1. 普墺・丁抹戦争当時の英国側から眺めたビスマルクの評価−「弱い者いじめ」

2. ヴェルフ基金問題での観察にもとづき、英国側から眺めたビスマルクの評価−「窃盗癖、ならびに皇帝のもつ超法規的権力に依存した免責への逃避」

3. 哲学的観点からのビスマルク批判−「ビスマルクはナポレオンを個人崇拝していた」

3-A 宗教戦争1562-1598仏、1618-1648独)に関して大陸での哲学的決着はついていたのか?

3-B 英国での哲学的決着の内容ならびにエドワード・ギボンの登場(1776)

3-C フランス革命にたいする米国の寄与(1789.08.27人権宣言)

3-D フランスにおける人権宣言の無視、ならびに「自由と平等」名目によるカルト思想の暴発(エドマンド・バークによる批判、1790(省略)

3-E ナポレオンによる先史的「暴力主義」への回帰(ヴァンデミエールの反乱1795(省略)

3-F すなわち独仏両国はともに哲学的解決を実行せず、「暴力主義」を指向した。したがって独仏は同罪。−フランスの一時的な共和制は民主主義ではなく、カルト主義。結果として仏独は「暴力主義」にもとづく永続的な戦争状態に突入 (省略)

4. カルト思想の定義――ビスマルクはカルト思想の定植者
  (省略)

英米側から観察されたビスマルク

 英国、米国は「紳士」の国であるから、相手の落ち度が相当にはっきりしている場合でも、直接にその見解を披露することを差し控える癖がある。人間ははっきり言われなければ分からないのが通常であるから、英米にははっきり分かっていることが、仏独(そして日本)には分かっていないという、ダブル・スタンダードが民主主義国のなかに存在する。

 しかし考えてみよう、独仏には哲学上の隘路を破壊する哲学者が一人も出現しなかったので、民主主義に内在する齟齬(ダブル・スタンダード)を自己解決する道は閉ざされている。だが、日本には聖徳太子という民主主義的哲学者が存在したので、ここに存在する齟齬の解決は「英米に言われなくても自分で解決できる」のである。

 こういう観点からいささか詳しくなるが、上述各項目につき解説してみよう。読者の賛意を得たいと考える。

 では、英米側から見たビスマルク像とはどのようなものであろうか?

 次の順序で説明してみたい。

従来の日本でのビスマルクにたいする評価は、戦前のドイツ型思考方法に準じてビスマルクの絶対視であり、いわば「ビスマルク崇拝」評価になっていた。

 日本は第二次大戦後「民主主義国」になったのであるから、ビスマルクにたいする評価もそれ相応に変化させなければならない。英米側のビスマルク評価を吟味して、その見方を積極的に取り入れなければ、英米の民主主義と日本の民主主義とのあいだに認識上の懸隔が生じ、将来有事の際に問題が露呈する可能性がある。またこれが原因で、民主主義の基盤の上に立つ民主主義国の一枚板が壊れかねない「危うい事態」にある、と考えるべきだと思う。

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“Here is Bismarck with his big broom, scolding and sweeping up all the stubborn Germans.  Let’s go! Faster than that, or the French will eat your sauerkraut!”  lithodgraph by Pinot and Sagaire