3. アンリ4世によるナントの勅令は、ドイツの宗教戦争である30年戦争(1618-1648)の開始に先立つこと20年であった。だが、ナントの勅令は単なる政治的妥協に過ぎず、カトリックとユグノーの諍いは決着がつかぬまま、ルイ14世時代以降までも後を曳いた(フォンテーヌブロー勅令など)。人口の半分が死んだというドイツの宗教戦争(参照:Eichschtätt)でもそうだったが、フランスでも、宗教改革に関する哲学的解明はまったく行われなかった。

出典:主としてWikipedia

 この宮殿を現在の規模に拡大発展させたのは、フランソワ一世とアンリ4世である。つまり、16世紀の100年間である。この間の歴代王略述-フランソワ一世からアンリ4世まで-を下表に纏めました。ご参照下さい。

写真:ディアーヌの回廊、図書室。

引用:フランソワ1世が王になると、クロード王妃はブロワ城を改修させてアンボワーズ城から移ろうとする。フランソワ1世はブロワ城に新しい翼を建設し、図書室を造った。しかし王妃が1524年に死ぬと、王がブロワ城で過ごすことはほとんどなくなり、大量の蔵書はフォンテーヌブロー城に移されて「Bibliothèque Nationale(国立図書館)」が作られることとなった。

 手前の地球儀はナポレオンが使用していたもの。

フォンテーヌブロー (2)

                         2014/05/22

画像:写し忘れたので借り物の画像です。すみません。

歴史の厚み、宮廷調度の重厚さ、庭園の美的センスを充分楽しんでパリに帰りました。これを越える宮殿はちょっと見当たらないな、と考えながらです。

昼食を食べている間に雨があがった。私はまた公園にもどり、満開の花を賞でてまわった。

このカフェは若いマダムがなんともいえず、客あしらいが上手で、感心しました。客がフランス語の下手くそだと分かると、その日のメニューを英語で黒板に書いたのを目の前に持ってきてくれるのです。私は殻付きのオイスターを六個とオニオン・スープを注文し、それからもう一品と思っていたら、マダムが「ポンフリ」にしましょう、と勝手に決めてしまった。いや、これでまさに正解だった。じつに美味しい昼食だった。チップを含めて30ユーロだった。

画像:Le Grand Café, 33, place Napoléon Bonaparte 77300 FONTAINEBLEAU

さて私は雨のなかで庭園も見てまわったあと、一旦公園の外、デヌクール通りの郵便局前に出て、ナポレオン・ボナパルト広場のLe Grand Caféで昼食を摂ることにしました。

画像:ディアーヌの公園

 出口に近いところに三位一体修道会礼拝堂がある。ここは行きがけに二階から覗いた教会だ。ここで宮殿内の見学は終了する。

本日は雨の日でとても暗く、写真が綺麗に撮れなかった。残念だ。カメラはオートにしてあったのだが、感度がISO3200に上がっているにもかかわらず、1/10秒以下のシャッター・スピードしか使えなかった。

写真:三位一体修道会礼拝堂、聖王ルイによって建設された礼拝堂があった場所にフランソワ一世によって再建された。

写真:皇帝の寝室

写真:玉座の間。もともとはアンリ4世の寝室であったものを、ナポレオンが玉座の間に改装した。

 さて、歴代の諸王がこの宮殿を居城として使用したわけだが、(王ではなかった)ナポレオンもこの宮殿を愛した。彼が最後にエルバ島に流される直前まで、彼はこの宮殿に住んだ。

この絶対性問題の哲学的解決は、英国のジョン・ロックによる間知性論1689年)によって実現されたが、フランスでもドイツでも同意されることはなく、この両国での哲学的裁断は、なんと第二次大戦終了まで持ち越されることとなった。

フォンテーヌブローは、このような近代思想の屈折した挫折感を関ヶ原の時代にして予告したのである。

画像と説明
『戦争の惨禍と不幸』から「拷問」(右の高い柱で「吊し落し」、中央で「首つり」、左台上で「車裂き」と「斬首」、左下隅「火刑」)

