(行動を起こす前に結果を吟味することができる自由)


 しかし、こうした幸福の一般的欲望はたえず不動に作用するとはいえ、私たちがいま望む特定の善と見えるものが真の幸福の部分をなすか、いいかえれば、そうした部分と撞着(どうちゃく)するか撞着しないか、この点を慎重に検討し終えるまで、欲望の満足に役立つなにかの行動へ意志を決定しないように、ある特定の欲望の満足を停止することができる。こうした検討に基づいた判断の結果が、人間を最終的に決定するものであって、かりにもし自分自身の判断に指導された自分自身の欲望でないなにかによって意志が決定されるとしたら、人間は自由であることができないのである。   (2-21-73)


 人間は、個人個人が自由なのであり、各個人がある観念を(たとえば「善」という観念を)実行に移すときは、それが幸福につながるかどうか確認して初めて実行に移すものですよね。

 これも間違いありませんよね、とロックはまたも念を押す。

 読者もぜひこの点を確認してください。

 では、各人が善と思い、善の行為と思って実行したことの結果が、なぜ暴虐と荒廃に結びつき幸福に結びつかないのか、不思議だなあとあなたも思うでしょう。その理由をこれからご説明しましょう、とロックは続ける。

幸 福 こ そ 判 断 の 基 準

  ところで、とロックは続ける。

(幸福と善悪)
 

 善悪と呼ばれるものはこうしたものであるし、善はすべて欲望一般の本来の対象である。とはいえ、すべての善が、善と見られ善と認められても、個々の人々の欲望をすべて必ず動かすとは限らない。ただその人の幸福のなくてはならない部分をなすと考えられ、そう見なされるような善の部分、あるいはそれだけの善が、個々の人々の欲望を動かす。こう見てくると、幸福こそすべての人がたえず追求し、すべての人は幸福の部分をなすものを欲望するのであって、それ以外の善と認められる物ごとは、欲望なしに眺められ、無視されることができ、なくとも心足りることができるのである。                               2-21-44


 われわれが求めているのは幸福ですよね、とロックはまた念を押す。ところがわれわれの主張する「善」とは、それが達成されることが幸福につながらないことは、最近の例でご理解いただけるでしょう。
……と続ける。

 つまり、ここでロックが主張することは、当時の背景を頭に入れると、次のようになると筆者は想像する。

 大陸では三十年戦争があった。それはカトリックとプロテスタントの戦いであった。カトリックは聖霊の啓示を真なるものとし、これを「善」とした。プロテスタントは地獄の啓示を以てそれでも救われる信仰の道を「善」とした。

 ところがどうだ。善と善は戦いあい、幸福は台無しにされた。世界のdevastationとか荒廃というものがあれば、まさしくこれであった。そこには幸福の影も形もなかった。

 より最近では、英国のプロテスタント戦争があった。この場合も同じように、聖霊を信じる善と、悪霊から救い出されるべき信仰の善との戦いであった。

 すこしのちのことであるが、クロムウェルは親類の一婦人にあててつぎのような手紙を書いている。


 「あなたはわたしのこれまでの生活態度がどんなものであったかよくご存じです。あわたくしは暗黒の中にくらし、暗黒を愛して光明を憎みました。わたくしこそは≪罪人のかしら≫だったのです。本当に、わたくしは信心を憎みました。しかるに神はわたくしにお恵みを授けたもうたのです。神のお恵みのなんとゆたかなことよ」。
    (今井宏『クロムウェル 聖者の進軍』
                  誠文堂新光社)


 クロムウェルもルターと同じく、聖霊ではなく、魔神の出現を見た。そこに人間の罪業をふかく自覚して、神の恩寵に絶対的な信頼を寄せたこともルターと軌を一にしている。

 ところが、そのクロムウェルもアイルランド遠征のとき、カトリック教徒にたいする暴虐をほしいままにした。そこには幸福の実現という究極の目的に沿うものはひとかけらも見当らなかった。

画題:円山応挙
      『難福図巻』
1768 
      紙本著色

   滋賀 円満院
      吉沢 忠
      『原色日本の美術第十八巻 
                 南画と写生画』
      小学館
1969

   幸福のパターンを応挙は描いてみせる。

   『難福図巻』は、天災、人災を描く二巻と
      寿福を一巻とで合計三巻からなる。