画像:Google Map, 2014。シェーンハウゼンの位置(A印)。

哲学的観点からのビスマルク批判

          「ビスマルクはナポレオンを個人崇拝していた?」

 私たちは次にこの時代の哲学性を調べます。英米の政治家・学者が指摘する哲学上のポイントは、独仏流の教育を受けた人達(日本人も含む)にはとても分かりにくいと思われます。ただ英米の考え方は、結果として現在、非常に単純化されていますので、説明されれば拍子抜けするほど簡単ですが、そこにいたるまでの歴史的経過がありますので、これらをまず理解したほうがよいでしょう。次頁から続くいくつかの項で簡単に歴史的経過を辿ることとします。

 一旦理解できると、理屈は極めて簡単ですから、アメリカ人に「君たちは12歳の少年である」(マッカーサー元帥)とくさされる前に、英米人の論理を自家薬籠中のものにすればよいのです。

 では、皆様、あと少しですから頑張ってください。

画像:ティルジット条約により約半分の面積に縮小されたプロイセン王国(Königreich Preußenと書かれた青色地域)、1812年。紫色点線で囲まれているのがライン同盟。ビスマルクの生まれたシェーンハウゼン(赤点)はエルベ河の右岸であり、辛うじてプロイセン王国にとどまっていた。

 シェーンハウゼンは、プロイセン王国のベルリンとハノーファー王国のハノーファーの間にはさまれ、中世の暗黒時代を眠りこけていた田舎だったが、プロイセン王国が1806年第四次対仏大同盟に参加し、直ちにイエナ・アウエルシュタットの戦いで破れ、エルベ河の西岸はナポレオンの支配するライン同盟となった。ウイーン条約(181569日)でプロイセン王国が失地を回復したのは、ビスマルクが生後2ヶ月のときであった。つまり、長年眠っていたプロイセンの片田舎はナポレオンに蹂躙され、大地震のような衝撃を受けたのである。フランスの占領下で軍制改革、農民解放、行政機構の刷新が行われた。一方では、フランスによる支配がドイツ人に民族としての自覚を生じさせ、ドイツ統一を目指す運動が始まった。このような時代背景にあって生まれたビスマルクにとって、対面する相手は英国ではなく、ひとえにフランスであり、フランスの革命者ナポレオンだったのです。

 このように、

       弱者にたいする執拗ないじめ
       他人の財産の窃盗
       嘘と三百代言
       嘘がばれた場合の上位者権限による
       超法規的免責の適用

など彼の悪事は並び立てればきりがないのですが、これらをいちいち数え上げてビスマルクを難詰するのは、彼が置かれていた時代背景を無視して、すべての原因を彼になすりつけることにつながりかねませんから、公平さを欠きます。そこで彼への中傷を一旦中止して、彼の時代の哲学背景について調べることにしましょう。

 まず第一に指摘すべきポイントはビスマルクにたいするナポレオンの影響です。

 ビスマルクが生まれたのは、ブランデンブルクのシェーンハウゼンで1815年でした。

画像1806年それまで中立を保ってきたプロイセン王国が第四次対仏大同盟に加わり開戦した結果、1014日イエナ・アウエルシュタットの戦いでナポレオンに敗れた。「世界精神が馬に乗って通」(ヘーゲル)ったのである。18077月のティルジットの和約により、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化した。青矢印が決戦場アウエルシュタット。赤矢印がビスマルクの誕生地シェーンハウゼン。

 ビスマルクの「その場しのぎ」の虚言癖については、フランス人も憤っています。彼らは、普墺戦争前の1865104日に、ビアリッツのユーゲニー宮殿でビスマルクとナポレオン三世との間で交わされたビアリッツの密約があったと主張し、彼の虚言にたいして「ケーニヒグレーツの復讐」を誓いました。フランス人は普墺戦争で武力干渉しないことの代償として、ライン川の左岸がフランスに割譲されるものと信じたのです。

ビスマルクは生涯を通して嘘をつきつづけたので、晩年、いざ自叙伝を書く段になって口述を始めたが、自分でもどれが本当でどれが嘘だったのか訳が分からなくなってしまい、自叙伝は完成にいたりませんでした。(ちなみに『男と政治家』(The man & the Statesman, Otto von Bismarck)は一見彼の自叙伝に見えますが、実は英国人歴史家A. J. P. Taylorにより1955年に書かれた伝記です。)

画像:現在のHôtel du Palais, Biarritz。昔のユーゲニー宮殿