1567 フェリペ二世は、将軍アルバの指揮下に一万人のスペイン
      軍を送り込んだ。アルバはブリュッセルに到着し、史上ま
      れな恐怖政治(“スペイン人の横暴”)を展開した。この
      結果、商工業の中心地フランドル、ブラバント両州からの
      亡命者一万人が北部やヨーロッパ各地に流れた。

      亡命者のなかの大貴族と乞食党は、当時ドイツにいたオラ
      ニエ公(沈黙公=ウィレム一世、在位
1579-84)のもとに
      、しだいに結集していった。

      アルバ公指揮下のスペイン軍は南部(いまのベルギー)諸
      州を席巻し、東部や北部の州にも迫ってきた。オラニエを
      頂いた“乞食党”は、拠点都市で反スペイン統一戦線を作
      る。

1573 アルクマール市の攻防戦

      この間、最も劇的な戦闘のひとつが、アルクマール市の攻
      防戦でくりひりげられた。兵力で圧倒してくるスペイン軍
      に対し、迷路のように張りめぐらされた運河などの水路を
      利用してゲリラ戦を挑んでいた“乞食党”――陸上で活動
      した“森乞食”に対し、水上で活躍したものは“海乞食”
      という――は、最後の手段として、堤防を決壊させた。こ
      うして、さしものスペイン軍も、とくにホラント、ゼーラ
      ントという低地の、水路の発達した土地では“乞食党”に
      勝つことができなかった。その後、アルバが失脚し、レク
      ェセンスが後任となった。

1574  5月、レクェセンスがライデン市の包囲作戦を決行する。ラ
     イデン市民は兵糧攻めとペストに苦しめられながらも抵抗を
     続けた。オラニエ公はアルクマールでとったのと同じ作戦―
     ―アイセル河の堤防を切り、国土を水面下に沈める――でラ
     イデンをはじめとするホラント州を守りきった。

     この間、占領下におかれた南部諸州では、スペイン軍による
     略奪、暴行が激化した。“海乞食”が海上封鎖を敢行したた
     めに、世界最大の商業都市であったアントワープの経済も壊
     滅した。亡命せずに残っていた市民の間からも、スペイン軍
     の撤退を求める運動が出てくる。こうしてブラバントやフラ
     ンドルの州議会さえが、オラニエ公と連絡を取り、全ネーデ
     ルラントがスペインとの対決に踏み出した。

1576  11月、ガンの和平が結ばれた。翌年、ときの執政ドン・フ
     ァンもこれに署名し、スペイン軍の退去が全国議会=革命軍
     の解散と引きかえに約束された。

1578 執政ドン・ファンはスペイン軍を呼び戻し、1月、ガンブ
      ルーの戦いで議会軍を破った。

          10月、かっての執政マルゲレータの息子、パルマ公アレッ
      サンドロ・ファルネーゼが執政となる。元来カトリックの
      勢力が強く、言語も違っていたエノー、アルトワの南部
2
          州がオラニエ公から離れ、執政=スペインと手を結ぶ。

1579 1月、エノー、アルトワ両州を中心に“アラス同盟”が結
      成され、
7月、スペイン王への服従を宣言した。

1579 1月、危機に陥った北部七州は、“ユトレヒト同盟”を結
      成、

1581 独立宣言を発し、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)
      が成立した。

      しかし、その後もパルマ公の軍隊は優位を保ち、

1584 7月、オラニエ公もフェリペ二世の派遣した刺客によって
      射殺され、アントワープも陥落した。


1589 宗教戦争が決定的な局面を迎えていたフランスに介入する
      ため、パルマ公がネーデルラントを去ったことで、和平の
      機運が盛り上がった。

