それはイギリス人ジョン・ロックが書いた『人間知性論』、あるいは『人間悟性論』、あるいは『人間の理解力についての試論』と訳される本である。この本が17世紀にしてそれ以降の人間の価値観に関する基準を一挙に変えてしまった名著なのである。

例によって、まず著者の略歴を簡単に調べておこう。

ジョン・ロックは1632年、イングランド南西部サマセット中部のリットンで生まれ、ブリストルに近いペンスフォードで育った。

父、ジョン・ロックは、弁護士資格をとり治安判事の書記を勤めた。

母の実家は製革業者で、裕福な家の出であった。

ロックが22歳のとき母が、29歳のとき父が、31歳のときにはただひとりの弟がそれぞれ他界し、彼ひとりきりとなった。

家庭の宗教は長老派の清教徒であったと伝えられる。

ロックは15歳のとき、ウエストミンスター・スクールに入学し、王室給費生となり、さらに国王奨学生となった挙句、20歳のとき、オックスフォード大学クライストチャーチ学寮に入学した。大秀才だったようだ。1656年、24歳のときに学士号を取得、引きつづき26歳のときに修士号を取得して、クライストチャーチ特別研究員に選ばれた。

時は、絶対王政が倒れ、クロムウエルの独裁政治の時代であり、ピューリタニズムの非寛容を目のあたりにして、彼は自国を「大きな精神病院」と呼んだ。

1658年、31歳で修辞学の講師、32歳で道徳哲学講師となる。

34歳のとき、シャフツベリ伯一世と親しくなり、以来ロックはシャフツベリに影のごとく付き添うことになる。

1675年、43歳のとき、クライストチャーチ医学特別研究員となり、医者として公認された。

『人間知性論』は彼が39歳のときに書き始め、1687年、55歳で最終原稿を書き上げ、亡命先のオランダより帰国して名誉革命が成立したのち、1689年、ロックが57歳のときに出版された。

ジ ョ ン ・ ロ ッ ク

人間は太古の時代には神話を作り上げ、現実に存在するのかどうか分らぬ神に供え物をして、神仏の加護を祈った。

次に人間は、自らのなかに神を見つけた。それはほんの一握りの数の人たちだけが実見できるものだったが、彼らはこの神に絶対権を与えた。これがプラトンとカトリックである。

さらにルターが出現して、人間のなかに魔神が存在することを発見した。そして、これこそ神である、と断定した。

その結果、人間史上最大規模の戦いが生じた。どちらも自らの体験に基く「絶対」を主張したからだ。

次にデカルトが出現したが、彼は時計の針をプラトンの時代に戻した。これは宗教というものの絶対権を突き崩すのにおおいに効果があった。

これだけ調べてきたわけだが、この唯心論と現在のわれわれの生活とはどこでどう繋がっているのであろうか。一体この二つを繋げることに成功した人間はいるのであろうか。そのとき、人間はどのような論理を使ったのであろうか。その論理はわれわれの将来の生活をはたして保証してくれるものであろうか。

つまり、われわれは、哲学というものの提供すべき安全保障の実態と効果のほどを、検証せねばならないこととなった。これをわれわれに見えるように示してもらわねば、哲学という学問の存在意義など吹き飛んでしまうのだ。

この論文のはじめに記したが、人間はすでに全てのことを考えてしまっているものなのである。筆者がここで先人の意見をさしおいて自分の意見を述べるなどというのは、人間の歴史にたいする冒涜を意味するだろうし、心ある人たちからは僭越だとお叱りを頂戴することになろう。

だが、内面で到達しうる究極の真理(と思われるもの)と現代の人間の行動規範とを矛盾なく説明してくれる本は滅多に見当らない。

筆者の知るかぎりでは、それはたった一冊である。それを、最後の締め括りとして紹介しよう。

画題:菱田春草
      『秋木立』
1909(42)
    
絹本着色
   別名『杉林』
         吉村貞司/中村渓男
      
現代日本美術全集
3
    『菱田春草
/今村紫紅』
          集英社 1973  

   私見だが、
   ジョン・ロックの哲学には
   日本画が似合う。
画題:人物像プラーク
      (ジョン・ロック)
      江戸時代後期
(19世紀)
   ヴィクトリア・アルバート博物館、
      ロンドン

      平山郁夫
      『秘蔵日本美術大観四 
      大英図書館
/アシュモリアン美術館/
      ヴィクトリア・アルバート博物館』
      講談社 
1994

   プラークとは壁飾り。
      ジョン・ロック
(哲学者、1632-1704)