1630 新教側が敗北し、皇帝の勢力が
      バルト海にまで及ぶと、今度は
      ルター派のスウェーデン国王グ
      スタフ・アドルフ(在位
1611-3
           2
)が介入してきた。“北方の
      獅子王”と呼ばれたアドルフは
      わずかな精鋭を率いて、
1630
       
7月ポメラニア(バルト海沿岸)
      に上陸した。彼はたちまち中部
      ドイツまで進出したが、外国君
      主に従うことに新教諸侯は逡巡
      した。

1631 5月、新教都市マグデブルクは
      ティリー軍に徹底的に略奪、殺
      戮されてしまった。同市の運命
      に驚いた新教諸侯、とくにザク
      セン選帝侯はアドルフと同盟を
      結び、
9月にはブライテンフェ
      ルト(ザクセン地方)の戦いに
      ティリー軍に大勝利した。余勢
      をかって、


1632
 春、レヒ河畔の戦いにふたたびティリー軍を破り、ティリーを負死
      させた。さらに南下し、
5月にはバイエルン選帝侯の首都ミュンヘン
      も陥れた。

      アドルフの進出は、一転して皇帝にとって絶望的な戦況に至らしめ
      た。ティリー戦死のあと皇帝軍には有能な将軍はいなかった。望み
      を託すことができるのは、罷免したヴァレンシュタインだけだった
      が、彼は皇帝の困窮を見極め、承諾の代価をつりあげ、指揮権、和
      平交渉権などにたいする絶対的権限、さらに選帝侯位まで要求して、
      結局引き受けた。

1632 11月、ヴァレンシュタインとアドルフの決戦がザクセンのリュッツ
      ェンで行われた。両軍
4万の将兵が繰り返した激突のなかで、陣頭指
      揮をしていたアドルフは敵弾を背中に受けて戦死した。強力な指揮
      者を失ったスウェーデン軍はその後もドイツの地における戦いを継
      続したが、敗色が濃くなる。

1634 一方、ヴァレンシュタインはこの戦いを契機に和平を提唱し、軍を
      すみやかに動かさなくなり、その行動を皇帝から疑われ出した。最
      後には敵軍への寝返りを疑われて、暗殺された。皇帝は、司令官に
      息子のハンガリー王をつけ、軍をたて直させた。

1634 7月、皇帝はレーゲンスブルクを奪い返し、その近くネルトリンゲ
      ンの戦いに勝利した。スウェーデン軍の敗北は新教派諸侯に動揺を
      与え、ザクセン選帝侯はじめ、戦いから脱落していった。彼等は皇
      帝と、

1635 2月、「プラハの休戦条約」を結んだ。

      ドイツ宗派諸侯が戦いから脱落すると、今まで黒幕的存在であった
      フランスが表面に出てきて、ハプスブルク家とフランス(ヴァロワ
      
ブルボン朝)との宿命的な対立が中心軸となり、宗教戦争の色合
      いはなくなった。

      フランスの宰相リシュリューは総力をあげ、両ハプスブルクに対決
      したが、当初強力なスペイン軍に押され気味だった。

1636 8月にはパリ近郊にまで攻め入られた。

1637 以降、戦いはフランスに有利に転換していったが、その後も長期に
      わたってヨーロッパ各地で戦闘は続いた。

1642 リシュリューの死後、マザランが後継者となり、フランス有利のう
      ちに、

1648 “帝国の死亡証書”といわれる「ウェストファリア条約」が結ばれ
       た。

三十年戦争は、ドイツの経済に決定的荒廃をもたらした。それを回復するためにおよそ200年を要することになり、ドイツの政治的統一も各国より遅れた。
        (『世界の戦争・革命・反乱』自由国民社、一部修正)

三 十 年 戦 争 (2)

実質的に宗教上の信念に関する戦いは、16352月のプラハの休戦条約で決着した、と考えられる。

 現在の戦争のように、それが徴兵制の短期的な総力戦ではなかったし、戦いの実行者は傭兵であったにせよ、ドイツの国土が破壊され、人口が3分の1も減少すると、戦争継続のための経済的な基盤がなくなってしまったから、戦争は自然消滅したものと思われる。戦争は終結したものの、しかし問題が解決されたことを意味してはいない。その残り火は今でもチョロチョロと燃え続けている。

 

 ここに新しい思想の変化が生じたのは、戦争が続いたドイツではなく、お隣のオランダであった。

 われわれは長々と宗教戦争の経緯を調べてきたが、そろそろ本題に戻らなければならない。永く続いたカトリックの独占時代、言葉を換えると「暗黒の中世」と、それに続く一見意味がないように見える宗教戦争の時代を後にして、新思想の帳を開けたのはフランス出身のルネ・デカルトであった。

画題:Vincent van Gogh.
          "The Potato Eaters", 1885,  
         
Amsterdam, Rijksmuseum

          Gardens of the Sunlight
        http://art.koti.com.pl/vangogh/vangogh_en.html

     三十年戦争による極端な人口の減少は、
     農業経済の基盤を破壊した。
     このとき破局的な農業生産性を
     回復させたのは、ジャガイモだった。

     
1570年代から80年代にかけて
     新大陸からスペインにはいった
     ジャガイモは

     単位土地面積あたりの生産量が大きく、
     気候不順による凶作時にも生育する
    「救荒(きゅうこう)作物」として
     とりわけプロシャの人間社会を救った、

     と石井龍一博士は述べる。
    (石井龍一『役に立つ植物の話』
                岩波ジュニア新書、
2000
     それ以来、
     このあたりの人たちは
     ジャガイモを食べる。