余談だが、フレデリック・デランジェは巨額のリスクは背負うが、そのリスクはただちに彼の発行する債券に乗せて投資家に散らし、手元にリスクを残さないことを鉄則とした。これが債券発行者あるいは国債引受人としての金融資本家の基本姿勢なのである。
これに引換え、英国東洋銀行は、普通の為替銀行だから、リスクの分散法を熟知していなかった。セイロンのコーヒー園の病害による全滅事故は、コーヒー園への投資という投資リスクの抱え込みによる被害にほかならない。銀本位制の地域での投資による損失は、これまた銀本位制地域における投資リスクの固定化による損失であった。リスクの散らし方を知らない単なる為替銀行が債券の発行銀行になってはいけないのである。先にも述べたように、許認可権限者である英国政府の意思に逆らってインサイダー情報の悪用を行ったことも大きく響いた。
このような素人銀行が日本国債の元締め銀行になりうるという伊藤博文の目算自体が狂っていた。
3. フランスの大西洋横断電話線の敷設融資(1869)
4. 合衆国南部鉄道建設融資
the Queen and Crescent route(1877年操業を開始したが金融に行き詰まり、1881年D’Erlangerが買取った。)
デランジェ商会と英国東洋銀行
では、伊藤博文のどこが健常的ではないのか、欧米の人達の考え方と思われるものを述べることにしましょう。最近、「歴史認識」という言葉が多用されますが、大元の間違いはみな伊藤博文から出発するのです。
など、数限りない。
6. スペインの画家ゴヤの聾の家の「黒い絵」の保存
5. ワーグナーを支援して、普仏戦争後パリのオペラ座での「タンホイザー」初演の支援
金融家の常なのだが、彼は自分の業績を喧伝していない。しかし、主な業績を拾ってみると、
1. 南北戦争以前のアフリカ、北米、南米諸国、とりわけ、ロシアとチュニジアの国債発行
2. シンプロン・トンネルの掘削融資(1886)
彼が金融をつけたなかには、(スイス南部の)ヴァレー州と(イタリアの)アオスタ渓谷を結ぶシンプロン・トンネルがあった。これはその当時、世界の鉄道トンネルのうちで最長であった。
画像:1852年ナポレオン三世治世下の花のパリで、ヴェルディはアレクサンドル・デュマの劇場公演「椿姫」をみて作曲を開始し、翌年オペラ『椿姫(La Traviata)』が完成した。改訂版『椿姫』のパリ初演は1856年12月6日イタリア座で行われ、爆発的な人気を博した。(参考:乾杯の歌) 『椿姫』は、ヴェルディの第二期の終り頃に作曲され、『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』と共に中期の三大傑作となった。VerdiとはViva Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳)の略なのだという風説が流れるほどだった。
1869年12月、英国政府はパークス公使の要請に応じて、当時のもっとも有能な超一流の金融業者デランジェ商会を日本に提供した。当時の(日本刀で外人を切りまくる)野蛮人だらけの日本が対象であってもなんとか融資金をかき集められるよう、英国政府は、ロンドン市場でもっとも信用のあるデランジェ商会を抜擢して仕事をさせた。デランジェ商会の赫々たる信用のお蔭で日本の第一号国債は発売と同時に完売した。
伊藤博文が猿知恵を働かせず、英国政府の提案のまま、素直に彼らの好意を受けていたら、日本国は世界の金融界から仲間はずれにされることはなかった。パークス卿の指示通りにしておれば、日本国はこのきわめて優秀な金融家と組んで、世界に冠たる経済組織を作れたはずだと思うと、まことにくやしく、ありうべかりし機会の喪失が惜しまれる。