フレデリック・エマイル・デランジェ

 デランジェ商会については、日本の金融界との直接交渉がなかった所為でしょうが、ほとんど紹介されていない。Wikipedia日本語版にも記述がない。しかし、幕末・明治維新のころの欧米金融史上では、文字通り「飛ぶ鳥をも落とす」銀行だったのです。

頭取のデランジェは素晴らしい頭脳の持ち主であり、カリスマ性があり、顧客の信頼を裏切ることが一度もなかった。

当時の金融業者には、現代の金融業のような共同責任性という薄っぺらな脆弱性がなく、取引に関するリスクをすべて個人で引受け、リスクの分散に力をそそいだ。個人取引であったから、一度でも顧客の信頼を裏切ることがあれば、業者の命運が尽きるという苛酷なビジネスであった。

画像Frédéric Émile d'Erlanger
フランス語読みでフレデリック・エミーユ・デランジェ

画像:エドゥアール・マネ 「チュイルリー公園の音楽会」1862 ナショナル・ギャラリー、ロンドン

  エマイル・デランジェがジョン・スライデルと出会った頃のパリ。はなやかなで享楽的なパリの様子。

 彼の父親ラファエロはアシュケナージと呼ばれるドイツ系ユダヤ人であり、フランクフルトで銀行業をしていた。時代はちょっと違うが、ロスチャイルド家の始祖マイアー・アムシェル・ロートシルトと似た出自です。

ラファエロはドイツ人の妻マルガレーテと結婚しキリスト教に改宗し、子供を二人作った。姉のスザンヌと当人のエマイル(1832-1911)である。エマイルは父親のもとで修業をして、19歳になる前に、オットー一世のギリシャ政府の厚い信頼を勝ち得て、パリでギリシャの総領事且つギリシャ政府の財務担当者となった。引き続き、スエーデン王室とポルトガル王室の信任を得て、ポルトガルの女王マリア二世とその夫君フェルディナンド二世(ザクセン=コーブルク=ゴータ家出身でヴィクトリア女王の従兄弟にあたる)から父親のラファエロに世襲の男爵号を頂戴した。当時のザクセンーマイニンゲン王室ならびにオーストリア帝国からも数々の称号を拝領したが、21歳のとき病気となり、(神経性のブレイク・ダウンだと思う)これから回復してのち、父親の会社エルランジェ商会(Erlanger & Sons)の共同経営者となった。

18586月、26歳のとき、彼はパリの社交界の名士であり、元首相のジャック・ラフィットの孫娘であったフローレンス・ラフィット(Florence Louise Odette Lafitte (1840–1931))と結婚したのだが、4年後離婚した。二人の間に子供はいなかった。

画像:その頃のパリの美術界では印象派が始まろうとしていた。マネ、草の上の昼食、1863、オルセー美術館。

画像:当時、ナポレオン三世の治下で素晴らしい文化が花開いていたパリ。この写真は1862年開館した国立図書館の読書室