  ジャック=カロ(1592-1635)はフランス、ロレーヌ地方のナンシーで生まれ、ローマとフィレンツェで銅版画を学び、パリではルイ13世の御用銅版画師として活動した。1621年にナンシーに戻ってそれ以後はほぼその地で過ごし、その地で三十年戦争に遭遇した。また当時はフランス国内でもまだ新教徒に対する弾圧が続いており、ナンシーでも新教徒が捕らえられ拷問を受けていた。それをつぶさに見たカロは、1633年に銅版画の連作『戦争の惨禍と不幸』を作った。小は6枚、大(といっても横が19㎝、縦が9㎝)が18枚の作品である。カロ自身は何もコメントしていない(図の下の文は後の人が加えたもの)

 平たい言葉でいうと、「天国の存在の絶対性」を主張するカトリックと「地獄の存在の絶対性」を主張するプロテスタントとを仲介し、哲学的に明快な裁断を行う哲学者がフランスにもドイツにも現われなかった。

1637年デカルトによる『方法序説』は「天国の存在の絶対性」の再説にすぎず、事態の解決になんら寄与しなかった。

 この表をじっくり読むと、次の事情が読めてくる。


1. 現実的な政治的権力をもっていたのは、フランソワ一世、カトリーヌ、アンリ4世である。それに加えて、ギーズ公である。この四人が政治を取り仕切った。

2. この間、宗教改革が荒れ狂った。

   1517年にルターが宗教改革を開始し、1536年、フランス人ジャン・カルヴァンがバーゼルで『キリスト教綱要』を発刊して追随した。改革派教会(ユグノー)は瞬く間にフランスにひろまり、1562年ユグノー戦争が始まる。

    1562  ヴァシーの虐殺
           (
ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件)

       1572  サン・バルテルミの虐殺
           (ユグノー貴族が虐殺された、次いで市民の暴動)

       1589  ギーズ公アンリが暗殺された。
             次いで、国王アンリ3世が暗殺され、
            ヴァロワ朝が断絶

       1598  アンリ4世はカトリックに改宗し、
            ナントの勅令を発布。

写真:「アンリ4世の騎馬像」、フォンテーヌブロー宮殿聖王ルイの第二の間

画像:カトリーヌ・ド・メディシスフランソワ・クルーエ画1559年以降。夫アンリ2世の死後、カトリーヌは常に黒の喪服を着用していた。

フランソワ一世の次男アンリ2世は、カトリーヌ・ド・メディシスを妻として7人の子を持った。彼は12年の在位ののち馬上槍試合で非運の死を遂げたので、そののちは、カトリーヌ・ド・メディシスが、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の王大后として権勢を振るったのである。

画像サン・バルテルミの虐殺。フランソワ・デュボワ(1529-1584), ローザンヌ美術館

シャルル9世の命令でユグノー指導者であるコリニー提督が殺され、後方右寄りの建物の窓からぶら下げられている。左奥、ルーヴル城塞から黒い喪服姿のカトリーヌ・メディシスが出て来て、死体の山を検分している。

画像
ジャン・クルーエ
《フランス国王フランソワ1世(14941547年)の肖像》
1530年頃
油彩、板
96 cm、横74 cm
フランソワ1世コレクション 、ルーヴル
Inv. 3256

説明
シャルル・ダングレームとルイーズ・ド・サヴォワの息子で、従兄弟にあたるルイ12世の後を受けて、1515年に王位を継承する。フランソワ1世は、王自身が偉大な師であったサン=ミッシェル修道会の頸飾を付けている。顔立ちはジャン・クルーエによる素描画(シャンティイー、コンデ美術館)と完全に合致している。上半身の彫刻を思わせる堂々とした体格、剣と手袋の上に置かれた手の重要性がこの肖像画の近代的な性格を際立たせており、おそ らく15271530年頃に制作されたものと考えるべきである。

写真:舞踏会の広間

 では皆様、ご機嫌よう。

写真:王妃と皇后の寝室