昼食のあと、メトロで凱旋門に出て、地下道で凱旋門に出たが、凱旋門はチラと見ただけで、あとはシャンゼリゼ大通りをフランクリン・D・ルーズベルト駅まで歩いた。
ジェファーソンは、
1776年に独立宣言を書き、
1781年独立戦争が終了し、
1785年駐フランス公使となった。
1789年7月14日バスティーユの襲撃直後ラファイエットによって起草され、8月26日に憲法制定国民議会によって採択された「人間と市民の権利の宣言」は、ジェファーソンが裏で手伝った、と考えられる。こう考えると、92 Champs-Élyséesはフランス民主主義理念発祥の地であると断定されてもおかしくない。ジェファーソンがランジャック邸を去ったのは、同宣言が採択されて一ヶ月のちの1789年9月26日だった。この「人間と市民の権利の宣言」が、のちのフランス民主主義の基本となる。
シャンゼリゼ大通り
2014/5/24
画像:Google Map, 2014、一部改変。
画像:(翻訳)
ここに合衆国フランス公使トーマス・ジェファーソンが住んだ(1785-1789)。
彼は合衆国大統領(1801-1809)であり、アメリカの独立宣言起草者である。云々。
画像:Jefferson's House in Parisはシャイヨー鉄柵の左手。この絵で見る限り、当時のシャンゼリゼは現在のシャンゼリゼ通りの車道部分に相当し、ランジャック邸は現在の歩道の位置にあったようだ。
引用:(翻訳)
「私はついに現在の家よりももっとずっと好ましい家を手に入れた」とトーマス・ジェファーソンは1785年9月4日アビゲイル・アダムスに手紙を認めた。彼は続けて次のように言う。「この家は細々とした点にいたるまで私の気に入っていて、私が現在入居している家よりずっと良い。」この引っ越しへの刺激となったのはたぶん、ベンジャミン・フランクリンの交代で彼がヴェルサイユ宮廷公使へと昇進したことであろう。ジェファーソンは1785年9月5日、レスピナス・ランジャック伯オーガスト・ルイ・ヨーゼフ・フィデル・アルマンとの賃貸借契約書に署名した。賃料は年間3,500リーブルで四半期毎の支払条件付だった。しかし、私的な契約書によれば、実際の賃料は年間7,500リーブルだった。彼と彼の娘マーサ(“パッツィ”)が新居に引っ越ししたのは、1785年10月17日だった。
この家はランジャック邸と呼ばれていたタウンハウス(現在の言葉で「集合住宅」)で、現在のベリ通りとシャンゼリゼの交差点にあった。この位置は、その時代城郭(囲郭)都市であったパリ市にぎりぎりで入っていた。市門であるシャイヨー鉄柵がベリ通りの地点でシャンゼリゼを横切っていた。加えて、より小さな門がベリ通りを閉ざしていて、その門の直ぐ内側にランジャック邸への出入り口があった。1787年、パリ市はシャイヨー鉄柵を拡張して現在のエトワル広場へと移した。
赤い矢印のところに在るはずの銘板を見にいったのだが、残念、工事中の柵で覆われていてなにもみえなかった。
注:ランジャック邸
だから、今日の散歩は雰囲気を楽しんだだけの暇潰しの結果となったが、これで私は充分満足なのだ。
では皆様ご機嫌よう。
直ぐ隣のアーケード(Arcades des Champs-Élysées)に入ってみた。典型的なパリのアーケードの1つなのだが、あまりの雑踏に辟易して飛びだした。
そこが目当てだった92 Champs-Élyséesは、ベリ通りとシャンゼリゼの交差点にあるはずだったが、工事中だった。ここにアメリカのフランス公使トーマス・ジェファーソンが住んでいたのだ。
画像:Google Map 2014 撮影は2013年8月。
リドは昔と場所が変わってしまったが、メトロの駅に近くなったから便利になったかもしれない。
土曜日だったせいだろうか、凄い人出である。最近は通りの掃除は手牽きの真空掃除機で行っているらしい。
いまや歳をとってしまって、時計屋にも貴金属屋にも興味なく、一人で散歩だからカフェに入るのも気がひけて、だからなにもせずにブラブラ歩きをすることになる。ベンツのギャラリーがあったが、飾られていたのはAMG製の奇抜な車体で、ガル・ウィングのドアは見た目には素晴らしいが、AMGによる改造だから乗り心地はさあどうかなあ。