この記述から読み取れることだが、英国政府は1869126日に成立した契約にもとづき、デランジェ商会を使って、日本国外債を1870423日、ロンドンで公募した。当時デランジェ商会と販売窓口のシュレーダー商会はともに日本に支店をもっていなかったため、公債払込金の受取等の業務をオリエンタル・バンクの横浜支店に委託した。

 さて、もうひとりの「馬鹿」についての説明をしなければなりませんが、それには当時の時代背景を知る必要があります。次章では『デランジェ商会』について調べることにしましょう。

彼は知っていたのか知らなかったのか私は知りませんが、英国外務省はこのロバートソンの行為に激怒した。彼は自行が英国大蔵省の認可のもとに営業していることを忘れていたのでしょう。いろいろの当時の事情があったのでしょうが、(例えば、セイロン・コーヒーの病害とか、金本位制の結果の銀価格の崩落とか)、10数年後に、この銀行は潰された。少なくとも英国政府による救済はこの銀行には到来しなかった。日本政府の第一回外債の最終償還期限の到来とともに破産した事実が、背後の英国政府の不満を示している。

たんなる一介の為替銀行が、為替銀行免許の許認可権限者に盾突くというのは、どう考えても「馬鹿」ですよね。

 潰された英国東洋銀行の代わりに抜擢されたのが、香港上海銀行だったことは、皆さんもご存知でしょう。

画像:英国大蔵省を象徴するThe Red Box1860年にグラッドストーン大蔵大臣が使ったアタッシェ・ケース。現在も予算案提出の際に使われている。1870年当時、そのグラッドストーンは首相になっていた。グラッドストーンもロバート・ローもともにオックスフォード出身の超秀才。

このオリエンタルバンクの横浜支店長がジョン・ロバートソン(John Robertson)だったが、この男が今でいう「インサイダー情報の流用」を行った。彼はオリエンタル・バンクに指定された任務の枠を越え、当時の大蔵少輔伊藤博文に告げ口をした(内部情報を漏洩した)。ロバートソンは「いや、ロンドンでの情報を的確に伝えただけだ」と抗弁することだろうが、彼のとった行動は、第一号外債を横取りして自行を発売元に変更させることを狙いとする「インサイダー情報の悪用」だった。

画像:横浜居留地地図(一部改変)

  この資料によれば、明治711月時点で100万ポンドの内、86,400ポンドが未消化あるいは買戻・償還されていたことがわかる。

画像:旧江戸城写真帖 本丸重箱櫓中ノ渡門図、横山松三郎撮影、明治4(1871)

下乗門から本丸へむかう時にくぐる中の門 図中の文字は「中ノ渡リ門」「重箱櫓」「多門」(右より)
  ここも石垣を残すのみだが 中の門と対するように百人番所が江戸時代のままにある。百人番所とは下乗門(三の門ともいう)外で乗り物から降りた登城する大名諸侯らにとって最大の検問所だった 検問にあたったのは甲賀組 根来組 伊賀組 廿五騎組で 各組に同心百人づつが配属されていたので この名がある また門の内側右手に警備の与力同心がつめていた大番所の建物も残っている この前を通り さらに書院門をくぐると本丸に入ることとなる (説明文は『写真で見る江戸東京』)

英国東洋銀行によるインサイダー情報漏洩

上に引用した『伊藤博文伝』(上)春畝公追頌会、昭和15年の記述のうち、次の記述に注目していただきたいのですが、


明治三年月上旬に至り、右契約の實行にき、公はオリエンタル・バンク支配人ロバートソン交渉する所ありしに。意外にも該契約書中に不備のあるを發したるのみならず、レーは歸國後利子九分にて借入れたるものを我が政府に一割貳分にて貸付け、間に於て三分の利を壟斷せんとしたる實が判明するに至つた

画像1870年当時の英国大蔵大臣ロバート・ロー(Robert Lowe
By George Frederic Watts, the National Portrait Gallery, London
作成年不詳

このくだりが示すところは、


1. 423日国債の公募と同時に、オリエンタル・バンクがデランジェ商会から在日本代理店として指定され、オリエンタル・バンクがこの業務を受託していた事実から、オリエンタル・バンクはデランジェ商会にたいし、業務委託料に見合う守秘義務を負っていたと考えられること。

2. にもかかわらず、ロバートソンが自らの意思により、この守秘義務を破り、部外者(伊藤博文)にたいして内部情報の漏洩を行ったこと。つまり、日本国債が発行され、その金利が9%であったこと、を伝えたこと。

3. この行為が日本政府とネルソン・レイとの契約に不測の影響を与える可能性を考慮しなかったこと。金融筋の見方からすれば、ロバートソンはネルソン・レイ契約の破棄ならびに金融契約の横取りを画策した、と解釈されること。

4. そればかりか、ネルソン・レイ契約のなかに「国債発行の禁止条項が記載されていない」ことを指摘して、日本政府が(伊藤博文が)犯した失策をあげつらったこと。

画像:英国11番館、オリエンタル・バンク

当時東洋で最強の植民地銀行であったオリエンタル・バンクが横浜支店を開設したのは、18648月(元治元年7月)のことである。外国銀行としては四番目であった。英米仏蘭四国連合艦隊が下関海峡で長州藩砲台と交戦、下関戦争を展開していたころである。(引用:『明治政府と英国東洋銀行』立脇和夫、中央公論社 1992P19

 オリエンタル・バンク(十一番會社)というのは、大英帝国アジア地区での為替取引を専業としてイギリス政府から免許を受けていた銀行である。1842年にボンベイで合資会社として設立された当初はその免許も持っていなかったのであるが、1845年に本店をロンドンに置き、1849年に破産したセイロン銀行を買取り、セイロンの地場取引を独占したうえ、1850年に大蔵省インド局に申請を行ない、この時点で英国政府の為替銀行特許状を入手したのである。 

日本の横浜に支店を開いたのは、1864年(明治元年)であり、早いほうではなかったが、(英国政府からの後押しがあり)、「日本政府の外国為替方」に指名され、「御用為替座」に指定された三井組とともに明治政府の為替勘定を取り仕切った。

画像明治三年発行海関税抵当公債百万ポンド償却表、早稲田大学図書館蔵

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