注:

  日本国債第一号の引受け銀行がデランジェ商会であるとの記述は、富田俊基『国債の歴史』東洋経済新報社 2006 P208のなかの次の記述に基づくものである。

 18703月にイギリスに帰着したレイは、日本政府への借款供与を行う者を探したようであるが見当たらず、鉄道建設資金はパリのエマイル・エルランジエ (Emile Erlanger) 商会が引き受け、シュローダー商会が募集取扱いを行う公募債として調達されることになった。エルランジェ商会は第6章「南北戦争」で述べたように、アメリカ南部同盟政府のコットン・ボンドを引き受けたパリのマーチャントバンクで、その後ロンドンに本拠を移し、チュニスやギリシャなどの国債を引き受けていた。エルランジェ商会は、日本国債の引受けを行った後。1875年にロンドンで4.5%利付スウェーデン王国債2700万マルクの引受けを行っている。シュローダー商会は手形引受のほか、キューバ、ロシア、チリ、ウルグアイ、ブラジル国債などのロンドンでの公募発行を行っていた。


先に述べたホレーシオ・ネルソン・レイの経歴を見ても、彼がロンドンの金融市場で自ら国債の発行を行うような資質と素養はないように思われる。いやしくもパークス卿が日本政府にもちかける案件については、予め国債の引受元と販売窓口を隠密裡に取り決め、充分な瀬踏みを行ったのちに行動を取るのが常道ですから、当時英国政府の覚え目出度かったエマイル・エルランジェ商会が引受け元として使われた、と考えるのが妥当だと思われます。むしろ、「レイが一人で日本国債を発行した」とする明治政府の公表を信じるほうが現実との整合性に欠けると思います。

デランジェ商会による日本国債の発行

画像:斎藤ホテル所蔵「横浜案内絵図」1877年頃

明治10年(1877年)頃の横浜の地図です。この港が横浜港(イギリス波止場)です。まさに象の鼻の形をしています。この地図も実は信州にあったものです。上田市の鹿教湯温泉にある斎藤ホテルは、当時、旅館の他に製糸工場も営んで外国との取引がありました。そのため、横浜から多くの文書が信州にやってきました。この地図もその一つです。

 (第 二 信)          ・

昨夜、民部卿の飛便を以十一番會社へ可相渡書面落掌仕候に付、今朝一書相認、御請迄に差置申候。定て御落握被成下候儀と奉存候。則其節申上置候同社へ可相渡書簡の稿出来仕候に付、原文竝飜訳共相添贈呈仕候間、篤と御熟覽被成下、御異議無之事に御座候へば、兩公閣下御調印の上、御下渡被下度主意を右書面にて御了解可被成候儀に御座侯處、十一番會壯に於て右の旨趣を我政府へ達て相勧候儀にては無之、則我の依頼に依て同社此事を取行可申筈に御座候間、詳悉御諒察の上自然御異存等御座候儀なれば、充分御辯明被下度相願申候。右書中三百萬度云々のは、凡道造築成功迄の入費は右金要求するに付、質物を以後来連続三百萬度の高には借様致我政府の都合に於て可然とのにて、縱令ば其内五十萬は百萬にて跡へぱ、み候てもに障碍無之意味に御座候。乍去此書は必我政府の存意を十一番會に示候迄にて、レー受候金子返済或は手形買候に付ては新に借受可積り有之を著し置不申ては、會に於て取計振にも關係可致尤新に借受候に付ては、同へ別に命令書をへ、文中にはレー犯、變杓の儀如何處して可然説明し、且處分を彼依頼するに付ては、我政府の望願如斯なるを以て、爲我に充分除損害適實當の處を取行爲に、レーとの條に於如何をも篤と致推考呉候様相認候筈にて、既に右命令書案も出来仕候處、明ならでは翻訳相整、明日出來の明細密事情爲申上、平井土木正に爲持差出候心得に御座候。レーとの條約破談相整、尚新に借に付ては迄レーへ候を、十一番會へ與るに不及申、我政府の免を受上、大蔵卿に被委任、其取行ひを會にて致候迄にて可然、すれば大に將來の爲にも顧念無之、旁以國の大幸と奉存侯御疎は有之問布候得共、原篤と御應、御了解の上御證印御可被下候惶頓首百拜。

  五月念五慱五字            文

 民部大閣下
         侍史
   

  かくて政府は、レーへたる借款委任を解除し、同時にレーと契約せる案を擧げて改めて國東洋銀行(オリエンタルバンク)に委託することに決し、この年六月一日を以て必要なる手続を了した。これにり、我が海關税保に供し、英貨一百萬磅(我金貨四百八十八萬兩)を額一百磅に付、九十八磅込年利九分とし、三年間据置き十年賦償還の條件にて倫敦に於て公を募集することヽなった。この資金は全部東京濱間の鐵敷設に充てられしものであった。

