このメモをじっくり観察すると、次のような独立戦争の事情があきらかになります。
1. 1774年第一回大陸会議が開催されて植民地の独立が決議され、翌年1775年4月、レキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が開始された、というものの合衆国には
戦費の不足
海軍の欠落
戦争技術に長けた士官の不足
があって、貧乏で戦争技術に欠けた烏合の衆である合衆国軍が英国軍に勝利する可能性はなかった。
フランス革命にたいする米国の寄与
こうして民主主義は、ジェファーソンが下書きしたフランスの人権宣言によってフランスに流れ込んだ。
だが、歴史とは皮肉なもので、フランス国がアメリカの独立戦争のために費消した戦費が原因でフランスの国家財政は破綻し、バスティーユ牢獄への襲撃事件が起り、この結果アメリカが恩義を感じていたルイ16世はフランス国民の憎しみの的となってしまった。そしてジェファーソンの書いた人権宣言はあっという間に反故にされる結果となった。
Geary–Khamis dollarsを使用したPer Capita GDP of France (Historical Statistics of the World Economy:
1-2008 AD)を使用して換算すると、
フランス国が費消した戦費の現在価値は:
13,450
x 22223.02/910.02 = 328,454億円
フランス国の債務総額の現在価値は:
57,835
x 22223.02/910.02 = 1,412,351億円
一説に、この当時のフランス宮廷の収入は5億リーヴルであった、というから僧侶並びに貴族の収入を加えて、総額10億リーヴルと考えれば、アメリカ独立戦争に使われた戦費はこれもやはりフランスの税収入の一年分に相当することになる。
こうしてフランスの国家財政は破綻した。現在の国家予算の視点からすると、この程度の額ではほとんど問題にはならないのだが、当時の国際金融は金融システムが発達しておらず、ユダヤ人の高利貸しに全面的に依存していた事情もあり、ユダヤ人高利貸しの発言権が強くなる結果となったようだ。
独立戦争を戦い抜く合衆国軍の経済的窮乏状態、ならびにロシャンボー将軍の業績については、左の本のうち、
1. 「ドッブス・フェリーでの合流」P157(翻訳)
2. 「ヨークタウンの戦闘」P160(翻訳)
をお読みいただくのが一番だろう。
Wikipedia『アメリカ独立戦争』ならびに『アメリカ独立戦争におけるフランス』を利用して、『アメリカ独立戦争 (Wikipedia:アメリカ独立戦争))という表題のメモを作りました。ご覧下さい。
画像:ロヴィス・コリント画、ギロチンに向かうマリー・アントワネット、 1894。絵画コレクション、アルベルティーナ美術館、ウイーン (1910/406/7)
James Thomas
Flexner
“Washington, The
Indispensable Man”
Back Bay Books,
Little Brown and Company
1974
一方、フランスの支援をうけて英国に打ち勝ったジョージ・ワシントンとフィラデルフィア議会は、フランス国に大変な恩義を感じていた。とくに意思決定者であるルイ16世にたいしては頭があがらない思いをした。
それ故にアメリカ独立後、合衆国はジョン・アダムズ、次にトーマス・ジェファーソンを特命全権公使としてパリに送り出した。ジョン・アダムズはフランス語が話せなかったので、敬遠されたが、トーマス・ジェファーソンはラファイエットとも仲がよく、米仏の蜜月関係が構築された。ジェファーソンは92 Champs-Élyséesのランジャック邸で、他方のラファイエットは183 rue de Bourbonのラファイエット邸を本拠として交遊した。
