上巻P407

78日、新デンマーク政府は降伏し、講和を求めた。一週間後、フォン・ローンはビスマルクに、もし占領されたデンマークの島々か返還される方向で交渉が進むのであれば、その代償として「両公国の普墺両国への完全な割譲が認められるべきです」と警告した。和平交渉はヴィーンで開催されることになり、この日ビスマルクは会議の場へと出発したが、「とても興奮した彼[国王]は私が辞去する際に感謝の意をお示しになり、神の御加護がプロイセンを祝福することで実現した完璧な勝利のことで私を賞賛された。この幸運が離れていかないように!」と記している。

上巻P405

 戦闘の再開は新たな国内危機の原因となった。612日、対デンマーク戦争の戦費について協議するための御前会議か関係者全員の出席のもとで開催された。カール・フォン・ボーデルシュヴィング男爵(180073)は1862年から70年まで「紛争内閣」の蔵相としてビスマルクに仕えたが、彼はビスマルクが軽蔑していた一群の大臣たちの一人であり、ビスマルクはボーデルシュヴィングを心底から嫌っていた。ヘルマ・ブルンクの表現を借りれば、ボーデルシュヴィングは「いつも慎重な態度をとって憲法上、法制上の規制にがんじがらめにされていた」。ローンはモーリッツ・フォン・ブランケンブルクヘの手紙の中でより具体的に、「ビスマルクの神経症的な性急さと、ボーデルシュヴィングの官僚的な精密さと心配性のゆえに、両者間の不一致が一切消えることは間違いなくありえないことです」と述べている。いずれにせよ、ビスマルクは絶望的なほどに性急であった。ゲームはこの上なくデリケートな局面を迎えた。1864612〔独語版では13日〕の御前会議においてボーデルシュヴィングは、18645月の終わりまでに1700万ターラーが支出されており、1863年の予算の余りの530万ターラーと国庫に預金されている1600万ターラーでこれを補填すると報告した。さらなる金が入り用となったが、国庫の残金はわずかであった。ビスマルクは、議会の承認なしの借入れを主張したが、ボーデルシュヴィングや他の大臣たちは、それは1850年の憲法と1820年のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の国債法に対する違反行為に相当すると考えた。彼らか宣告したところによれば、「陛下の大臣たちが憲法の護持を誓約したことに自分たちが拘束されていると考えなければならない以上、議会の承認なしで国債を発行するというのはこの拘束とは相容れ得ない」のであった。ローンは、「緊急を要する事態にあって、そして戦争を続けるために、憲法第63条と第103条によって国債は下院の承認なしであっても一時的な使用を目的として合憲的に法的な効力を伴って発行できる」と猛烈に反論した。たとえこの主張か受け入れられたところで、怪しげな憲法解釈に基づいて発行されたプロイセン王国の債券を投資家たちが購入するかどうかは全くもって定かではなかった。何らの行動を取ることもできないまま、18647〔独語版では6月〕17日に国王は追加の支出を拒否した下院を解散した。

 一年後にザクセン王国の首相フォンーボイスト男爵に自慢したところによれば、ビスマルクはアウグステンブルクという雄牛を犂に「繋ぎとめた」。「この犂が動き始めるやいなや、私は雄牛から手を離したのです」。実際のところは、ビスマルクはその種のことを実行したわけではなかった。オーストリアがアウグステンブルクなる解決策をゲームに持ち込み、そしてフリードリヒ公爵はビスマルクの術中に陥ったのである。もしもフリードリヒ公爵がプロイセンの条件を呑んでいたならば、ひとたび権力を握った後で自分の好きなことを何でも宣言することかできたであろうし、ドイツで最も憎まれている人物にドイツ・ナショナリズムや自由主義的議会主義を対抗させることもできたであろう。しかしそうする代わりに、この君主は真夜中にビスマルクのもとを立ち去る際に弱々しくこう言った、「またお会いすることになりましょう、と。……[その後]セダンの戦いの翌日まで彼と会うことはなかった……」。ビスマルクはゲームを完璧に、そして彼一流のやり方で遂行したのである。アウグステンブルクなる選択肢を選ぶというオーストリアの突然の決定には、彼ほど熟達した賭博師でなければ狼狽させられたであろう。ビスマルクはオーストリアと歩調を合わせるためにこの変転を受け入れる一方で、国王、王太子、そして将軍たちが勝利の果実を望んでおり、恐るべきアウグスタでさえもこれを阻止できないということを確かめた。次に彼は、プロイセンの要求を拒否しなければならなくなるような状況に公爵を追いやった。もし公爵がプロイセン側を裏切る意図を持ちながらも、突きつけられた条件を受け入れるほど狡猾であった場合、ビスマルクにいかなる選択肢かあったのかは知り得ないが、おそらく彼はその場合にも何らかの選択肢を見出したであろう。公国には多くのプロイセン軍が駐屯していた。官吏たちはプロイセンの法規や通貨等を導入し始めていた。公爵の拒否はビスマルクの悩みを大幅に取り除いてくれたのである。

