18647

 デンビー号の七回目のそして最後のモービルの入港。26日に封鎖艦隊をなんとかすり抜けて出港。これがこの港から逃げ出した最後の封鎖ランナーであった。

186485

モービル湾の海戦。モービル港が閉鎖される。

この後、ガルベストンがメキシコ湾の連合国のただひとつ残った重要な港となった。18648月以降、殆ど毎週一隻のランナーがガルベストン港に入港した。

デンビー号はハバナとガルベストンの間を成功裡に合計6往復した。

1864103

 デランジェ男爵はアメリカ人マルガリーテ・マチルデ・スライデル(1842–1927)と結婚した。彼女は影響力のあるアメリカ人弁護士、ビジネスマンならびに政治家であるジョン・スライデル(1793–1871)の娘だった。デランジェと彼の妻は豊かなパリの16区に家を建てた。

186543

 南部の首都リッチモンドが陥落した。9日にはリーが降伏し、南北戦争は事実上終了した。

1865419日夕方

 リー南部陸軍総司令官がアポマトックスで降伏してから10日後、エイブラハム・リンカーンが暗殺されてから五日後、デンビー号は浅瀬に乗り上げた。それは、ハバナに向かって木綿を積み、封鎖している小艦隊をすり抜けようとしていたときであった。乗組員は舷側越しに200ベールの木綿を投げだして砂洲から離れようとしていた。投げ出された木綿梱包の大部分は封鎖艦隊から出た船が拾い上げた。デンビー号はガルベストン港の保護された海域へと戻り、九日後に封鎖を成功裡に突破してハバナへと向かった。

1865523-24

ガルベストン港に入ろうとして、デンビー号はバード・キーではげしく座礁した。デンビー号の乗組員達は彼らが見つかってしまったことを見て、自船のボートに乗り成功裡にボリヴァー半島の海岸に着いた。ガンボート・セミノール号の乗組員はこの封鎖ランナーに乗込み、船の書類を差し押さえてから火をつけた。

 デンビー号がバード・キーで座礁したまさにその朝、レアード造船所で建造された封鎖ランナー「ラーク号」が合衆国艦隊をくぐり抜けてガルベストン港に入港した。ラーク号の船長は、ボリヴァー半島から到着したばかりのデンビー号の乗組員を乗船させ、そして海上へと逃げ出した。これが連合国の港を出港した最後の封鎖ランナーとなった。

1870

 普仏戦争が勃発する直前、この家族はロンドンに引っ越しした。銀行の本店も同時にパリからロンドンに移った。デランジェはロンドンのピカデリー139番地、かつてバイロン伯爵が住んだ家に住んだ。ドイツ生れの男爵と彼の家族メンバー全員は英国市民となった。

186211

 ルイジアナ州のジョン・スライデルとヴァージニア州のジェイムズ・メーソンの二人は英国郵便船「トレント号」で捕縛されボストンの牢獄に収容されていたが、この日、釈放された。ジョン・スライデルはロンドンを経由してパリに到着。

1862年初め

 ジョン・スライデルは皇帝ナポレオン三世に拝謁し、連合国への肩入れ、連合国の独立承認、フランス海軍を派遣して合衆国による海上封鎖の解除、武器・弾薬の提供等を求めた。皇帝は鄭重に応対したものの好意的態度を見せず、後にはジョン・スライデルがフランスの造船所で建造した艦船の引渡を許可しなかった。

1862年初め

 ジョン・スライデルは連合国公使として金融業者フレデリック・エマイル・デランジェとパリで会合。会った途端に意気投合してしまったらしい。両者とも当時の政治面、金融面でのトップ・パーソンであり、高い品格と教養、とりわけ各自の使命にたいする深い情熱がこの二人を結び付けたものと諒解される。

 1862年以降、わずか3つの港、ウィルミントン、チャールストンおよびモービルが封鎖されずに残っており、75ないし100隻の封鎖ランナーが運行した。

1862年初め

 ジョン・スライデルの勧めに従い、フレデリック・エマイル・デランジェはルイジアナを訪問。ルイジアナ州ラプラース(ニュー・オーリンズ西方40km)の繁盛していたベル・ポイント・プランテーションで育ったスライデルの次女マルガリーテ・マチルデ・スライデル(1842–1927)と面会。彼女がヴィヴィアン・リーのような絶世の美女であったため、恋仲となった、と推察される。

棉花債券の時系列的展開

186397

サウス・カロライナ州チャールストン港口にあるモーリス島のワーグナー砦が激戦ののち、陥落。チャールストンとサムター要塞は連合軍の支配下に残ったが、チャールストン港は封鎖された。(1865217日チャールストンとサムター要塞から南軍が撤退した。)

18639

 18609月に竣工して英国内で就航していたデンビー号をユーロピアン・トレーディング・カンパニーが買取った。この会社は最近設立された会社であり、モービルの街の問屋であるH. O. Brewer Company、英国マンチェスターの銀行J. H. Schroeder and CompanyとパリのErlanger and Companyとの間で結成された合名会社であった。この買取りの目的は、デンビー号を中立国スペインの港であったハバナとアラバマ州モービル間に就航させることであった。1019日にリヴァプールから出港した。

18641

 デンビー号はキューバのハバナ港からアラバマ州モービルにむけて初航海を行った。モービル湾の入口にあるモーガン堡塁の近くで深い霧のため座礁。積荷を降ろしなんとかモービル港に入港。

1864619

 アラバマ号がシェルブール沖で合衆国船ケアサージ号によって撃沈される。

ニューヨーク・タイムズの記事ならびにその他の内容を、時系列的に整理すると次のようになる。

付記:

連合国軍歌Dixie

南北戦争前に Louisiana 州で流通した 10 ドル紙幣の裏に大きく dix (ten) と書かれてあったことからディキシー (南北戦争ごろ南部で流行した陽気な歌)という言葉が生まれた。

