プ ロ ヴ ァ ン (1)

                  2014/05/23

年間を通じての大市は、(シャンパーニュ伯爵領のなかの)ラニー、プロヴァン、トロワ、バール=シュル=オーブの街の間を一年中循環し、(各地で)六週間毎に一週間続いた。

専門家による真の会合と交換機能のおかげで、シャンパーニュ伯爵領は急速に生産機能(毛織物産業)も授けられることとなった。

また、多くの異なる通貨が共存したので両替商が存在するようになった。

プロヴァンでは、農村の発達が都市の発展に変わり、それが封建的な「要塞」の隣で商業地区へと成長した。シャンパーニュの大市、とりわけプロヴァンの大市で取引された商品は:オランダの麻と亜麻布、イギリスの羊毛、フランドルの毛織物、スペイン、フランス、ポルトガルのブドウ酒、ロシア或いはコルドバの毛皮、東洋の香辛料、アレッポの明礬、油、ろう、金銀細工、等々である。

 この図に添付されていた説明を翻訳すると次の通り:

中世における欧州の物流

 丘の下の新市街からサン・ティボ通り(地図上の大きな赤矢印、矢印とは逆方向に)をゆっくりのぼってきて、駅から20分ほど歩きましたかね。

 地図上でC印、シャテル広場に到着です。

 事前の調査はまったくしなかったので、町の地図が頭に入らずに往生しましたよ。

車内の座席はいろいろ変化がつけてある。私は車端の高床横置き座席に座ることにする。車内はガラガラでほとんど人はいないから、ここで横になっていればよい。汽車は40分ほどノン・ストップで走り続け、終点近くになって、幾つかの駅に停車した。プロヴァンは終着駅だった。

 今日も晴れ。東駅からプロヴァン行きの列車に乗り込む。

十分の一税小屋

13世紀には、全欧州にわたる昔からの商業センター、東洋ならびにロシアの諸港において経済活動が活発化した。

もっとも活発な商業センターは北海と地中海の港に集中していた。フランドルは北ヨーロッパと東方貿易の集散地となっていた。;イタリー、地中海ヨーロッパ、ビザンチン並びに東洋のそれらである。

大市は陸上と海上の沢山のルートの中枢となった。

その地理的位置のおかげで、と同時にそれを創設したシャンパーニュ公爵の賢明な行政「大市の経営」と「大市の保護」のお蔭で、シャンパーニュ伯爵領は13世紀に西欧でもっとも優位となる集散地のひとつとなった。

 13世紀、日本でいえば鎌倉時代に、このシャンパーニュ地方は欧州の物資取引センター(大市)として欧州最大の規模を誇ったのです。欧州の各都市が都市商業交渉団をこのシャンパーニュに送り込み、物資の取引を行ったのです。

 その機能をグランジュ・オ・ディーム内の展示板を翻訳してお見せしましょう。

画像:プロヴァン観光案内所「観光ガイド」から

 ジュイ通りの古い家屋群のなかを歩き、すぐ一筋目を左折するとグランジュ・オ・ディームです。通りは遠足に来た小学生のグループでいっぱいです。

(建物前の案内板の翻訳)

1176年以前は、この建物はサン=キリヤースの聖堂参事会のものであり、シャンパーニュ大市(田舎市)を訪れる商人達に貸し出されていた。商業施設でもあり、宿泊所にも使われた。例えば、1223年には、トゥールーズ商人のグループがこの建物を借りたことが知られている。この建物が十分の一税の貯蔵に使われたのは15世紀になってからのことである。この建物は三階から成っている:広大な地下室、肋材をつけ柱頭によって支えられたアーチ天井のある三つの通路からなる一階部分、そして上階は外階段から出入りができ、立て仕切りの窓によって充分に採光されていた。

すべてが石で造られたこの中世の住居は、滅多に残っていないもので、大市によって生じた富を証明している。

画像:プロヴァン観光案内所「観光ガイド」から

画像:プロヴァン観光案内所「観光ガイド」から

 駅前にこういう表示板があったので、これにしたがって小さな小路に入って行ったら、方向感覚が失われてしまって、パニック状態に近くなるほど、頭が混乱しました。

 あとで観光案内所で頂いた地図は次です。駅はこの地図の右下方向にあります。