上巻P397

1週間後、オーストリアとプロイセンはデンマーク領内へと戦線を進めることに合意し、1864311日に、1852年の条約がもはや両国を拘束しないと通告した。

・・・・

 イギリス政府は、1851年と52年の条約の批准国を、62420日からロンドンで開催される会議に招待した。

・・・・

・・・・四月十八日、プロイセンの46個中隊からなる歩兵部隊がデュベルの防衛線に攻勢をしかけ、六時間にわたる激しい戦闘の末にシュレースヴィヒにおけるデンマーク軍の主要な防衛拠点を奪取した。1864424日、ロンドン会議が始まった。デュベルの勝利により、プロイセンの兵士たちは決定的な既成事実を作り上げた。ビスマルクは今や併合に向かって、プロイセンの行動の自由に対する制限を解除し始めた。オーストリアとプロイセンの代表団はもはやロンドン議定書に拘束されていないと考えていると会議に通知し、両公国をただ同君連合によってデンマーク王冠に結びつけることになるような憲法の改正を提起した。オーストリアが失望したことに、デンマーク側はこの妥協案を頑強に拒否した。この間の1864512日に正式な休戦となった。全部隊はこの時点で駐留していた場所に留まることを義務づけられた。

『ビスマルク』
    ジョナサン・スタインバーグ、

        
小原淳訳 白水社 2013


    から抜粋

 アウグステンブルクという雄牛か草原から排除されたことにより、第三の、つまりビスマルクか望んでいた選択肢が残った。すなわち両公国の併合である。レヒベルクが切り札を出してきたことで、彼はこの目標の達成に近づいた。フリードリヒ8世の頑迷さはアウグステンブルクの擁立という解決策を選択できないことを意味するものであり、かくして1864626日に休戦が期限切れになると戦闘が再開された。デンマークを支援すると約束していたイギリス政府は何もしなかった。

上巻P401

 レヒベルク(注:オーストリアの首相)はまさにこのディレンマに直面した。デンマーク側は、デンマーク王冠の下での二つの公国の「同君連合」という普墺両国の提案を頑固に拒否した。かくしてレヒベルクは、ローンが輪郭を示した「アウグステンブルク家よりもむしろ我々「プロイセン」に両公国を与える」かどうかという選択に向かい合うことになった。528日、レヒベルクは突如としてアウグステンブルク家を選ぶことを決意し、オーストリアとプロイセンの代表団はロンドン会議において両公国のデンマークからの「完全分離」と、「ドイツの見解では」最も正統な継承権を有するアウグステンブルク公爵の下での「両公国の単一の国家への連合」に対する支持を表明した。

・・・・

・・・・国王ヴィルヘルムとフリードリヒ公爵の間で書簡が交わされた後で、王太子は1864226日に、プロイセンがフリードリヒ8世に対して平和協定で提示する一連の要求の草案を作成した。

レンツブルクを連邦の要塞とし、キールをプロイセンの海軍基地とし、関税同盟に加入し、二つの海〔北海とバルト海のこと〕の間に運河を建設し、陸海軍に関する協定をプロイセンと結ぶこと。

 このような条件の下にあっては、フリードリヒ8世はプロイセンが軍事的に管理する地域の名ばかりの統治者となったであろう。王太子は、フリードリヒ81863年よりシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国の公爵位請求者となり、その公爵位はドイツ連邦および当該の両公国で一般的に承認されていたものの、プロイセンとデンマークの両政府は彼を両公国の公爵と認めず、シュレースヴィヒとホルシュタインは1866年にプロイセン王国領に併合された。)が最終的にはこれらを受け入れると確信していた。この推量の当否を確かめるために、ビスマルクは公爵〔フリードリヒ8世〕をベルリンでの会見に招いた。

上巻P396

 戦闘は、プロイセン軍がシュレースヴィヒの境界を越えた186421日に始まった。陸軍元帥ヴランゲルは、シュレースヴィヒ公国の住民に対する声明文を発し、「我々は諸君の諸権利を守るために来た。諸君の諸権利はデンマークとシュレースヴィヒとの共通憲法によって侵害されたのである」と宣言した。この時点ではプロイセン軍に運が向いていた。二月四日の朝は非常に寒く、シュライ湾と周辺の沼地の水が凍りついたが、これはダネヴィアケの防衛線が凍結部から攻撃に哂されることを意味した。普墺両軍は2月初頭にダネヴィアケを攻撃し、デンマーク軍は夜を徹して吹雪の中を退却することを余儀なくされた。デンマーク軍はユトランドへ、そして東シュレースヴイヒのデュベル要塞へと川を渡って撤退した。本格的な戦闘なしでデンマーク軍が退却したのは国民的な恥辱であったが、各々デンマーク軍のほぼ二倍の兵力を擁する普墺両国の遠征軍が勝利したというわけでもなかった。218日、プロイセン軍は――おそらくは誤って――シュレースヴィヒの境界を越えてデンマーク領内に侵入し、コリングの町を占領した。ビスマルクはこの侵攻を戦争における軍事的緊張を高めるために利用することを望んだが、オーストリア軍はシュレースヴィヒとデンマーク本国の境界に留まった。結果的に、プロイセン軍とオーストリア軍はシュレースヴィヒの大半を激しい戦闘なしに占領した・・・・

