コーンウォリスはそこで決断した。彼は個人的に病気が重く降伏式典に出席できないことにした。彼の代理であるチャールズ・オハラ准将が彼の剣をワシントンに渡すのではなく、誰かフランス人の士官に渡すことに務めた。コーンウォリスが副官を立てたのであれば、オハラの降伏する相手も副官であるリンカーン将軍になるのだが、リンカーンはクリントンがチャールストンで侮辱した相手であった。

 ワシントンは彼に説明されたこのシナリオに感銘を受けたが、同時に困惑した。コーンウォリスはフランス人同様、この順序をたしかに理解した。ワシントンは自分の身になって考えると、ほとんど必然的ともいえるこの大惨事を行動せずにただひたすら待つ、なんてことはできるはずがなかったので、コーンウォリスがそのような受け身行動を続けるとは考えられなかった。確かにコーンウォリスはそれがいかに危険であっても、逃げる努力をするであろう。そして彼はなにか実現可能なルートをもっているはずだとワシントンには思えた。

 ヨークタウン要塞の後ろを流れるヨーク川はヴァージニアを西方向に貫いている。英国の小艦隊は市壁に面してごたごた集まっていた。これらの船の多くは吃水が深すぎて川上へ遡れなかったが、充分な数の船は使用することはできるし、コーンウォリスが彼の部下とともに暗夜に追い風を受けて撤退することもできるはずだ。もちろん彼は武器と兵站の大部分を置き去りにする必要があったが、それは大陸軍の指揮官の目には克服できない困難ではないように思えた。もし一旦コーンウォリスがヴァージニアへ逃げ込んで自由を得たら、彼はワシントンと同じ軍隊流儀で進み、安全への道を見つけることだろう。

 ワシントンはこの可能性をド・グラスに説明し、フランス海軍のフリゲート艦数艘をして闇夜と風を利用してヨークタウン防護をくぐり抜けさせ、ヨーク川を閉鎖してしまうよう説いた。フランス提督はアイデア全体を笑った。彼のフリゲートが受けるリスクが大きすぎ、コーンウォリスはそれほどクレージーではないというのであった。

 第一段階は、英国軍のカノン砲の射程外に一本の塹壕を掘り、部隊は無傷でそのなかに入る。この塹壕を要塞の方角に延長するが、敵のカノン砲によって縦射を浴びせかけられないような角度をつける。この「第一平行塹壕」が目標距離だけ前進したあとで、重カノン砲を収める窪地を作る。幾隊ものほふく(匍匐)兵が重砲を曳き入れる。これらの重砲を使い、英国側カノン砲が止まるまでヨークタウンの市壁を叩き潰す。

 敵の抵抗力を弱めるプロセスが完了したら、「二番目の平行塹壕」を壁の近くまで前進させ、カノン砲が砲弾を要塞越しに敵陣地そのものに、ゆるい弧を描いて着弾するよう配置する。英国側の2つの砦が第二平行塹壕の道を邪魔するように配置されている。これらの砦に急襲をかける。これらの砦は主たる要塞とは切り離されていて多数の兵員を容れることができないから、確実に取得されよう。

 いずれかの時点で、英国軍は体面的な面子の問題があり、壁の後ろからフランス・アメリカ塹壕に向かって突撃してくるだろう。だが、力のバランスがあまりに大きいので、砦の防備を目的とするこのような機動作戦をおこなっても死者と負傷者の山が築かれるだけで得るところはなにもない。そして、一旦英国軍陣地と市壁の後ろの町がカノン砲の砲火にさらされるや、降伏までの時間は、コーンウォリスがどれだけ多くの犠牲者を甘んじて受け入れるかという問題だけにかかることとなる。

 英国軍がトラブルに遭遇したときには、愛国者(志願兵)達が群れをなして集まってくる。ワシントンはすぐに9,500名の実兵力を得た。フランス軍はロシャンボー指揮下の軍とド・グラスがつれてきた部隊とを併せ、8,800名であった。5ないし6千名と推定されるコーンウォリスの兵員達の安全は彼らの要塞に依存していた。これらの砦は英国工兵によって設計されたが、しかし専門知識に反するところがあった。14回の包囲戦に立ち会ったことを自慢しているロシャンボーは、ワシントンにこう伝えた。これから先は、軍事科学が連続的に行動を指示してくれる。そして、英国側に予期せぬ増援があってテーブルがひっくりかえされない限り、結果は必然的である。:ヨークタウンは陥落し、コーンウォリスは降伏する。

