ペルリ提督から献上された蒸気機関車

引用2:『ペルリ提督 日本遠征記3』土屋喬雄、玉城肇訳 岩波文庫 1953

次に、文明開化の象徴とされる鉄道敷設につき調べておこう。なんといっても、新橋−横浜間鉄道が文明開化の幕を開けた、と理解されているし、灯台の敷設などと違ってそれは「動いた」し、江戸時代には考えつかなかった「大量輸送、迅速化」という文明の利器であったし、外国からの借入資金、つまり「国債」の第一号だったし、つまり、当時の日本人にとっては「未来を切り開く」ヴィジュアル・スコープの提供であった。

とはいえ、汽車の導入の一番手は、新橋−横浜の汽車ではなかった。

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   1854(嘉永7年)223日、模型ではありますが蒸気機関車の最初の試運転が横浜で開かれました。
   アメリカの使節ペリーが再度目の来航の時、33種類の珍しい土産物を幕府に贈った中に、最も問題となったのが汽車の模型と電信機でありました。

   ペリーと幕府の応接係が、神奈川に会見したのが1854(嘉永7年)210日、15日に土産物の数々を受取り、16日には横浜海岸の麦畑に、蒸気汽車模型の組立と、レールの敷設が行われ、これがいよいよ煙を吐いて動き出したのが223日(旧暦)の事でした。

   これを見物した幕府の役人達はただ唖然とするばかりで、その結論として紅毛人の魔法は恐るべきものがあるとしますが、これを真面目に見学したのが、韮山の代官江川太郎左衛門と、その門人数人であって、太郎左衛門の日記には、『蒸汽車試運転記』が詳細に記されています。それに依りますと、

      「麦畑の中六十間(約108メートル)ばかりの間を幾度も走り候」

と見えます。
   蒸気機関車の大きさは、現物を四分の一に縮めた雛形で、機関車だけの大きさが約3メートル、長さ約3.5メートル、これに上図にあるように炭水車と客車が連結されていました。模型一揃は、その後江戸城内に運ばれて、将軍の上覧に供せられ、三家諸侯も陪観したと云います。

画像ペリー提督が幕府に献上した蒸気車、瓦版

 これで、日本における蒸気機関車第一号がアメリカ製だったことが窺われました。実にアメリカはこの献上品の鉄道模型を手がかりとして、幕末維新期のどさくさに幕府から鉄道の利権を買取っていたのだという。利権の価額はどれほどだったのか、誰から免許をうけたのか、などという詳細はまだ分かっていないようですが。

 他方アメリカ公使デ・ロングは、戊辰内乱の火事場につけこんで、慶応三年十二月二十三日付で、徳川幕府から江戸横浜間の鉄道利権を、米国市民ボルトメン(じつは米国領事館員)の名で獲得していた。相当の金は出したのであろうが、昭和終戦後の軍部書類とひとしく、明徴はどこにも残されていない。この許可状をたねにして、米公使から明治政府に、その確認をきびしく要求してくる。これにたいして明治政府は日本国民に鉄道を経営させる方針であるといってつっぱねさせた陰の演出者は、これまたハリー・パークスであった。
          引用:服部之総 黒船前後・志士と経済 「明治の五十銭銀貨」)

明治維新のさいに主導権争いをした米国と英国の争いについては、結局上述のようにして決着がつき、いよいよかねてから腹案を練っていたハリー・パークス公使が表舞台に出て来た。

『ペルリ提督日本遠征記』には、

316日の記録のなかで、((3) P200/201

・・・・・・それを展覧するために、毎日精を出して荷を解き、整理した。日本の役人達も、あらゆる便宜を與へてくれた。日本の勞働者遠は、不良な天候を防ぐために種々の品物を覆ふ小舎を設け、又小さい機関車の圓周軌道を敷設するために少しばかりの平地が指定され、・・・・・・小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそつたのである。その装置は全部完備して居り、且、その客車は極めて巧に製作された凝つたものではあったが、非常に小さいので、六歳の子供をやっと進び得るだけであつた。けれども日本人は、それに乘らないと承知ができなかった。そして車の中に入ることができないので、屋根の上に乘った。圓を描いた軌道の上を一時間二十哩の速力で眞面目くさった一人の役人がその寛かな衣服を風にひらひらさせながらぐるぐる廻はつてゐるのを見るのは、少からず滑稽な光景であった。彼は烈しい好奇心で歯をむいて笑ひながら屋根の端しに必死にしがみついてゐたし、汽車が急速力で圓周の上を突進するときには、屋根にしがみっいてゐる彼の身體が一種の臆病笑ひで、痙攣的に震へるので、汽車の運動するのは何だか、極めて易々と動き突進する小さい機関車の力によると云ふよりも、寧ろ不安げな役人の且大な動きによつて起るもののやうに想はれたのである。

324日の記録の中で、((3) P230

・・・・・日本人は、小汽車の急速な運動を再び見て大いに喜んだ。委員附の書記の一人は、その車の上に乘ったが、その間機関手は給炭車の上に立って一方の手で釜の火を焚き、他ので小さい汽車を操縦し。日本人の群が周囲に集って、汽車がぐるぐると廻るのを飽くことなき喜びと驚きとをもって眺め、汽をならす毎に歓喜の叫びを抑へることができなかった。
 ・・・・・・・

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引用1

(ロシア人が船の上で見せた模型をのぞけば、)一番目はペリーが来航の際、献上品として1854(安政元)年313日(旧暦215日)横浜に陸揚げされた模型(機関車、炭水車、客車及レール等一式一組)であり、11日後の324日に幕府の横浜応接所裏の麦畑で 1周約60間(110m)の2呎ゲージの円状軌道が敷設され、試運転された。

画像:ペリーが徳川将軍に献上した蒸気機関車模型。本物の蒸気機関車の1/4サイズで、組立てて実際に石炭を焚くと約30kmのスピードで走る精巧なものだったといわれる。