ドッブス・フェリーでの合流

 ボロを着たアメリカ軍隊にふさわしいヨーロッパ的な概念を探しだそうと考えて、いろいろの士官達が彼らを浪漫以前の文学にでてくる自信にみちた空威張りをしている絵画的な山賊に例えた。フォン・クローゼンが生真面目に書いている。「信じられないことだが、兵隊達はあらゆる年齢の人達から構成されていて、15歳の子供達、白人も黒人も、111人は裸であったし、給料は払われず、食料補給状況は悪いのだが、行進はとても上手で、断固たる決心で砲火に耐えた」。彼は賞賛した。「ワシントン将軍の落ち着いた計算づくの処置。私は毎日それらの中になにか新しい卓越したものを発見していた・・・彼は確かに彼の軍隊の指揮官として素晴らしく、賞賛に値しており、すべての人が彼を父親・仲間とみなしていた」。

画像David Wagner画。 ヨークタウンへの道すがらメリーランド、ポート・タバコ裁判所前で。ロシャンボーの補佐官、ルードヴィヒ・フォン・クローゼン男爵とマリー・フランソワ・クロモ・ドゥブール男爵

 調達にはひじょう困難な努力が伴ったが、ワシントンはやっと30人のフランス人に夕食を差し上げることができた。彼らは、提供されたコーヒーが薄く、サラダ・ドレッシングはたんなる酢ではないかと苦情を申し立てた。さらに、客ひとりにたった一枚の皿しか与えられず、すべてをてんこ盛りにしなければならなかった。彼らはアメリカ軍の本部の略式さに目を見張った。全員がなんと長く席についていることか、ワシントンがなんと夕食を楽しんでいることか。彼と彼の仲間のアメリカ人士官達は時間をかけてヒッコリー・ナッツを割り、「自由で愛想のよい」会話を楽しみ、茶目っ気のある乾杯を行ない、しばしば野卑になった。ワシントンがあまり沢山酒をのまなかったので、あるフランス人の貴族は、この陽気さは永遠に彼を痛めつける諸問題からの感情的な解放なのだ、と結論づけた。

 178176日、ロシャンボーの軍隊は、マンハッタンの12マイル北のドッブス・フェリーの近くでワシントン軍の側に移動した。直ちにアメリカ軍を責めさいなむような社会的な問題が発生した。(アメリカ軍の)士官達は色褪せて破れた制服を着たり、あるいはまったく制服がなかったりしていたのだが、彼らが曝されたのは、しみひとつない、金刺繍の、色鮮やかで、メダルと羽根飾りで飾られた士官達の面前だった。フランス士官達は、充分な糧食を買うのに現金を使い贅沢な歓待を行ったのだが、アメリカ人達がお返しをするときには飢えをしばらく隠して、充分な食料をかき集めるのがやっとのことであった。

画像シャグバーク(Shagbark )ヒッコリー・ナッツ

画像:ドッブス・フェリー村


The Revolutionary Journal of Baron Ludwig von Closen, 1780-1783. Translated and Edited with an Introduction by Evelyn M. Acomb. (Chapel Hill; The University of North Carolina Press for the Institute of Early American History and Culture. 1958. Pp. xxxvi, 392. $7.50.)

部隊長ルードヴィヒ・フォン・クローゼンは、アメリカ独立戦争の頂点の時期に、アメリカ駐留フランス軍に従軍したドイツ人の傭兵であった。彼がフランス語で書いた回想録のオリジナルは失われて・・・云々。

Washinton-The Indispensable Man』の部分翻訳
   P157

:フォン・クローゼン男爵

ヨークタウンでのロシャンボー・フランス軍のメンバーであったフォン・クローゼン男爵は、17817月、次の通り書き記した。「(アメリカ軍の)四分の一は黒人であった。彼らは、陽気で、自信にみちており、頑健であった」。

画像:Dopps Ferryの場所、Google Map 2014