契約は実質的に18691214日にすべて完了した。「すべて完了」という言葉を使えるのは、その契約内容が、英国側にたいする「丸投げ」であったからである。詳細は英国側に「一任する」という一任契約だったからである。つまり、英国は(極東の、極端に貧乏で、体制の維持も覚束ない)明治政府に、百万ポンドのローンを組成し、その際の金利を年利12%とし、この金額のほぼ半額を使用して鉄道建設に必要な蒸気機関車とその他の資材を輸入して日本政府に引渡す。残りの半額については、日本政府が(幕末の混乱期に発行された「どろ銀」や藩札などを買取り、貨幣改革のために使用するという目的で)任意で使用することとなっていた。これが、ハリー・パークス公使の原案で且つ英国政府の承認した対日政策であった。

ホレーシオ・ネルソン・レイは、この契約を英国の私人による契約にみせかけるために使われたスタント・マンにすぎない。

 明治維新のさいに主導権争いをした米国と英国の争いについては、結局上述のようにして決着がつき、いよいよかねてから腹案を練っていたハリー・パークス公使が表舞台に出て来た。

『パークス伝』1870年(明治3年)421日、ハリー・パークスよりクラレンドン伯への書簡から抜粋すると、

江戸 一八七〇年一月二十二日

 説得の結果、日本政府は江戸〔東京〕と京都の間に鉄道を敷設することに同意した。うまく完成すれば、すばらしい工事となる。政府は英国技師の援助により、自分の手で鉄道を建設しようとしている。この工事を始めるために、英貨百万ポンドを借款することになる。・・・・・

『パークス伝』高梨健吉、東洋文庫429、平凡社1984 P153

ところがここで、信じられないような「馬鹿」が二人出て来た。一人は伊藤博文であり、もう一人はオリエンタル・バンク横浜支店長ロバートソンである。

 これ以降のことの成り行きについては、筆者が纏めた伊藤博文メモの一部を抜き出してお見せすることにしましょう。

画像:高輪牛町朧月景
小林 清親
KOBAYASHI, Kiyochika 1847
1915
1879(明治12)年制作
木版

画像:明治4年の頃の二重橋 蜷川式胤撮影

西丸書院門から下城する烏帽子やちょんまげに羽織袴姿の新政府役人三十数名がうつっている。欄外上端に「東京 西丸 二重橋図」、下端に「蜷川式胤 明治四年之写」とある 横山松三郎に旧江戸城の写真記録をさせた式胤自身が撮影をしていたことがわかる貴重な一枚 背景は伏見櫓と愛称される西丸書院二重櫓と多聞(写真・説明とも『写真で見る江戸東京』芳賀徹 新潮社 1992 から

画像:「横浜鈍宅之図」五雲亭貞秀が描く横浜浮世絵
慶応頃錦絵帖(文久1年、1861年 山口屋藤兵衛出版)
鈍宅とはオランダ語のZondag(日曜日)。船員や外国人が日曜日に浮かれ廻る図。

英国政府による完璧なお膳立て

勿論、この契約の真髄は「日本政府のために成功裡にローンを組み上げる」ことにあり、万が一「金がつくれなければ世界に恥をさらすことになる」から契約者としてスタント・マンを使ったのだが、はじめから英国政府は自信満々だった。蒸気機関車と鉄道の資材の手当などは、英国政府の手にかかれば二次的な手配にすぎない。「貧乏国の日本のために金を造ってやる」ことこそが彼らの主眼だったのだ。

このような英国政府の魂胆と指導により、上表で見る通り、1870年(明治3年)423日、ロンドンのデランジェ商会は同じくロンドンのシュローダー商会を通じて日本国債を発行し、事実上即日完売した。明治政府の目的は100%達成された。英国政府は面目を施した。

画像:本文とは関係ないが、信じられないような馬鹿が6例報告されている。ご参考まで。

 一方、秘密会談の英国側の出席者は、ハリー・パークス公使、ホレーシオ・ネルソン・レイの二人であった、と推察される。これに加えて通訳としてのアーネスト・サトウが出席していたかもしれない。日本側出席者に説明されたレイの肩書きは、「1854年から1861年まで上海で海関総税務所長、1861年から63年まで清帝国に任命されて太平天国対策のフロティーラ(小艦隊)の隊長であった」ことぐらいだったろうから、このレイは後ろだてのはっきりしない「流れ者の口入れ屋」にすぎない、と日本側出席者は感じたのかもしれない。

 ところがじつは、このレイはパークス公使の差し金で英国外務省から派遣されたバリバリの準外交官であり、技師・機材の提供権限のみならず、融資問題をも独自で決定できる権限を有する全権大使であった。また、パークスは日本側に説明しなかったのだが、背後に控えていたのは、当時世界の金融界でも名高いトップスターのエマイル・デランジェであった。英国側からすれば、極東の(極端に貧乏な)日本国のために欧州で金を集めるために「これ以上の強力な布陣は考えられない」完璧なお膳立てであった。こういう事情を予め日本側に詳しく説明しなかったのは、パークス公使の落ち度であり、これをもってして後日、パークスは本国外務省からきつく叱責されるのである。

画像:新橋ステンション
小林 清親
KOBAYASHI, Kiyochika 1847
1915
1881(明治14)年制作
木版

と記述されていることから見ても、この鉄道建設が英国政府による発案であったことは一目瞭然である。パークスが日本政府を説得したのである。そして、1869128日(洋暦)の日英秘密会談で鉄道敷設が決定された。その際の日本政府の交渉人は、

          右大臣  岩倉具視 
          大蔵卿  伊達宗城
          大蔵大輔 大隈重信
          大蔵少輔 伊藤博文

の四人であった、と推察される。このうち英語を話すのは伊藤博文だけであったため、実際には伊藤博文が日本側窓口となった。だから、伊藤博文がひとりで交渉を取り進め、他の三人は伊藤博文のいいなりになったのである。

また、のちに、

 昨年末に日本政府から、江戸京都間に鉄道を建設することに決定したとの知らせを受けた。建設を開始するのに資金不足で困っていたが、そのころ前中国駐在のHN・レイ氏(Horatio Nelson Lay)が日本訪間中で、鉄道予定線と関税収入を担保として、百万ポンドを日本政府に貸そうという提案が出された。政府はこの提案を受け入れ、レイ氏は英国へ帰り、以上の金額を調達し、必要な技師たちを雇うことになった。

  『パークス伝』高梨健吉、東洋文庫429、平凡社1984 P155

(なお、詳しい事情については『交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察』原田 勝正、東京大学出版会 1986第2章:移行期の交通・運輸事情18681891(明治元〜24)年 II 鉄道 を参照せよ。)