(普仏戦争の際の)

 パリ砲撃をめぐってのモルトケとの対立の際に浮上してくるのが、ビスマルクのフランス人に対する取り扱いの問題であった。彼はゲリラに厳しい報復措置をとることを求めた。「裏切りがあると思えるすべての村にただちに火を放ち、すべての男子を吊るし首にすべきだ」と主張し、バイエルン軍が「ゲリラ兵をただちに射殺する」ことを賞賛した。・・・

 更に加納は続ける。

 ビスマルクはまた「帝国の敵」という名のもとに、「文化闘争」時にはイエズス会士を追放し、「社会主義者鎮圧法」で社会民主党員を徹底して弾圧した。1893年になっても彼は社会民主党員について、「彼らは国の鼠だ。そして駆逐されるべきだ」と述べている。ビスマルクのポーランド人に対する蔑視はすでに言及したが、彼は帝国創建以来始まった「ゲルマン化」政策で、プロイセン東部に住む二百五十万人ものポーランド人にドイツ語を強要した。さらにはポーランド人が革命を起すのではないかと恐れて、ビスマルクは1885年の冬に、ロシア国籍とオーストリア国籍のポーランド人をすべてプロイセン領内から追放した。日本の朝鮮連合で、韓国人、朝鮮人に日本語を強要したことを思い起こさせるものがある。

(『ビスマルク』加納邦光 清水書院 (2001/08) P118

 加納は「彼の言動にはそのつど、恐ろしいほどの野蛮さが見られ、ヒトラーとの近似性を取り沙汰されても仕方のない一面もあった。」と述べている。

画像GIVING THE SHOW AWAY
ドイツの新聞社写真家が言う。「閣下、服装は完全です。装飾品も完璧です。しかし、これまでのすべての大勝利に鑑み、ほんのちょっと勝ち誇ってくださってはいかが。」
英国漫画雑誌Punchから

「弱 い 者 い じ め」

186675日、英国ヴィクトリア女王の三女ヘレナがウインザー城で結婚式を挙げることとなり、ヴィクトリア女王の長女であるポツダム在住の姉ヴィッキーが第四女であるルイーズ(当時まだ未婚)に手紙を寄せて、「妹ヘレナの結婚祝いにはなにが良いか」と尋ねてきた。おっちょこちょいのルイーズは何気なしに、大皿に乗せたビスマルクの首がよくてよ、と答えた。(引用:『ヴィクトリア女王(下)』)

ヘレナの結婚相手はシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアンであった。クリスティアンの兄はフリードリヒ8であり、シュレスヴィヒとホルシュタインの公爵位につくことを主張していたが、第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の途次、ビスマルクの奸計にかかり、公爵位請求権を放棄させられた。周囲から見れば、ビスマルクによって絞め殺されたも同然の措置であった。シュレスヴィヒ・ホルスタイン両公爵領は普墺両国によって簒奪されたので、クリスティアンは無位階で財産もなかった。ヴィクトリア女王はビスマルクへのあてつけとしてクリスティアンを娘婿に迎えた。

画像:現在のキール運河、ブルンスビュッテル

ビスマルクの狙いは次にあった。

1. ドイツには海軍の母港とすべき港がなかった。ホルスタイン公爵領のキールが唯一の港であった。

2. 当時デンマークはユトランド半島をまわりバルト海に出入りする船舶から通行税を取り立てていたが、通商上の阻害要因となるため、キール運河を開削してバルト海と北海を結ぶバイパス航路建設をめざしていた。このキール運河はシュレスヴィヒ公爵領を通る予定であった。(当時は、1784年デンマークのクリスティアン7世によって作られたシュレスヴィヒ公爵領アイダー川を利用する小規模なアイダー運河が稼働していた。)

画像10歳代のルイーズ
© National Portrait Gallery, London
Princess Louise Caroline Alberta, Duchess of Argyll
by John Watkins
albumen print, late 1860s
3 5/8in. x 2 3/4in. (93 mm x 70 mm)
acquired Unknown source, 1970
NPG Ax21898

参考事項:

1. シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争要約

2. 『ヴィクトリア女王(下)』スタンリー・ワイントラウブ、平岡緑訳 中央公論社 1993から抜粋

3. 『ビスマルク』ジョナサン・スタインバーク、小原淳訳 白水社 2013から抜粋

4. 加納邦光による次の所見も併せ参考にされよ。

 つまり、両公爵領はドイツにとって戦略的に必要欠くべからざる地域であった。そこで奸計を策して戦争をおこし、フリードリヒ8世から暴力的に公爵領を巻き上げたのである。傍から見れば、大国が力任せに弱小国を取りつぶした結果となり、同情はフリードリヒ8世に集まった。ビスマルクはこれに味をしめ、普墺戦争終結後、北ドイツ連邦形成の過程で、ヘッセン、ハノーファー等を次々と取りつぶした。手口としては、まず戦争、戦争に勝利したうえで弱小国を取潰す、と言うプロセスであった。そのやり口の汚さについては下記参考事項3.を参照のこと。

 これが英米から見たビスマルク流「弱い者いじめ」である。

画像:キール運河、ドイツ。北海とバルト海の短絡路。

画像:英国ヘレナ王女(1846-1923)とシュレスヴィヒ=ホルスタインのクリスティアン王子(1831-1917)の結婚式、クリスティアン・カール・マグヌーセン画。