写真:登場人物は次の通り。左から

(フランス軍の)将軍ジャン・バプティスト・ロシャンボー伯爵
(アメリカ軍の)ジョージ・ワシントン将軍、将軍ラファイエット侯爵
(フランス海軍の)提督フランソワ・ド・グラ−ス伯爵

以上。

では皆様、ご機嫌よう。

翻訳:

ジェームズタウンへようこそ

1607513日、イングランドの植民者達がジェームズタウン島に開拓地を開いた。沼地によって守られていたので、この場所は防御可能のように見えたし、帆船が直ぐ沖合に碇泊することもできた。この平地はまた無人の場所を選べというヴァージニア会社からの指示にも合致するように見えたからである。事実、ここはパスパヘー族の領域であり、その種族との争いがこの植民地を悩ませた。更に、低地であることにより、蚊により伝搬される病気の原因となり、続いて起こった干ばつの間は飲料水の欠乏の原因となった。にもかかわらず、ジョージ・パーシーは初期都市での植民者達のプライドを次のように回想している。

615日、私達は砦を建設し完成させた。それは三角形で、半月のようにすべての隅に三個の堡塁を設け、野蛮人にたいして充分に強くなるようにそれらに4ないし5基の大砲を装備した。私達はまた、大部分のトウモロコシを二つの山に種付けしたので、それは地面から人の背丈ほどに伸びた。この国は実りある土地なのだ。」

 ウィリアムズバーグというのはアメリカ・ヴァージニア州の古都である。右の地図の中央にWilliamsburgがあり、その南西下にアメリカ大陸で最初の入植地ジェームズタウンがある。

 ジェームズタウンはアメリカ大陸最初の入植地として有名であるから、ジェームズタウンで撮影した掲示板の写真を二枚掲げておきましょう。

地図:

「これらの艦船は火の渦につつまれた。火は、活発に輝きながら、可燃性の索具に燃え広がり、驚くべき早さで何本ものマストのてっぺんまで駆け上がり、その間にも、辺り一帯はわれわれの無数の大砲と臼砲からの雷鳴と閃光で充ちて、夜の闇のなかで思いつく限りの荘厳で壮大なスペクタクルの一つと化した。」(大陸軍外科医、ジェームズ・サッチャー)

写真:フランスの砲兵中隊の位置。木立越しにヨーク・リバーが望める。

フランスの塹壕

アメリカとフランスの戦線の最左翼は、サン・シモン侯爵に率いられたフランスの砲兵中隊だった。109日、この軍が英国陣にたいする最初の砲撃を開始した。狙いは近隣のロイヤル・ウエールズ歩兵砦だった。フランス軍は自軍の位置の戦術的な優位性を活かし、英国軍を守備ラインの内側に閉じ込め、また、ヨークタウンとグローセスター岬の間に停泊していた英国の艦船を悩ませることとなった。1010日、「熱弾」と称される過熱された砲弾を用いてこのフランス砲兵中隊は三隻の英国船に火をつけた。

翻訳:

この土塁には(フランス軍の)トゥーレーヌ連隊が配置され、ヨークタウンを包囲するフランスとアメリカ軍隊の最西翼となった。この前線からフランス軍はヨーク川に浮かぶ艦船と貴方の背後に位置する英国軍に砲火を浴びせた。

写真:フランス軍の最左翼の陣地に残されている大砲。

画像:9月末ヨークタウン。

 海戦のニュースを聞いて、ワシントン、ロシャンボー両将軍はウイリアムスバーグへと急ぎ、フレデリックスバーグで912日の夜を過ごしたあと、ハノーヴァー裁判所並びにニュー・ケント裁判所を通り過ぎ、14日にウイリアムスバーグに到着した。ここで彼らは、この夏以来ヴァージニアでアメリカ軍を指揮していたラファイエット少将と落ち合った。連合軍は物資と装備を調え、長距離を行軍してきた荷馬車隊と部隊が到着するとともに、928日に前進を開始し、ヨークタウンでコーンウォリスの8300人からなる軍隊の包囲戦を開始した。連合軍は三週間ヨークタウンをじりじりと包囲したのち、八日間コーンウォリス軍を激しく砲撃した。逃亡あるいは増援の希望が消えて、1019日、コーンウォリスは降伏した。これはこの戦争で最大かつもっとも決定的な勝利であり、これが結果的にアメリカの独立への道を開いたのである。

