注:
ヴィクトリア女王の子供は合計9人であった。

第一子(長女)              ヴィクトリア(愛称ヴィッキー)
                       
ドイツ皇帝フリードリヒ3皇后。
第二子(長男)              アルバート・エドワード(愛称バーティ)
                       サクス=コバーグ=ゴータ朝初代英国王エドワード7
第三子(次女)              アリス
                     
  ヘッセン大公ルートヴィヒ4大公妃
第四子(次男)              アルフレッド
                       ザクセン=コーブルク=ゴータ公・エディンバラ公爵
第五子(三女)              ヘレナ
                       シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人
第六子(四女)              ルイーズ
                       アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人
第七子(三男)              アーサー コノート公爵

第八子(四男)              レオポルド オールバニ公爵

第九子(五女)              ベアトリス
                       バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ公妃

『ヴィクトリア女王(下)』
    スタンリー・ワイントラウブ
          から抜粋

 その時点で7週間戦争はプロイセンを優勢に導いており、同国はハノーヴァー公国とヘッセ公国の一部に加えて、それまでオーストリアに味方して不遜にも中立を試みようとしたほかの公国を自国の領域にとりこみつつあった。夫のフリッツをプロイセンの英雄に祭りあげられたヴィッキーの心境は複雑だった。イングランドでは敗戦国ヘッセから娘たちを連れて避難してきたアリスが、ウィンザー城に身を寄せていた。敵味方にわかれて戦う婿たちはもう沢山だと、ヴィクトリアは当時の日記に書きこんでいるが、王女たちの夫君候補は必要数がなんとしても不足していた。

注:ヴィクトリア女王の第三子(次女) アリスは結婚して、ヘッセン大公ルートヴィヒ4大公妃となっていた。ヘッセン大公国も普墺戦争の結果、ビスマルクによって取りつぶされた。

 このときアリスは23歳、12年後187835歳のとき、彼女はジフテリアで死亡。

画像:ヘッセン大公妃プリンセス・アリスのダイアモンド・ティアラ
1862年頃、ヘッセン財団ファザネリー城Schloss Fasanerie博物館蔵

出典
アリスが嫁ぐ際、ヴィクトリア女王からダイアモンドをちりばめたティアラが贈られた。このティアラは、アリスの死後、長男エルンスト・ルートヴィヒの妃エレオノーレに引き継がれた。1937年に起こったオーステンデでの飛行機墜落事故の際、乗客だったエレオノーレらヘッセン大公家の家族は事故死したが、鉄製の専用ボックスに入れられていたティアラは、奇跡的に無傷で見つかった。現在このティアラは、ヘッセン財団に保管されている。

画像Princess_Alice_1861

写真:20125月ウインザー城にて

3. 18667月「ビスマルクの首」

引用文献:『ヴィクトリア女王(下)』スタンリー・ワイントラウブ、平岡緑訳 中央公論社 1993 P65

 デンマークとの国境問題で、勝利を用意にものにして強気になっているオットー・フォン・ビスマルクは、国家統一というみせかけの旗印のもとにドイツの小国家群をプロイセンに吸収合併しようと奔走していた。それにはオーストリアをドイツ連邦の首位から外すのが必須で、プロイセンの総理は、弱いものいじめの行為に出てその時期を早めるなり戦争をしかけて強制するなりしようと、奸計を練った。それはまた、口を滑らすことの多いルイーズ王女がポツダム在住の姉ヴィッキーから、妹ヘレナの結婚祝いにはなにがよいかと聞かれて、機知をきどったつもりでつぎの返事をするにも適切な時期でなかった。「レンチェン」ことヘレナ王女は75日、分与財産をいっさいもたないシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン・ゾンデンブルク・アウガステンブルクのクリスチャン王子と華燭の典を挙げる運びになっていた。ルイーズがヴィッキーに結婚祝いとして提案したのは、「大皿に乗せたビスマルクの首」だった。偏執的なところがあるプロイセンにはスパイや情報売買者がはびこっており、宮廷に潜伏するビスマルクの手先は、ルイーズのヴィッキーにあてた辛辣な返書が主人の目に触れるようにとりはからったので、その後ヴィクトリアが皇帝宛にしたためたつぎの訴え事も、先入観をもって解釈されることになった。「愛する兄弟よ」と彼女は410日、宮廷作法にかなった書式で皇帝に書簡を綴った。「この恐ろしい時期に私も口を閉ざしているわけにまいりません・・・・。貴方は騙されていらっしゃるのです・・・・ある男性に・・・・。」そしてそのある男性の手引きによって書かれた皇帝からに返書に、ヴィクトリアの気持ちは穏やかでなかった。

2. 18666月ヘッセン大公妃アリスの疎開

引用文献:『ヴィクトリア女王(下)』スタンリー・ワイントラウブ、平岡緑訳 中央公論社 1993 P67

画像:エドワード7世、大変な遊蕩王

注:シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題についてはWikipedia記事を参照のこと。プロイセンが「圧倒的な軍備とビスマルクの外交政策により、スウェーデンと欧州列強の中立を導き出し、デンマークを屈服させた。」

1. 18642月「弱い者いじめのビスマルク」

引用文献:『ヴィクトリア女王(下)』スタンリー・ワイントラウブ、平岡緑訳 中央公論社 1993 P46

第五子(三女)ヘレナは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアンと、186675日ウインザー城で結婚式を挙げた。このときにまだ結婚していなかった第六子(四女) ルイーズ王女がポツダムの姉にたいし、「結婚祝いは『大皿に乗せたビスマルクの生首』が良くてよ」と口を滑らしたのである。

写真:20125月ウインザー城にて

 18642月プロイセンとオーストリアの連合軍が国境を越えて公国になだれこんだ直後、女王はヴィッキー(プロイセン皇太子妃、ヴィクトリア女王の長女)に手紙を書き、「おお! バーティ(長男アルバート・エドワードの愛称)の妻(アレクサンドラ王妃、デンマーク国王クリスチャン9世の長女)がデンマーク人でなく、善良なドイツ人であってくれてさえいたら!」と嘆いた。・・・・マールボロー館では皇太子妃が、母国の踏みにじられるのに涙する一方で、デンマークはシュレスヴィッヒ・ホルシュタインに対する領土権を放棄させられた。

 イングランドでは、たとえ今回の喧嘩の負け犬であるデンマークがシュレスヴィッヒの不法合併の一件で有罪だとしても、同国がプロイセンに一呑みにされる可能性を憂える声は強く、パーマストンとラッセルはこうした世論にさっそく同調して、コペンハーゲンを守備するために海軍の派遣を決めた。・・・・

画像:エドワード7世妃 アレグザンドラ・オブ・デンマーク