(その神秘体験Aの伝達のされかたは啓示である)
これまで述べたもののほかに、ある種の命題があって、提出された物ごとが普通の経験と物ごとの通常の経過に一致しようと一致しなかろうと、どうであろうと、ただ証拠だてに基づくだけで最高度の同意を要請する。その理由は、証拠だてが、欺いたり欺かれたりはできないようなお方の、すなわち神ご自身の、証拠だてだからである。これは疑惑を越えた確信、例外を許さない明証を伴う。これは啓示という特別な名まえで呼ばれ、それへの私たちの同意は信仰と呼ばれる。 (4-16-14)
神秘体験Aの個人にたいする伝達のされかたは、およそそれを経験した人にとっては全く疑いを持てず、証拠立ての必要のない明証であるから、このような伝達を啓示と呼び、これを本人が信じることを信仰と呼ぶ。……この点までは問題はないでしょうね、とロックは念を押す。
(ロックは神秘体験Aに到達済みである)
私は神秘体験Aに到達した、とロックは述べる。
こうして、私たち自身の考察と私たち自身の組織のうちに誤りなく見いだされるものの考察から、私たちの理知は、私たちを導いて、次の絶対確実で明白な真理を知らせる。すなわち、ある永遠な、このうえなく力能があり、このうえなく知る存在者(もの)があるということである。これを好んで神と呼ぼうとする者がいるかどうかはどうでもよい。事がらは明白であり、この観念を正しく考察すれば、この永遠な存在者(もの)に私たちが帰属させるべきいっさいの他の属性は、たやすく演繹されよう。
(4-10-6)
これを神と呼ぼう。デカルトの論説する神とまったく同じであり、したがってカトリックの聖霊と同一である。
ここで、「永遠である」「このうえなく力能がある」「存在する」がキーワードであって、彼は、当時の神学者にたいしても哲学者にたいしても、「私は内省によりそれを経験した」と告白しているのである。
この点が、ホッブスとは水と油のごとく異なっていることを、理解していただけるものと思う。
画題:ニコラ・フロマン
『燃える柴の祭壇画』
1476年完成
エクス=アン=プロヴァンス
サン=ソヴール大聖堂
西野嘉章
『十五世紀プロヴァンス絵画研究』
岩波書店、1994