1862424

 合衆国海軍将官デヴィッド・ファラガットの艦隊は障害物を抜けて航路内に入り、各砦とニューオーリンズ市は降伏。

1862729

 英国バーケンヘッドのレアード造船所で秘密裏に造船されたアラバマ号(エンリカ号と称されていた)が出港。リヴァプールの棉花貿易商を通じて手配され造船された。

18629

 大統領リンカーンは18629月、奴隷解放宣言を発した(本宣言は翌18631月)

186212

最初の妻フローレンス・ルイーズ・オデット・ラフィット(1840–1931)と離婚した。彼女は元首相で銀行家ジャック・ラフィットの孫娘だった。

1861513

ヴィクトリア女王は「中立」を宣言

18615月から6

チェサピーク湾封鎖

186111

 南部諸州は「戦争になれば、英国が味方してくれる」と読み、186111月、英国政府にたいしアメリカ連合国を独立国として承認し加勢するように求める外交団をチャールストン港から封鎖ランナーで海上封鎖をくぐりぬけて送り出した。独立国として承認されるより前に事実上の連合国大使をロンドンとパリに送り込もうという大統領ディビスの腹だった。

1861118

外交団はキューバ海岸で合衆国艦船サン・ジャシント号に捕まってしまう。トレント号に乗り込んでいたメイソンとスライデルは捕捉され、ボストン港のフォート・ワレン監獄に収容されてしまった。(「トレント号事件」)。

1861412日早朝

 サウスカロライナ州チャールストンの港入口に位置するサムター要塞を守る北軍のロバート・アンダーソン少佐と、ジョンソン要塞に陣取るアメリカ連合国PGT・ボーリガード准将の指揮する南軍は砲撃戦を開始し、414日に北軍は降伏し、要塞は南軍に引き渡された。これが南北戦争の開始であった。

 このとき南軍が使用したライフル・カノン砲は、英国リヴァプールのFawcett Preston社が製造した最新鋭の12ポンド砲で、アメリカ生れの英国人でFraser-Trenholm会社のリヴァプール支店長チャールズ・プリオローが南カロライナ州に贈与したものであった。Fraser-Trenholmはその後、封鎖破りに専念することとなる。(CharlestonLiverpool間に封鎖破りの定期船を就航させた)

南北戦争全期間にわたる封鎖ランナーについては次を参照すること。Blockade runners of the American Civil War

画像:南北戦争前にルイジアナのフランス銀行Banque Des Citoyens De La Louisianeが私的に発行した10ドル紙幣 。フランス語で10を意味する"dix."が印刷されていたため、この紙幣は「ディキシー」と呼ばれた。そののち、合衆国南部が「ディキシーの国」として知られるようになった。

18631

 アメリカ連合国議会は、秘密裏に、有名なパリの金融家デランジェ商会の銀行家に、英ポンドあるいは仏フラン建てで総額1,500万ドルの連合国債券を引受する権限を与えた。

1863319

 デランジェ債券が欧州の五都市で発行された。ロンドン、リヴァプール、パリ、アムステルダムとフランクフルトであった。発行日は1863319日であり、総額は1,759,894ポンド(US$8,535,486)であった。債券の売り出し価格は額面の90%であり、(南部)連合国において連邦政府の所有する木綿で償還されることになっていた。

主としてこの棉花交換オプションがあったがゆえに、この債券はヒットした。1,500万ドルのオファーにたいして8,000万ドルもの注文が殺到した。欧州の投資家達はこの債券に群がった。そのなかには、後の英国首相ウイリアム・グラッドストーンやセシル卿(ロバート・セシル、第三代ソールズベリー侯爵)も含まれていた。

1863年半端以降は連合国の様相は次第に悲観的になったのだが、しかし、債券の価値は、欧州における連合国支援の極めて大胆なキャンペーンがなされたこともあり、驚くほど高値に維持された。

1861419

 エイブラハム・リンカーンは海上封鎖を宣言。ウィンフィールド・スコット将軍のアナコンダ計画というものであり、アメリカ連合国の海岸線3,500マイル (5,600 km)と、戦争勃発前は綿花の上位輸出港であるニューオーリンズモービル、および大西洋岸のリッチモンドチャールストンサバンナおよびウィルミントンを含む主要12の海港の閉鎖を求めた。この目的のために北軍は500隻の艦船を就役させ、南部諸港の海上封鎖を行ったが、海上封鎖を突破する封鎖破り船が続出した。この船を封鎖ランナーと呼ぶ。

封鎖ランナーは主にイギリスで新造され、船高が低く、喫水が浅く、高速に作られた。無煙炭を燃焼させる蒸気機関によって推進される外輪船ならば、速度17ノット (31 km/h)が期待できた。南部には十分な数の水夫と船長を集めるための人的資源とその種類の船を作る造船能力がなかったため、多くの封鎖ランナーはイギリスで建造され、イギリス人の士官と乗組員が乗り込んでいた。イギリスの個人投資家は封鎖ランナーに恐らく5千万ポンド(25千万米ドル、2006年価値で25億ドル)を遣った。船員の給与も高かった。イギリス海軍の予備役士官の場合、一航海で給与ボーナス合わせて数千ドル(金で)を稼ぎ、通常の水夫でも数百ドルを稼ぐことができた。彼らは闇夜に、500ないし700マイル(800ないし1,100 km)離れたイギリス領バミューダ諸島、バハマ諸島あるいはキューバのハバナとの行き来に挑戦した。貨物1トンあたり300ドルから1,000ドルが輸送料となった。1月に2回往復すれば、恐らく25万ドルの収入(人件費と経費合わせて8万ドル)が得られた。