディナントを助け、功績
をあげていた。
デンマーク国王クリスティアンの侵略・破竹の勢いを前にして、
彼は皇帝のために資金を立て替え、5万の軍隊を徴募することを
申し出た。
1626 8月、バイエルン公に仕えた名将ティリー(1559-1632)はルッテ
ル(現ドイツ中央部)の戦いで敵に決定的打撃を与えた。ティ
リーと功を競うように、ヴァレンシュタインもハンザ諸都市を
攻撃し、デンマーク本国に直接脅威を与えた。戦いに疲弊した
デンマークは、
1629 5月、「リューベックの和約」を結び、ドイツにもはや介入しな
いことを約束した。皇帝は勝利の勢いにのって、3月には『回復
勅令』を出し、旧教の失地回復を図り、新教を抑圧した。ヴァレ
ンシュタインの成功、それを利用しての皇帝の絶対主義権力樹立
の努力にたいして諸侯は反発した。そのために、ヴァレンシュタ
インは1630年8月罷免させられる。
(続く)
オランダは別格として、それでもなお人間は絶対的な価値観の創設を求めて戦い続けた。
三十年戦争によるドイツの人口減少が3分の1であったことを、「たいしたことはなかった」と評する歴史家が日本にはいる。
私見だが、人間の歴史上で人災の理由により人口が33.3パーセントも失われた事態は、この三十年戦争を措いてほかにないと思われる。第二次世界大戦で日本が失った人口はわずか10パーセントにすぎなかった。(最大の被害は沖縄で25%)。それでも日本人の心は震撼させられ驚愕した。
この時代に、(日本でいえば江戸時代のはじめに、)大砲は実用化されていた。日本では大砲は城を攻め落とすときにのみ使われたが、ドイツでは、各都市を殲滅するためにそれは使われた。
悲惨な結果を甘受して、それでもなお絶対を求め続けたのがドイツならば、日本もまた、悲惨な結果を招来して、それでもなおその結果がなにを意味するかに気付いていない国のように思われる。
筆者がなにを言わんとしているのかは後にして、まず三十年戦争につき、詳細を読んでいただきたい。
第四期(三十年戦争)(1)
1618 5月のある日、ボヘミアのプラハ王宮で新教徒の
代表が、新たに王位を継承したフェルディナンド
(イエズス会の狂信的教育を受け、1617年に新王
となった)の旧教強制に憤激して押しかけた。こ
の地では皇帝ルドルフ二世(1576-1612)より勅許
状を得て、信仰の自由が承認されていた。
新教派の代表と皇帝顧問官の口論の末、顧問官達
は問答無用と王宮の窓から投げ出された。この事
件をきっかけに三十年戦争は勃発した。
1555年の宗教和議の後、反宗教改革運動の高まり
により、両派の争いは激しさを増し、1608年、新
教側はカルヴァン派のプファルツ選帝侯フリード
リヒを中心に同盟(ウニオン)を形成し、翌年、旧
教側はバイエルン公マクシミリアンのもとに連盟
(リガ)を形成して対立しあっていた。
1619 フェルディナントが皇帝(在位1619-37)になっ
た。ボヘミア王位の後任として、ボヘミア議会は
フリードリヒを王位につけた。皇帝は選帝侯位を
餌に旧教連盟のマクシミリアンの援助をとりつけ
、同じハプスブルク家の支配するスペインの後援
を得た。一方、フリードリヒは彼がカルヴァン派
であったために、ルター派の諸侯の援助を充分受
けられなかった。
1620 11月、プラハ近郊ヴァイサー・ベルクでフリード
リヒは3万の兵を率いて、皇帝・バイエルン連合
軍5万と戦い、またたくまに敗北し、逃亡した。
皇帝はルドルフ二世の勅許状を破棄し、徹底して
新教を弾圧した。
戦いはドイツ、ネーデルラントに拡がった。新教
諸侯の結束は弱く、皇帝派の完全勝利に終わった。
1623 レーゲンスブルク選帝侯会議で、皇帝はプファル
ツから選帝侯位を剥奪し、これを約束どおりバイ
エルン公に与えた。
帝国内におけるハプスブルク家の優位が決まり、
北ドイツの旧教化がはじまると、北ドイツに勢力
を張ろうとしていたデンマークがこの内乱状況を
利用してきた。
画題:Odilon Redon (1840-1916)
“Le Centaure et le Dragon”
(ケンタウロスと竜) 1908頃
Rijksmuseum Kröller-Muller, Otterlo
ギリシャ神話のケンタウロスと竜は、
お互いに相手を不倶戴天の敵と見做す。
自らは光と善の使者として、
相手方は悪や闇の象徴として
相手の姿が見えるや否や
彼等は本能的に戦闘を開始する。
ルドンは晩年になってから
人間の体内にある抑えきれない本能を
鮮やかな色彩を使って描きはじめた。