注:ホレーシオ・ネルソン・レイ

(引用:『伊藤博文伝』(上)春畝公追頌会、昭和15年 P493

        一 信)

 借財破談の々熟議仕候處、容易至決極、明日可仕筈に十一喬(オリエンタル・バンク)と相約置申候。尤指當り緊要の事件は十一番會社を政府の名代人に命じ、レー或は同人の名代人不日来着候へば、爲引合一切此方に應接可仕儀を相拒候事、彼の奸謀を防禦するの一策と奉存候に付、則別紙原譯書相認差出申候間御熟覧、民部卿えも御相談の上御調印、明日中御送被下度奉願上候。種々討論の末熟考仕候處。レー此地出帆の前、金は同人親友に富豪の者有之候に付、同人申合口調達可致、兼て相話候而巳ならず、英國公使へも同様相語候趣にて、全く我を欺き、歸國の上公然借財の體に取行、則別紙圖面に相添居候新聞紙にて普く公布致候儀は意外の事と奉存候。且壱割貳分の利足と取極候儀は、友人且は己の有する金に無之ては、豫難取極筈に有之候處、新聞の上にて推察仕候へば、九分の利にて三歩は已の私益に致候心得に可有之、左すればコムミショネルの職掌に於て不當に可有之、大凡是等の筒條を以責候時は自ら勝利可有之乎と洞識仕候。且我政府に於ても命令書を與へ約定取極候節の意、レー今日の處置振りに及候儀とは不相心得、此儀は英公使も確證人に可有之、決て彼も逃避可仕譯には参申間布奉存候。然處レーヘ委任且約條取結候儀に付、僕惶怕の心を生候儀有之、是は命令書竝約定書と二様に相認渡候儀に付、是を兩般に用ひ候も難計、彼固より奸猾の奴故如何様惡計を施候も不可期、豫防丈けの手は着置申度、夫故明日の飛脚船便にて、我政府の見込は破談乎、或は手形買揚乎、兩條の中に取極居候に付、十一番に於て何時も應機の處置を致置呉候様相頼遣置申候。即今新聞の模様を以推察仕候へば、第一の命令書にて金は相調、右命令書はレーより他のバンクの手に売渡候形勢に被察申候。此次はレーの権、鐵道造築に付て外國機關者を指揮し、事務を管轄するの権可有之様推考被仕候。是以洞察仕候へば全く兩般に分判仕候樣成行可申、別紙新聞紙上にて御熟案奉願上侯。明日より破談の事を十一番會社に委任するの書面案に取掛可申筈に御座候。尤熟議の上、命令書竝約定に付、破談に難至勢に御座候へぱ、買揚の外術計無之、何の道會社に相託可申外は有之問布に付、其都合に取掛可申候。御閑暇も御座候へば、於東京英公使えも御引合、此害を避るの方略御尋被下候へば、旁以彼を鞫責可仕儀にも相當り申候乎と奉存候。是は御都合次第にて可然奉存候。胸臆書上にて赱昧充分に難盡候に付、渋澤(榮一)へ申含置候に付、御聞取可被下候。尤新聞竝全體の事、世問に流布仕候ては、却て亊を害候様可相成候に付、御用心申上候迄も無之、誠惶拜白。

      念三夜                  博  文   大 隈  先 生

  硯北

ホレーシオ・ネルソン・レイ(23 January 1832 – 4 May 1898, Forest Hill, Kent, England)、中国名:李泰国、は英国の外交官である。

1854年、太平天国の乱の際、上海地区は(太平天国軍によって隔離されて)清国の首都北京から切り離されていた。しかしながら、上海在の西欧諸国は、条約により中国に持ち込むあらゆる品物にたいして関税を支払う必要があったので、中国政府に成り代わって関税を徴収する役所(海関総税務所)を作った。レイは中国語がうまかったことから、同年、上海の英国領事館副領事となっていたが、同所の初代主任となった。
     (
Encyclopedea Britanica

1853年に南京を占領して首都とした太平天国を打破するため、英国政府の助言により、1861年清国政府は英国製砲艦を買上げ、英国人を乗船させた小艦隊の隊長としてレイを任命した。ところが、船籍を示す中国水師船(海軍)の官船の印(つまり国旗、これまで清国には国旗というものがなかった)の件でもめて、1863119日、彼は辞職し、小艦隊を解散し、一発の砲撃もしないまま、船を英国に送り返してしまった。その後、彼は英国にもどり、財務関係の仕事に就いた。(Wikipedia Horatio Nelson Layより抄訳)