1609 新生オランダとスペイン王間に12年間の休戦が成立した。

1621 戦争が再開されたが、大きくならず、

1648 ウェストファリア条約で、独立が国際的に公認された。

オ ラ ン ダ 独 立 戦 争

 オランダの独立戦争は、他国の宗教戦争と色合いが異なっている。



 神聖ローマ帝国皇帝カール五世はドイツでの戦争に敗れ、滅多に帰ってこなかったスペインに戻ってきた。

 1500年にベルギーのガン市に生まれ、17歳にしてスペイン国王に即位し、19歳にして神聖ローマ帝国皇帝となった彼は、その生涯をイタリア、ドイツ、ベルギー等を戦闘で明け暮れ、休む暇もない生活をおくってきたが、52歳にしてオーストリアで敗れ、やっとスペインに戻ってきた。もうその時に彼は気づいていた。永年の見境のない戦争の継続で、王家の金庫は空っぽとなっており、積み重なる借財で彼は借金地獄のなかにいた。新大陸からの銀の流入も、何もかもすべてが借金の担保に入っていた。スペイン王家は破産していた。

 このような場合当事者は、事態の処理能力を失って、事後処理は破産管財人にまかさざるをえない。

 こうして、カール五世は引退して隠居の身分となることを強制され、彼の息子のフェリペ二世が次期国王がらみの破産管財人となり、債務の整理を行った。主としてドイツのフッガー家と相談し、元金の減免を含むリスケジューリングを行ったのである。当然はねかえりは、全領土の住民にたいする増税の結果となって現れた。

 これがオランダ独立戦争の発端である。

 引きつづき、『世界の戦争・革命・反乱』(自由国民社)を利用する。

第三期(オランダ独立戦争)

1555 スペイン王フェリペ二世(在位1556-98)
          はネーデルランドの地を腹心の女性執
      政パルマ公マルゲレータにゆだね、本
      国に帰る。マルゲレータは宗教裁判(
      異端審問)を行い、新しい税金をかけ
      る。プロテスタント、カトリック教徒
      はこれに反発し、農村の中小貴族も団
      結し、

1565 宗教に関係なく、“盟約”を結成、改
      革を求める請願書(プラカード)を提
      出した。執政の側近が「たかが田舎の
      乞食(へーゼン)の群れ」と嘲ったこ
      とから、同盟側は自らを“乞食党”と
      名乗ることになった。

      当時ヨーロッパ最大の商工業地帯で、
      都市が発達していた南部の各地で、都
      市の民衆が蜂起した。主役はカルヴァ
      ン派の信者であった。カトリック教会
      の聖像破壊が運動の主な形態となり、
      それが過激化していった。

 ここにも、聖霊を絶対と考え、これに拠りかかったカトリックの僭越と横暴が認められる。国家の財政が窮乏した場合、それは凶暴化する。それでも本人は自分が正しいと思い込むのである。

 この狂信的なスペインと戦うために、北部諸州は宗教に関係なく、盟約を作り上げた。

 ここには、宗教の本質、内面の体験による価値観の差は決定的な要素にはなりえない、という合意ができあがっていた。西欧世界で初めて精神世界からの開放が実現された国がオランダである、と考えてよいのではなかろうか。

 この自由の概念が、それからの西欧の精神世界に与えた影響はきわめて大きかった。

画題: ディエーゴ・ベラスケス
     “ブレダの開城”1635年以前
      プラド美術館、マドリッド
           ホセ・アントニオ・デ・ウルビノ
           『プラド美術館』
           Scala Publications Ltd. 1988

新興独立国オランダの要衝ブレダを巡る攻防戦の結末

16256月、兵糧攻めに屈したオランダ側ブレダ総督ユスティヌス・フォン・ナッソウは、スペイン軍の知将アンブロジオ・スピノラに対し、武装軍隊のままの撤退という名誉ある降伏を条件に城門を開き、降伏の印である城門の鍵を恭しく勝者に差し出す。

スペイン側が描いた騎士道精神という精神主義であるが、オランダ側は
自由の概念を合言葉とした。