どこをどうとっても完璧に安全な投資物件に見えますが、問題があって、

1. 担保があるとはいうものの、担保の棉花は連合国内にあり、連合国は港湾封鎖されているから物理的に引き取ることが難しい。
2. 連合国が負ければ、債券の名義人が消え失せることとなる。つまり、担保が消え失せる可能性がある。
3. 担保を引き取らない場合でも、負け戦になる場合は、株式取引所での債券相場が暴落する恐れがある。

 こういう事情でその当時、連合国に金融を行おうとする金融業者は一人も出て来なかったのです。


   このような一般の金融業者の臆病で薄っぺらな精神構造とは異なり、エマイル・デランジェはたったひとりで責任をとって「棉花債券」を組み上げた。総額1,500万ドル。約400万ポンドのリスクをとったのです。このクレージーさは、今現在考えてみても、「破天荒」である。しかもシンジケートを組むのではなく、単独行での融資であり、天才的離れ業といえるでしょう。

デランジェ商会と棉花債券(1)

もともとアメリカ合衆国の南部地域はイギリスの自由経済圏だった。イギリスの産業革命は繊維産業から始まり、イギリスは産業革命による機械化によって達成した安価な木綿生地の輸出で世界中を席巻した。原料の棉花はもともとはインド産が主体だったが、インドは遠隔地で輸送費がかかることから、アメリカ南部の棉花に切換えた。だから、南部諸州は英国の経済圏に組み込まれて育ってきた。「平等と自由」という哲学的イデオロギーには理解を示しつつも、英国は「金」にまけて連合国に味方した。大げさにいえば、奴隷の売買、奴隷船の建造、奴隷を運搬する海運業、奴隷労働によって生産された原綿の輸入、木綿生地の輸出などなにからなにまで英国にとっては「いい商売」になっていた。

画像:ロンドン株式取引所(ロイヤル・エクスチェンジ)銅版画、加筆彩色。1850年頃

詳しくは「棉花債券」を読んで頂きたいのですが、連合国は融資の見返りに棉花を担保として提供するのですから、一般の銀行融資と同じく投資家側には安全な投資のように見えます。また、形式としてはさらに、融資額を分割して株式取引所で売買できる債券を発行して債権に流動性をもたせ、さらに連合国は7%の利息支払を債券購入者に約束し、償還期日到来前に現物と引換えたいと希望する債券保持者に対しては、債券の提示による現物引渡条件が追加されていました。

画像The Erlanger Cotton Loan デランジェ棉花債券

画像:ジョン・スライデル(John Slidell (1793 – July 9, 1871)


注:
  ジョン・スライデルの妹
Jane Slidell Perry (1797 - 1879)が結婚した相手がペリー提督(日本を開国させたMatthew Calbraith Perry)である。つまり、ジョン・スライデルはペリー提督の義兄という関係になる。
  ジョン・スライデル(当時69歳)はトレント号事件で捕虜になったが、1862年元旦ボストンで釈放になり、1862年連合国大使としてパリに来た。当時のナポレオン三世は鄭重に彼を迎えたが、連合国の独立を承認せず、封鎖破りのための帝国艦隊を派遣せず、スライデルがフランスの造船所で建造した六隻の船の引渡を拒んだ。失意のすえ、やっと巡り会ったのが、エマイル・デランジェ(当時30歳)であった。エマイルは連合国のために棉花債券を発行し、3百万とも6百万ドルともいわれる戦費を調達した。

南北戦争と棉花債券については別項「棉花債券の時系列的展開」を参照していただきたいが、合衆国の理念「平等と自由」をめぐって戦われた南北戦争は1861年に開始された。南軍である連合国は、当初は自前の資金で戦費をまかなっていたものの二年間で枯渇し、棉花の英国向け輸出は港湾封鎖により滞り、資金の欠乏で武器弾薬、船舶の購入ができないという絶体絶命の境地に陥っていた。ジョン・スライデルの役目は、フランス政府をして連合国に加担させることもあったのだが、主として軍事資金の調達にあった。

どうやらこの二人は会った途端に意気投合したらしい。人間というものは知恵が風格をつくり、高潔な精神が知恵をつくるもののようで、この二人にはプロイセンのフリードリヒ大王にも似た凛々とした高潔さがあって、それが二人を結び付けたのでしょう。難局にあたっても不退転の精神で立ち向かう、という精神なのですが、英国流の「反骨精神」にもどこか似ています。

スライデルの話を聞いて、事態の深刻さを察知したデランジェは直ちにルイジアナ州へ乗り込んで視察をした。

こうして南部諸州の連合国軍に軍資金を造るための「棉花債券」が成立した。電光石火の早業だったのです。

彼が離婚する前、1862年、彼はパリで一人のアメリカ人に出会った。このアメリカ人がエマイルをして欧米金融界の寵児に仕上げ立てた。その人はルイジアナ州のジョン・スライデル。彼は当時南北戦争(1861-1865)中であったアメリカ連合国の駐フランス大使を勤めていた。186111月キューバを出港してバーミューダに向かっていた英国郵便船トレント号に乗船していて合衆国船艦につかまり、捕虜にされた連合国大物議員二人のうちの一人である。(いわゆる「トレント号事件」。)

画像:現代の棉花の梱包。(原典にある説明:綿花は圧力に大変強いので、固く締め付け、綿俵の状態で輸入されます。1480ポンド(約218kg)で、1コンテナーあたり100俵または85俵詰められます。)

ただ一方で、連合国の味方をすると合衆国との間で戦争が勃発する恐れがあったため、ヴィクトリア女王は1861年、いやいやながら「中立」を宣言した。だが、心のなかはあくまでも南部連合国との結束を守る、ということにあった。

画像:写真家Edouard Baldus1855年頃撮影したチュイルリー宮殿。ナポレオン三世はここで執務したが、この建物は1871523、パリ・コミューンの鎮圧の最中に焼失した。

画像:海軍上級将校デヴィッド・ファラガットと彼の戦艦が、18624月、ニューオーリンズの川下にあるジャクソン堡塁とセント・フィリップ堡塁を通過するところを示している。De Hass画。
(注:港湾封鎖のアナコンダ計画でニューオーリンズ攻略を命じられたデヴィッド・ファラガットは、旗艦ハートフォードに乗船し17隻の艦隊を率いて、1862418日両堡塁を二日間砲撃し、降伏させるにはいたらなかったが、ここを通過して429日に港と市街地を確保した。この戦果で、彼は合衆国初代海軍大将となった。)