1Danevirke

もともとは西暦800年頃、ヴァイキングによって築造された長さ30kmの土塁。ユトランド半島の根元にある。

上巻P392

 1864116日、オーストリアとプロイセンの両政府はデンマークの外務大臣フォン・クヴェーゼに、18631118日の憲法を受け入れないという両国の決断を明記した共同通牒を送付した。すなわち、この憲法の公布によって、

 デンマーク政府は1852年に保証された義務に明らかに違反した。……上記の両国は、両国かこれら一連の過程で果たした役割の結果として、自らと連邦議会とに対して……この状況が続くことを許さないという義務を負っている。……もしもデンマーク政府がこの呼びかけに応じないのであれば、上記の両国は原状回復のために用いうる手段を行使せざるをえなくなるであろう。

  ・・・・・

 120日、陸軍元帥ヅラングルが同盟軍の指揮を委ねられ、アイダー川へと向かってホルシュタインを進軍した。デンマーク側は「純粋なナショナリズムによって盲目になって」ビスマルクの手中に陥ることとなったのである。

画像:クリスチャン9

注:挿入した画像はすべてホームページ著者によるものであり、原著『ビスマルク』とは関係ありません。

画像:ベルリン、1864年に開設された連邦議会、ならびに戦勝記念碑。1900年頃の撮影。

画像:現在のコリング。市の中心部にあるコリングフス宮殿、13世紀。かつての王宮。中世後期から1940年代までのデンマーク美術コレクションを収蔵する。来歴

画像The Ilustrated London News dated April XX, 1864
ディッベル要塞陥落後のプロイセン軍

画像独・丁抹戦争、フレンスブルクの占領 (1864)
  独・丁抹戦争中フレンスブルクにおけるプロイセン軍。この戦争がドイツ統一戦争の第1回目。(その他は、1866年普墺戦争と1870-1871年普仏戦争)1864227日のスケッチに基づき木彫されたもの。
© Bildarchiv Preußischer Kulturbesitz(プロイセン文化財産、絵画公文書館)

画像
Wounded Austrians on the road to Rendsburg, after the battle of Over-Selk
Prussian Field Mail on its way from Rendsburg to the front.
The Illustrated London News, dated Februaru 26, 1864

 1864531日、フリードリヒ公爵がビスマルクとの会見のためにベルリンに到着し・・・・

・・・・

 ビスマルクはシュレースヴィヒ‥ホルシュタイン公を186461日の午後9時に迎え、会談は三時間に及んだ。回顧録に書いているように、「フリードリヒ公爵には同意の用意があるだろうという王太子殿下の希望的観測を、私は正当なものとは思わなかった」。ビスマルクは明らかに最大限の強硬な主張を行い、真夜中ごろになって公爵は、プロイセンは名目上はともかくとして少なくとも事実上シュレースヴィヒを自国のものにすることを決定して、それを阻止するために自力ではほとんど何もできないのであるから、突きつけられた条件を承認しようと拒否しようとさしたる違いはないのだということを理解した。王太子が提案した条件に加えて、ビスマルクは(興味深いことに回顧録には書かれていない)、プロイセンは「政府が保守的体制に基づいている保証」を求めるという、自分自身の発案による幾つかの条件を追加した。この条件を呑めば、公国領をその君主に対して反抗的にさせ、ドイツの自由主義者やナショナリストの公爵への支持は失われたであろう。フリードリヒ公爵はそのような条件は拒否せざるをえないと考え、実際にそのようにした。ビスマルクはこの時、第二の選択肢を排除したのである。

画像:クリスチャン9世が住んでいたアマリエンボー宮殿、コペンハーゲン

上巻P391

18631119日、クリスチャン9世のシュレースヴィヒについての布告への返答として、アウグステンブルク家の公子はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フリードリヒ8世として即位することを宣言し、ドイツの世論の大きな支持を得た。状況を悪くしたのは、彼の妻のアーデルハイト・ツゥ・ホーエンローエ=ラングンブルク(18351900)がヴィクトリア女王の姪であり、ゆえに王太子妃ヴィクトリアの従姉妹だという事実であった。ビスマルクはさらに、自らを文民の余所者として扱う、意のままにならない将軍たちを相手にしなければならなかった。ビスマルクがそのような余所者であったことに間違いはなかった。

画像:アウグステンブルク家の公爵フリードリヒ8(1829 - 1880)

画像:現在のセナボー(Sonderborg、ディッベルの隣街): セナボー宮殿

2:現在のダネヴィルク

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画像16世紀の海図Carta Marina上に赤色で示されたダネヴィルク

上巻P393

 125日、国王は1864年予算とシュレースヴィヒ‥ホルシュタインでの軍事行動のための1200万ターラーの借入を可決することを拒否した下院を解散した。少なくともそのような成果をビスマルクは挙げたことになる。