ヨークタウンの戦闘

画像:第9号砦の襲撃、17811014日、ラファイエットが400名の兵士を率いて急襲。

画像:ワシントンが最初の大砲に点火する。

画像:提督フランソワ・ド・グラス伯爵

 普通の歴史はコーンウォリスの降伏を革命におけるアメリカの勝利と同一視する。しかし、ド・グラスの協力がニューヨークの英国稜堡を粉砕することにつながらなかったことをまだ嘆いていたワシントンは、こう書いている。ヨークタウンの攻略は、それが今後の事態改善につながれば生産的であるかもしれぬ興味深い事象だが、もしそれが骨休めの手段となり我々を仰臥と(誤った)安全のなかに沈めるのであれば、生じなかったほうがましだ。

画像

フランスの小艦隊によるヨークタウンでの英国軍の条件付き降伏
コーンウォリス卿指揮下の英国軍隊が、ヨークタウンとグローセスターで、ジョージ・ワシントン将軍並びにロシャンボー将軍指揮下のアメリカ・フランス連合軍へ降伏する。17811019日。

A: ヨークタウン、
B: グローセスター、
C: 英国軍、
D: 梱包された敵の武器、
E: フランス軍、
F: 合衆国軍、
G: ド・グラス伯指揮下のフランス海軍、
H: チェサピーク湾、
I: ヨーク川、

着色銅版画
ヨークタウン降伏の想像上の概観図、左側の平原に多くの集合軍隊と騎馬士官達、右側の岸辺に戦艦群;制服の着色は不正確。

フランス海軍による海上封鎖と陸上の勝利を顕わす数少ない作品の1つ。

 第一平行塹壕が殺傷目的を達成したあと、第二平行塹壕線上にあった砦は効果的に襲撃された。予期された英国軍の突撃は予期された数の死傷者をだして効果なく終った。第二平行塹壕に設置された大砲はヨーク川の小英国艦隊に火をつけ、町を打ち砕いた。脱走兵が報告するところによれば、コーンウォリスは「グロット(洞穴)」のなかに隠れ、どんどん穴を掘って迫るイタチに追いかけられている兎のごとく、希望をうしなった絶望状態で縮こまっていた。最終的に、彼の掩蔽壕の上での血と破壊にとても耐えられなくなって、コーンウォリスは発作的な痙攣をおこした。:彼は彼の軍隊をフェリーに乗せてヨーク川の対岸に運ぼうと努力し、そしてあきらめた。1017日、彼はワシントンに使者を立て、「降伏条件を協議するために」24時間の停戦を申し出た。

 ド・グラスの心配は(それはまたワシントンの心配でもあり、事実コーンウォリスの希望であったのだが)いくつかの報告書が示しているように、英国の艦船が(ニューヨークで)補強されて帰ってきて、この地域のフランスの制海権に再び挑戦することであった。あるいは、予期せざる問題が生じて包囲戦が遅れヨークタウンが陥落する以前に、提督が他のコミットメントを果たすために西インド諸島へ帰らざるをえなくなることであった。

 あとでわかったことだが、英国艦隊は現われず、包囲は時間通り進んだ。毎朝、ワシントンは会議に出席したが、その会議では、彼はフランス人の専門家からその日アメリカ軍はなにをすべきかにつき指示されるのであった。第一平行塹壕が完成したとき、彼は名義上の総司令官として最初の大砲の発射に招待された。それはフランス製の大砲で、真新しく、完全に装備された弾薬を装填し、訓練された砲手が配置されていた。ワシントンは砲弾が英国側の防壁のあらかじめ彼に示されていたまさにその場所に命中するのを見て驚いた。アメリカ人の赤ゲット(赤毛布)砲兵隊は完敗であった。

画像:ジャン=バティスト・ド・ロシャンボーは、フランスの伯爵、フランス軍の元帥である。フルネームは、ジャン=バティスト・ドナティエン・ド・ヴィムール, ロシャンボー伯爵。アメリカ独立戦争の最後の局面でフランス軍を率い、イギリス軍を降伏させる重要な役割を演じた。