 アメリカ軍の船艇は、なにがしかの連合軍歩兵をチェサピーク湾へ、ヘッド・オブ・エルク(現在のメアリーランド州エルクトン)からアナポリスへと、輸送するのに成功した。残りの軍隊はアナポリスへと陸上を行進し続け、ここで歩兵隊は休養して南方へのボート輸送を待った。連合軍の野戦砲兵隊、兵站部隊、ならびにフランス軍騎兵隊(軽騎兵)は道路沿いにヴァージニアに向って南下した。砲兵隊と荷馬車隊はウイリアムズバーグへ到着したが、そこはヨークタウンから12マイルしか離れていなかった。一方、フランスの騎兵隊は迂回して、ヨークタウンから川越しの対岸になるグローセスターに到着した。

 ワシントンとロシャンボーは、幾人かの参謀将校を伴い、本隊とは異なるルートを通った。彼らはボルチモアから出発し、(現在はワシントンDCの一部となっている)ジョージタウンでポトマックリバーを渡り、アレキサンドリア、ヴァージニアを通過し、ワシントン将軍の農園ハウスであるマウント・ヴァーノンで短期間休養した。ワシントン将軍は、マウント・ヴァーノンには六年以上も来たことがなかったのである。ワシントン将軍はフランスの客人達をもてなすために、一行に先駆けして、一日で驚くべし60マイルを駆けた。ロシャンボーと参謀将校達は翌日到着した。連合軍の指揮官達はマウント・ヴァーノンで910日と11日休養を取った。912日に、彼らはフレデリックスブルクへと出発した。

 連合軍の指揮官達がドムフリーの村を通過したときに、ひとりの騎手が至急報をもたらし、グレーブス提督の英国艦隊がチェサピーク湾の入口付近で目撃されたこと、並びにド・グラス提督がヴァージニア岬沖で決定的な海戦を戦うために出帆したことを伝えた。この海戦は決定的な戦いにはならなかったのだが、ド・グラスが認めたように、戦略目的は充分に達成されたので、英国艦隊にたいする追撃は中止して湾口を守備するために帰ってきた。英国海軍グレーブス提督は修理と補充のためにニューヨークに帰港せざるをえなかった。こうしてこのフランスの艦隊はチェサピークから逃げ出したいというコーンウォリスの希望を打ち砕いた。一方、ロード・アイランドのニューポートに所属する海軍大将ド・バラスのフランス海軍小艦隊がチェサピーク湾に滑り込み、連合軍の包囲攻撃に加わり、援兵を上陸させた。

写真:復元された野営地

説明文の翻訳

 1781814日、ワシントン将軍とロシャンボー(仏軍)将軍は、海軍大将ド・グラス率いるフランスの大艦隊がフランス兵士三千名を乗せてチェサピーク湾に向っているとの情報を入手した。そこには英国軍大将コーンウォリス卿がヴァージニアのヨークタウンで彼の軍隊とともに野営していた。連合軍の二人の指揮官は迅速に決定を行ない、彼らの軍隊を南方に450マイル移動させ、コーンウォリスの包囲戦に参加させることにした。これがこの独立戦争諸会戦の頂点となった。

 彼らの行路はニューヨークのホワイト・プレインから出発し、ニューヨークのストニー・ポイントでハドソン川を横断し、プリンストンとフィラデルフィアでは休養を取り、ペンシルヴァニアのチェスターで95日、(フランス海軍の)ド・グラス提督がヴァージニアに到着し、サン・シモン将軍の指揮のもとに援軍をジェームズタウンに上陸させたことを知った。

画像:The Washington-Rochambeau Route to Victory

赤線は)ワシントンとロシャンボー伯爵の勝利への道

 以下、この掲示板の説明を読むこととしましょう。

写真:Colonial National Historic Park, Yorktownに設置された掲示板

画像:
ヴァージニア州ヨークタウンの包囲戦。連邦軍の第四砲兵中隊
兵士達と13インチ臼砲三基
議会図書館資料から

写真:ヨークタウンはウィリアムズバーグの東20kmの地点にある。アメリカ軍とフランス軍が共同で英国軍の包囲作戦を行なった、その当時の砦などが復元されている。

 ヨークタウンについては、事前の知識がまったくなかったので、国立歴史公園の掲示板に頼りました。ここに翻訳文を載せておきます。

ヨークタウンの戦闘

Colonial National Historic Park, Yorktownの掲示板より
2011/10/23

ジェームズタウン

なお、英語による説明:「ヨークタウンの包囲作戦とコーンウォリスの降伏