 彼が就職した「財務関係の仕事」とは、デランジェ商会関係だったに違いないと筆者は考えている。

画像開港当時の横浜港
(『横浜海岸通之図』)、
横浜開港資料館所蔵

画像横浜市中に於て外国人生糸を見分る図
半山直水画 明治期

安政6年(1859年)623日から28日までの間に、氏名不詳のオランダ商人が購入したのが最初。ついで28日までにエスクリッゲとジャーディン・マセソン商会のバーバーが芝屋(しばや)と契約を結んでいる。甲州屋忠右衛門(こうしゅうやちゅうえもん)や中居屋重兵衛(なかいやじゅうべえ)がこれに続く。

引用
3.1 日本からの生糸輸出、1861-95
                           (
年間平均、単位キログラム)

年度           フランス            英国              米国

1861-65            84,853         346,187              2,419
1866-70           229,703         364,029            21,107
1871-75           285,768         315,463            12,640
1876-80           470,957         320,241           176,238
1881-85           727,393         172,065           587,502
1886-90           772,693          84,006          1,110,715
1891-95         1,174,884          50,500         1,744,424

2:公債は關税保を担保にしていたのだが、当時の輸出品目で最大だったのが生糸で、生糸輸出が「日本帝国政府英貨百万ポンド関税公債」を支えていた。その生糸はどこで生産されていたか。上州産が最高品質とされていたようです。
  なお、
輸出に占める生糸の割合は平均40%年間生糸輸出額は平均1,200,000£。生糸の輸出関税は横浜開港以来明治32年まで従価税で5%輸出仕向地については添付表を参照のこと。他品目の輸出関税に加え、輸入関税を加えると、英貨百万ポンド公債の抵当として無理はない。パークス卿はこれら全てを計算ずくで明治政府に外債を勧めたのだ。

画像:『明治政府と英国東洋銀行』立脇和夫 中公新書10891992  P81

1: 服部之総『明治の五十銭銀貨』(引用)によれば、この公債の正式の名称は「日本帝国政府英貨百万ポンド関税公債」。

画像ホレーシオ・ネルソン・レー

画像1863年、レイが隊長を辞任したときには、太平天国は次々と領地を失い、南京(天京)は清朝軍によって包囲されていた。「天上天国の首都を包囲しつつあった清の戦闘小船に対する太平天国の砲撃」と題するこの絵は多分その頃描かれたものであろう。

何が起きたかを伊藤博文自身に語って貰おう。

 公は、曩に倫敦留學の時より、交通運輸關として鐵の利便を看取し、維新後商工業の發を圖る爲めに、一層必要感ぜしが、自ら要路に立つに及び、先づ東京。大阪間に於け敷設の計画を樹て、屡々廟堂に建言する所あり、而してこれに要する巨額の資金は到底内に於て支辨する餘力なきに鑑み、豫ねて英國公使パークスとの談話に依り、英國よこれを借入れ得る十分の自信を有し居りば、鐵敷設の資金を外債にむるの議を主張した。外債募集ては反論を唱ふる者もありしが、政府は竟に公の意見を容れ、此年十一月十日に至り、大藏卿伊達宗城、隈重信及び同少たる公の三人を外交渉委員たらしむることに決し、左の辭令を交付した。

 鐵路製作決定付英國ヨリ金銀借入方條約取之全御委任被仰付候事

 伊達大隈とはその地位責任を負ひたるが。主として談判のに當りしは公であった

 折しも國總税務司英人ホレーシオ・ネルソン・レーがそのめ歸國の途次、我國に立寄しか、公はパークスの紹介に依、数次同人と會し、鐵道資金借入に就き交渉をねたるに、同人はパークスの諒解を得て、起債の斡旋を承諾した。で十一十一日を以て、右レーと契約を結、東京より京都或は大阪を經て兵庫達する竝に東京間、琵琶湖敦賀其の支線を敷設することヽし。工事費概算百萬磅と見積り、その中壱百萬磅の起債をレーに委任し、技師、職工傭聘、材料の購入等一切同人をして取扱はしむることゝした。

 然るに、明治三年月上旬に至り、右契約の實行にき、公はオリエンタル・バンク支配人ロバートソン交渉する所ありしに。意外にも該契約書中に不備のあるを發したるのみならず、レーは歸國後利子九分にて借入れたるものを我が政府に一割貳分にて貸付け、間に於て三分の利を壟斷せんとしたる實が判明するに至つた。その顛末は五二十三日公が大隈に送りし左の二翰に詳述してる。

明治維新の日本にとって、鉄道建設の基本計画は英国公使ハリー・パークスの尽力によって、1869126日、見事にスタートを切った。彼と英国政府の描いた構図はどこをどうとっても手抜きされたところがなく、完成度100%を絵に描いたような素晴らしさであった。ところがここで、信じられないような「馬鹿」が二人出て来た。一人は伊藤博文であり、もう一人はオリエンタル・バンク横浜支店長ロバートソンである。

画像横浜海岸鉄道蒸気車図
所蔵:横浜市中央図書館
歌川広重 (三代) 明治7年頃