むりもないことだが、この「両世界の英雄」(注:ラファイエットを指す)は狂信的なアメリカかぶれであった。パリにかまえた新居の壁に「独立宣言」をかけ、そのそばの空所を指さして「これはつぎの宣言、フランスの宣言の場所だ」といったという彼は、モンテスキュー、ルソー、ヴォルテールよりもジェファソンを評価していたのでもあろう。またこの新居には毎月曜サロンがひらかれ、独立戦争に参加したフランス人や滞欧中のアメリカ人が集まり、「アメリカの晩餐」とよばれた。ラファイエットはアメリカ的な制度が最上のものと信じ、これを祖国フランスにも及ぼし、「旧世界のワシントン」たるべく努力するのである。だが、これは結局彼の能力をこえたもので、そこにも彼の悲劇が胚胎することになる。
「両世界の英雄・ラファイエット」樋口謹一
桑原武夫編『フランス革命の指導者』朝日選書104、1978、P34
なにがゆえにフランス政府が破産したのか、債権者と債務者のあいだでどのような協議が行われ、なにが原因で協議が破綻したのかという詳細は多分永久に解明されないであろう。だが、この時代にロスチャイルド家等のユダヤ資本が急激な拡大をとげたことは注目しておかなければならない。このとき、ユダヤ人高利貸しがド・シャルトル公爵(後のド・オルレアン公爵)を抱き込んで、フランス王の破産を目論見とする策略が立案されたのだというもっともらしい説もある。
パリ市民は、国家財政が破綻してパリ市からパンが消えた理由を、王妃マリー・アントワネットの贅沢三昧にあるとして彼女を憎悪したのだが、破産の直接的原因は上の数字で読み取れるように、米国への軍隊派遣費用にあったと考えてよい。
この時代のフランスの貨幣のリーヴルは、その価値がどれだけであったか、正確には知り得ぬが、ざっとした計算だけはしておこう。その当時のルイ金貨を規準に考えると、
1ルイ金貨 = 24リーヴル
1ルイ金貨に含まれる金の重量(netto):7.6490g x 0.917 = 7.014g
田中貴金属2014/11/02売り価格:¥4,602/g
1ルイ金貨=¥32,278.
∴1リーヴル=¥1,345
∴
戦費10億リーヴル=13,450億円
負債総額43億リーヴル = 57,835億円
3. 1778年2月、ついにフランスが同盟し、ロシャンボー将軍が7,000名の将兵とともに7月10日、ロードアイランドのニューポートに上陸した。ロシャンボー将軍は極めて優れた将軍であって、彼の戦術にはおよそ無駄といえるものがなく、1781年10月17日ヨークタウンでコーンウォリス将軍を降伏させるまで、彼はまるで精密機械のように働き続けた。
勿論、ジョージ・ワシントンの粘り強い機略に富んだ戦略と人望が中心になっていたとはいうものの、フランス宮廷からの戦費の提供とロシャンボー将軍の派遣がなかったならば、アメリカ合衆国の成立は困難だったと言い切れる。
2. そこで合衆国はフランスに重鎮ベンジャミン・フランクリンを送り込み、ヴェルサイユのルイ16世宮廷と折衝を継続した。その結果、1776年12月、トレントンの戦いでの勝利をきっかけとして、フランスからの非公式援助
軍事専門家の派遣
ポルトガル商社経由で秘密裡の武器供与
フランス製フリゲート艦を使用したイギリス商船への海賊行為
が開始されたが、アメリカ合衆国には強力な資金源をもつ同盟国が必要であった。
画像:ロシャンボー伯の肖像、ワシントンDC、ラファイエット公園
画像:フランス・・Per Capita GDP
Year
1700 1820
2008
Per Capita GDP 910.02 1134.98 22223.02
注:ベースは(1990 International Geary-Khamis dollars) Angus
Maddison
出典
画像:このルイ金貨は革命前、1785年の王の勅令で定められたもの。
こうしてヨークタウンの戦いにアメリカ・フランス同盟軍が勝ち、この時点でフランスは戦費10億リーヴルを費消し、フランス国の債務は43億リーヴルに達した。(注:戦費についてはwikipedia休戦および結末を参照せよ)
画像:Google 2014。ホワイト・ハウスの裏の一等地、ペンシルヴァニア・アヴェニュー・ノースウエストにある。
画像:1781年9月、有名なヴァージニア岬の第二海戦に従事したフランスの戦列艦、パリ市号とオーギュスト号(左手前の二船)。V. Zveg画。合衆国海軍歴史センター、ワシントンDC。
画像:フランスの人権宣言、1789。