デランジェ商会と棉花債券(2)

画像:オーガスト・ジョン(Augustus John、有名なウエールズ出身の画家)によるBaronne Baba d’Erlanger (1901-1945) Miss Paula Gellibrand (1898-1964) の肖像画

エマイルは「金」だけ作ったのではなかった。18世紀プロイセンのフリードリヒ大王は戦いの天才であり、その戦費は父親である兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が稼いだ。エマイル・デランジェはこの両者を一人で兼ねた。すくなくとも、「棉花債券」の件については、両機能を兼任した。彼は、「棉花債券」の構想が成立するやいなや、ロンドンにユーロピアン・トレーディング・カンパニーという名前の会社を設立し、英国リバプール近くの最新鋭造船所で1860年に建造された当時の最速鋼鉄船を二隻買取り、「棉花債券」の担保物件として連合国が用意した棉花を、合衆国海軍によって海上封鎖されたなかをくぐりぬけて輸出するきわめてハイ・リスクな輸送事業を開始した。融資のみならず、担保物件を換金するための物理的な輸送業務を提供し、英国政府を驚喜させた。

ついでだが、

画家オーガスト・ジョンは、第一次大戦後のパリ講和条約会議(1919/1/18から)に出席していたロイド・ジョージ首相の肖像画を首相のドーヴィルの別荘、ヴィラ・ショーミエールで描いていたが、閑をもてあまし、近所にいたBaronne Baba d’Erlanger(フランスのFaucigny-Lucinge家に嫁したから、正しくはBaba de Faucigny-Lucinge)の肖像画を描いた。

何しろ18世紀後半、産業革命の基幹となったハーグリーブス、アークライト、クロンプトン等の紡績機械はすべて、マンチェスター、リバプールを含むランカシャー地方で開発されたのである。造船所もリバプールかスコットランドであった。(長州五傑の一人山尾庸三が1864年造船学を学んだのは、スコットランドのロバート・ネイピア造船所)マンチェスターもリバプールも、産業界はプロ・サウスの人達であふれていた。

そもそも、リバプールを含むランカシャー地方は熱狂的な連合国応援団だった。実は、デンビー号を建造したジョン・レアード造船所の社長ジョン・レアードその人もプロ・サウスだった。デンビー号をエマイル・デルランジェに紹介したのも、ジョン・レアードその人であった(Merseyside and the American Civil Warを参照せよ)。ユーロピアン・トレーディングの出資者の一人であるリバプールの銀行シュレーダー商会(J. H. Schroeder and Company)はドイツ人のヘンリー・シュレーダーが1839年に設立した商業銀行で、アメリカ南部の棉花輸入を専門とした根っからのプロ・サウスだった。

画像:英国産業革命と綿製品輸出の増加

オーガスト・ジョンはその当時の英国の肖像画の第一人者であった。『智恵の七本の柱』を書いたアラビアのロレンス(Colonel T. E. Lawrence)の肖像画(1919 テート美術館蔵)は誰でも知っているだろう。この絵もそのとき描かれたものだ。

画像Colonel T.E. Lawrence 1919

描かれているバーバは、フレデリック・エマイル・デランジェ(Frédéric Emile d'Erlanger)の次男で家業を継いだ エマイル・ボーモント(Émile Beaumont, baron d'Erlanger (1866-1939))の娘、つまりフレデリックの孫娘である。

ちなみに、彼の新妻マルゲリータはジョン・スライデルの次女であり、絶世の美女であったらしい。彼女の住んでいたBelle Point Plantation, Laplace, Louisianaはニューオーリンズの西方40km、ミシシッピ河に面した農場である。

マーガレット・ミッチェルの小説『風とともに去りぬ』(1936年出版)の主人公スカーレット・オハラの恋人レット・バトラーは、封鎖ランナーの船長という筋立てだ。1864年当時「封鎖ランナー」であった人物はおしなべて勇気があり、金儲けの名人だった。封鎖ランナーに恋をしたマルゲリータの名前を知っていたマーガレット・ミッチェルは、この事実に基づいて小説を作ったのかもしれない。ちなみにマーガレット・ミッチェルはジョージア州アトランタの人。アトランタは18649月北軍に征服された。

こういう精神的背景のなかで結成されたスライデル・デランジェ共闘態勢は英国政府と英国の民衆から絶賛を受けた。この時点でエマイル・デランジェは世界の金融市場の檜舞台にあがり、板東玉三郎のような大物役者になった。総額1,500万ドルの「棉花債券」にたいして、8,000万ドルの注文が殺到した。「欧州の投資家達はこの債券に群がった。そのなかには、後の英国首相ウイリアム・グラッドストーンやセシル卿(ロバート・セシル、第三代ソールズベリー侯爵)も含まれていた」とニューヨーク・タイムズ記事は伝える。

結局、連合国は1865年北軍にやぶれたのだが、このような破天荒な連合国支援策を実行したただひとりの金融家エマイル・デランジェの名前は天下に轟いた。この功績が讃えられたのであろう、1870年普仏戦争の勃発直前、エマイル・デランジェ一家は英国籍を提供され、ロンドンに移住し、ロンドンの一等地である139 Piccadillyに住むこととなった。

画像18381874年に鋳造されたヴィクトリア女王の肖像コイン 表:ヤングヘッド 裏:王冠を戴く盾に描かれた紋章。当時のイギリス帝国の本位金貨(stg£1

画像139 Piccadilly

マルゲリータの写真や画像はみあたらない。下の画像はマルゲリータの孫娘バーバ・デランジェの画像。

画像:「アラバマ号とキャップテン号を建造した男、代議士レアード」
雑誌「虚栄の市」18735月号から。

画像:英国の産業革命-鉄道

画像(当時英領)ニュー・プロビデンス島ナッソー港、封鎖ランナーから棉花の俵包を下す。 The Illustrated London News1864410日付

1862年に港湾封鎖が開始された時点から多数の封鎖ランナー(封鎖を突破する船)が誕生していたのだが、封鎖されていない港がわずか二港になり、封鎖突破がきわめて難しくなった時点で彼は、難度のきわめて高い輸送業務を開始したのである。乗組員には英国海軍の予備兵が使われた。英国政府が背後にいて支援したのである。