いたって単純で取り間違えのない内容である。現代の私たちにとっても理解できる内容である。つまり、英国側はこの時(1869年12月)契約書のなんたるかをも知らなかった日本側に、(現代のわれわれにも理解できる)正しき契約形式を教え込んだと考えて間違いありません。いまは日本には残されていませんが、おそらく「約定書」の英語原本も同時に作られていたはず、だと思います。
ただ、このなかで注意しなければならないのは、貸主側の契約者(借款の貸与者)がホレーシオ・ネルソン・レー一人になっていることであります。明治政府はホレーシオ・ネルソン・レーという個人から年利12%で100万ポンドの金を借りる契約になっています。この条件で明治政府は「約定書」に署名したのであります。疑問の余地がありません。
また、借款貸与者の資金調達方法に関して一切の条件はつけられていないことにも注意しておきましょう。つまり、この契約は上記条件をのぞく一切を英国側に一任するという「一任契約」だったのです。
1. 明治政府とホレーシオ・ネルソン・レーの契約
「約定書」の内容は、鉄道建設部分をのぞくと、
1-A 契約期日:1869年12月14日
1-B 契約者(英国側):レーもしくはその相続人、及び
その遺言を施行する人
契約者(日本側):明治政府
1-C 金額:100万ポンド、即ち450万ドルラル
1-D 利子: 1割2歩
1-E 利子の支払:6ヶ月毎
1-F 償還の方法:二年据置き十年返済、年間返済額10万
『ポンド・ステルリング』
1-H 代物弁済の可能性:
「銅鉛水銀其他ホラショ・ネルソン・レイあるいは
その代理人が承諾する物品」
または、
「倫敦銀行の証券」
のいずれかをホラショ・ネルソン・レイあるいはそ
の代理人に引渡すことを以て代物返済とすることも
可。
となっている。
さて、ホレーシオ・ネルソン・レーと明治政府との間に成立した契約ですが、立脇和夫氏が『明治政府と英国東洋銀行』中公新書(1089 ) 1992/8のなかで詳しく述べられていますので、この記述をベースとすることにしましょう。ただ、この立脇論文のなかには「命令書」と「約定書」の二つが引用されていますが、「命令書」は天皇から日本側交渉担当者にたいする命令書ですから、外国側当事者にはまったく無関係であります。私たちが問題にするのは、明治政府とホレーシオ・ネルソン・レーとの間に結ばれた「約定書」です。英国側に伝わっていたのは「約定書」の内容だけで「命令書」の内容は伝わっていません。留意しましょう。
契約書の原本は今に残っているのかいないのか筆者には不明です。国立公文書館に「公文録」というのがありますから、保存されているとすればこの中にあるのでしょう。ひょっとすると原本は、関東大震災の際に焼失したのかも知れません。現在私たちが閲覧できる資料は
明治前期財政経済史料集成 大蔵省編
;大内兵衛、土屋喬雄校 ;第10巻
原書房 1979/04
のなかの
「九分利付外国公債紀事」
であります。このなかから
のみを抜き出して、ご参考に供します。
ここまでの記述で明治3年(1869)までになにが起ったかをほぼ完全に説明し終えたので、これから第一回国債発行後の出来事につき、読み解くこととしましょう。当時の明治人の知的レベルではなく、現代人の知識レベルと読解力レベルで読むことにしましょう。
先にも述べたように、明治政府は1869年(明治2年)12月8日、英国と日英秘密会談を開き、鉄道建設を主眼とする金額百万ポンドの借款を決定し、同12月14日英国と契約を締結するにいたった。
来るべき日本の輝かしき未来を切り開く文明開化の第一歩であったはずなのだが、そうはならずに、日本の暗い未来への第一歩となった。日本国の天皇も、明治政府も、日本国民も、誰一人としてそのような事態を想定していなかった。
そこに、たったひとり大馬鹿者が現われたからである。明治政府にチェック・アンド・バランスの仕組みが欠けていて、その男の暴走を食いとめられなかったからである。
ではなにが起ったのか?
国債第1号
1869年12月の契約の成立(1)