日本の哲学界(昔は仏教界のなかにそれは存在していた)では、先に引用した『白隠和尚坐禅和讃』でみられるように、「真理は自性のうちにあり」は当たり前であったが、中世の暗黒時代の西欧世界ではそうではなかった。

 この時代に教会による異端審問という形で弾圧は続いていて、彼が『世界論』を発表する直前には、イタリアでガリレイが異端であるとして有罪判決を受けていた。

 ジェズイット教団(イエズス会)のラフレーシ学院で教育を受けたデカルトには、彼の主張が異端と断罪されることは初めからわかっていたから、なるべく表現を抑え、(啓示神学ではなく)自然神学に近く解釈されるように考え、精神と存在の主張の次に、第三の主張として、神の存在を述べた。われわれが先に調べたように、神秘体験Aの場合は、神の存在を述べることは神秘体験Aの内容とちっとも矛盾しないどころか、それは「神」そのものなのである。

 このようにして、デカルトは自らの本心をなるべく抑えるように最大限の努力をしたが、心ある人は皆、デカルトの真意を見抜いた。

 じつにデカルトは、1,200年間の西欧世界の精神界の誤謬を見つけだし、それを破り、哲学の基準をプラトンに戻したのだ。

 人によっては、精神界のルネサンスはルターが始めたという方もおられるが、プロテスタントとカトリックは、キリストを信じる観点において、同じ釜の中の飯にすぎない。

 筆者はこのような観点から、デカルトが西欧ルネサンスの仕上げをした、ルネサンスで最後に残った精神界で、人間性の解放を実現したのはデカルトである、と言いたい。つまり、デカルトの明察とは、「神がすべての中心である」という中世哲学(神学)を意図的に脱却し、「人間は、自らの手で自らの価値基準を創造し、もしくは破棄することができる」と見抜いたことを意味しているように思われる。

 時に、1637年、三十年戦争がプラハの休戦条約で実質的に終結してから、2年後のことであった。

 デカルトを語るのにたったこれだけか、と不審がられる方もおられようが、たったこれだけなのである。デカルトのなした仕事はたったひとつ。それは神秘体験Aが聖なる恩寵ではないと見抜いたことだけである。このデカルトの断定によって西欧の人間は、キリスト教という、迷惑な戦争ばかり起こす厄介な軛から開放された。それが三十年戦争の終結という絶妙なタイミングで発表されたことも、彼の幸いだったかもしれない。なにしろこの宗教戦争の後は、西欧の人間は、宗教問題を政治の根幹に取り入れることをやめたからだ。

中 世 神 学 か ら の 脱 却

 このデカルトの『方法序説』のこのくだりが西
欧世界に与えた影響は、その破壊力の大きさにお
いて、たとえば原子爆弾が世界に与えた衝撃ほど
にも大きかった。あるいは、認識方法の瞬間的変
化という意味において、ベルリンの壁の崩壊にも
等しいインパクトがあった。

 日本人にはあまりピンとこないようだけれど、
西欧世界はこの『方法序説』の一撃で瞬間的に覚
醒した。そしてそれと同時にキリスト教世界が崩
壊を開始した。教会の持っていた魂の世界の(現
代風に表現すると、人間科学の)絶対権が崩壊を
始めた。


 デカルトの見出した真理は、キリストという人
物をその真理のなかに含んでいなかったのである。
キリストではなくて、真理はこの私の内にあり、
とデカルトは言ってのけたのだ。

 言葉を換えると、神秘体験Aというものは、ス
ペインのテレサがそう信じたように、神の思し召
しで賜る神の恩寵ではなく、それは私が努力して、
私が勝ち取ったもので、私のものだ、とデカルト
は主張したのである。

画題: 藤島武二(1867-1943)
  『蝶』1904
   カンヴァス 油彩
    『現代日本美術全集7 
       青木繁
/藤島武二』
     集英社1973

   蝶に寄せる彼の夢と、いよいよ
      冴えて豊かさを加える色彩の妙
      が、はるかな生命のいぶきを伝
      える。

          藤島の浪漫主義の最高潮。
                                (嘉門安雄

      描かれているのは
   「人間性の解放」?