以上の事柄、ならびに『方法序説』の内容を熟読すると、私たちはデカルトが1619年11月10日、ウルムの近郊のある村(ノイブルク)の炉部屋で体験したのは神秘体験Aであった、と充分な確実性をもって推定できる。
先に引用した玉城康四郎は、まさしく神秘体験Aの体験者であることはすでに述べたが、彼は一回目の大爆発ののち、デカルトの『方法序説』を読んでいる間に、なんと感情移入による二度目の神秘体験Aを経験した。経験者は経験者同士の共通の、しかも瞬時の理解力があるものらしい。
23歳にして神秘体験Aに到達して、これでやっと得心し、学問の基礎はこれだと確信をもつことができたデカルトは、それ以前に確信に至っていた数学の明証性と突き合わせ、これまでの既成概念を一切合切疑ったうえで、論理的におかしいとか、怪しいと思われる概念や観念をすべて捨て去る作業をおこなった。
そのノイブルクの体験からなんと17年間も考え続けた揚句、彼は1636年『方法序説』を発表し、その第四部で次のように述べた。
私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想しようと決心した。しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた。私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」 Je pense, donc je suis. というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。
(『方法序説』野田又夫訳、中央公論社)
続いて彼は、
私が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、私があるということが帰結する。 (同上)
と、私の存在の真理をも認めた。
すなわち、仮想の入り込まない真理というのは、私の考えているという精神であり、考えている私の存在である。この二つは疑うことができない、と結論を提示するにいたった。
聖テレジアと称されるスペインのテレサが1582年10月、アルバ・デ・トルメスにて逝去して、その14年後、1596年3月31日ルネ・デカルトはフランスのトゥーレーヌ州ラ・エーの町で生まれた。
父は、ブルターニュ高等法院の法官で小貴族だった。
母は、ポァトー州の高官の娘で、デカルトを産んで一年後に亡くなった。
かれは、10歳のときにラフレーシの王立学院に入学し、8年間を過ごし、18歳のときに、ポアチエの大学で医学と法学を学んだ。
1619年、デカルトは23歳にして、旧教軍バイエルン公マクシミリアンの旗下にはいり、10月ウルム市に近い村に滞在することとなった。
彼の言葉を借りよう。
当時私はドイツにいた。そこでいまなお(1637年)終わっていないあの戦争(三十年戦争、 1618-48)に心ひかれて私はそこへ行っていたのである。そして皇帝の戴冠式を見たのち、軍隊に帰る途中、冬がはじまってある村にとどまることになったが、そこには私の気を散らすような話の相手もおらず、また幸いなことになんの心配も情念も私の心を悩ますことがなかったので、私は終日炉部屋にただひとりとじこもり、このうえなくくつろいで考えごとにふけったのである。
(『方法序説』野田又夫訳、
中央公論社)
このとき、それは起こった。なにがどのように起こり、その内容がどうであったのか知りたいところだが、残念なことにデカルトは自分の体験を詳しく書き残してはいない。
今は失われてしまった「一冊の小さな羊皮紙の帳面」のなかに、デカルトの「若い頃に書かれたと思われる」『オリュンピカ』と題した手記があって、そこにたった数行書付けがあったのだと、所雄章は述べる。(所雄章『デカルト』講談社)
『オリュンピカ』を通覧する機会に恵まれたアドリアン・バイエが『デカルト伝』のなかで引用した部分を参照することとしよう。
彼がわれわれに知らせるところによれば、1619年11月10日、「霊感に満たされ」、「この日驚くべき学問の基礎を見いだした」という思いにすっかり心を奪われて床についてから、彼は次次に三つの夢をみた。……
(アドリアン・バイエ『デカルト伝』
井沢義雄他訳、講談社)
「霊感に満たされ」「この日驚くべき学問の基礎を見いだした」という文句が、『オリュンピカ』には書いてあったらしい。
画題:俵屋宗理『楓図』紙本金地著色
大阪 細見家
山根有三
『原色日本の美術第十四巻
宗達と光琳』小学館 1969
俵屋宗理は北斎の師。
神秘体験Aそのものは、本人にとっては
明証的だが、未経験者にとっては明証的
ではない。しかし少なくとも、それが明
証的であると感じた「我」は真の実在だ、
とデカルトは断定した。
日本では宗教の枠を離れた「美」の基準
は、すでに存在していたように見える。
少なくとも西欧におけるデカルトのよう
な、価値の転換をジャッジした裁判官は
いなかった。人間生活の全てを規制する、
Aオンリーの厳格な神学が存在しなかっ
たからかもしれない。