 さて、奇跡的に全てが落ち着くところに落ち着いた。コーンウォリスは連合軍が接近して実際に威嚇してくるまでは事前警告がなかったので、彼の要塞の外に行進することもなく、要塞の補強に務めた。ニューポートから弱体のフランス艦隊が英国海軍の監視を逃れて来航し、カノン砲ばかりでなく、チェサピーク川で部隊を流れ渡すために使う吃水の浅い船をいくつかもってきた。英国の海軍援兵が(ニューヨークから来航し、チェサピーク湾口に)現われたが、彼らは予期されていたようには強くなかったし、能力ある指揮が欠けていた:有名な海将ロドニーは病気だった。グラスと決定的ではない小競り合いを行ったのち、英国海軍は撤退し、ド・グラスに制海権を与えた。コーンウォリスはヨークタウンに閉じ込められた。

1781年ワシントンとロシャンボーの行程図

Washinton-The Indispensable Man』の部分翻訳

P160ヨークタウンの戦闘の詳説

1:ヨークタウン戦闘配置図をのぞき、画像はすべて翻訳者によりアレンジされたもの。出典は各画像に注記してあります。

2『アメリカの旅』「ヨークタウンの戦闘」とオーバーラップしていますので併せてお読み下さい。

 そう。ヨークタウンの獲物はワシントンが期待していたよりも大きかった:7,241名の兵隊と840名の海兵、244門の大砲と何千もの小銃。しかし、英国はアメリカの土地における彼らの精力の四分の一を失ったにすぎない。ハリファックスからチャールストンに至る敵軍はまだ大陸軍の7倍の数である。そしてド・グラスは彼の帆を揚げ、英国側にアメリカ海での制海権を回復させて、西インド諸島に帰った。

画像:コーンウォリス卿の降伏、17811019日、ジョン・タンブル画
英国軍がフランス軍(左)とアメリカ軍(右)に降伏する。
カンヴァス、油、1820
合衆国議事堂ロタンダ

 チャールストンが陥落したとき、クリントンは反逆者達にたいする軽蔑感を表わすために、善戦した敗北軍に伝統的に与えられる「降伏軍への特典」を拒絶したのである。他にもいろいろ恥を掻かせたことに加えて、アメリカ軍は自らの軍旗を掲げて降伏式典で行進することを許して貰えなかった。この同じ名誉がコーンウォリスに適用されると、彼の軍隊はすべてのヨーロッパの前で恥をかかされることになる。だが、ワシントンは断固主張した。

画像:第10号砦の襲撃、17811014日。アレキサンダー・ハミルトンが襲撃隊長。

 降伏交渉の間、ワシントンはこの勝利が惨劇によって台無しにされることを望まず、ひとつの口実に同意した。その口実を使えば、英国軍はさもなければ拘束されてしまうアメリカの王党派と、さもなければ絞首刑に処せられる英国軍へのアメリカ人脱走兵を、神隠しにすることができた。捕えられた奴隷は彼らの主人達のもとに返されるべきこと、そして英国軍は無条件で戦争犯罪人となること。しかし、ひとつの重大な問題が持ち上がった。:ワシントンがこう主張したのである。「降伏軍にはチャールストンの守備隊に与えられたとまったく同じ名誉が与えられる」。

注:チャールストンの戦い

1776512日、サウス・カロライナ州チャールストンの包囲作戦で、リンカーンが5千人の兵とともに降伏した。

画像:ヨークタウンの包囲、オーグスト・クデ画、1836年頃
ロシャンボーとワシントンが戦闘に先立ち最後の指示を与える。

ヨークタウンの包囲戦、1781930日から1019日まで
画像:ジェイムズ・トーマス・フレクスナー『ワシントン』P161、一部修正。

英国軍海上ルート

画像アメリカ合衆国国立公園局地図、W3R Route
ワシントン・ロシャンボー革命ルート公式地図

英国軍陸上ルート

フランス・アメリカ同盟軍海上ルート

フランス・アメリカ同盟軍陸上ルート

画像チャールズ・コーンウォリス
トマス・ゲインズバラ画 国立肖像画美術館、ロンドン