デランジェ
         棉花債券」

北軍の艦隊がその大きさ、速度および経験度で成長するにつれて、多くの港が北軍の支配下に入った。1862年以降、わずか3つの港、ウィルミントン、チャールストンおよびモービルが封鎖されずに残っており、75ないし100隻の封鎖ランナーが運行した。チャールストンはジョン・A・ダールグレン提督の南大西洋封鎖戦隊によって1863年に封鎖された。モービル湾はデイビッド・ファラガット提督によって18648月に占領された。封鎖ランナーが捕獲される危険度が増していき、1861年と1862年には9回の出撃で1回捕獲されたのに対し、1863年と1864年は3回に1回の割りで捕獲された。戦争が終わるまでに、捕獲数は出撃回数の50%にも達し、輸入はじわじわと減っていった。およそ1,100隻の封鎖ランナーが捕獲され、他に300隻が破壊された。イギリスの投資家はその交易による利潤を再投資するという誤りをしばしば犯した。戦争が終わったときに使いようのない船舶と急速に価値の下がった綿花の山に直面した。帳尻から見れば、投資家の半数は利益を得、半数は損失を出した。

通常の船舶はあまりに鈍くて目につきやすく海軍からは逃れられなかった。それゆえに封鎖ランナーは主にイギリスで新造され、船高が低く、喫水が浅く、高速に作られた。無煙炭を燃焼させる蒸気機関によって推進される外輪船ならば、速度17ノット (31 km/h)が期待できた。南部には十分な数の水夫と船長を集めるための人的資源とその種類の船を作る造船能力がなかったため、多くの封鎖ランナーはイギリスで建造され、イギリス人の士官と乗組員が乗り込んでいた。イギリスの個人投資家は封鎖ランナーに恐らく5千万ポンド(25千万米ドル、2006年価値で25億ドル)を遣った。船員の給与も高かった。イギリス海軍の予備役士官の場合、一航海で給与ボーナス合わせて数千ドル(金で)を稼ぎ、通常の水夫でも数百ドルを稼ぐことができた。彼らは闇夜に、500ないし700マイル(800ないし1,100 km)離れたイギリス領バミューダ諸島、バハマ諸島あるいはキューバのハバナとの行き来に挑戦した。船には綿花、テレビン油およびタバコのような輸出品、ライフル銃、薬品、ブランディ、下着およびコーヒーのような輸入品を数百トンの凝縮され高付加価値の貨物として運んだ。貨物1トンあたり300ドルから1,000ドルが輸送料となった。1月に2回往復すれば、恐らく25万ドルの収入(人件費と経費合わせて8万ドル)が得られた。

翻訳者による画像:現在のRoyal Marines(海兵隊)

翻訳者による画像:棉花

付属資料1

北軍による海上封鎖

北軍による海上封鎖(英:Union blockade)は、南北戦争1861から1865の海軍作戦行動のことであり、アメリカ連合国への貿易製品、物資および武器の出入りを妨害することを目論んで、大西洋メキシコ湾の連合国海岸の封鎖をアメリカ海軍が大々的に継続したものである。封鎖を抜けようとした船舶は封鎖ランナーと呼ばれ、大半が新造で貨物積載量は少なく高速航行ができた。これらの船舶はイギリスによって操船され(イギリス海軍の予備役にある士官を使った)、イギリスの供給者が供給基地としたキューバハバナバハマナッソーおよびバミューダの中立港と南軍が支配している港との間で運行された。

   デランジェ債券の額面は固定されていたが、債券の実際の現金価値は連合国それ自身の運命によって変化したが、通常は下降傾向であった。もともとの発行日から二週間以内に債券の現金価格は額面の87%に下落した。そこでデランジェ商会は秘密裏に価格維持のための債券買い付けを開始した。1863年半端以降は連合国の様相は次第に悲観的になったのだが、しかし、債券の価値は、欧州における連合国支援の極めて大胆なキャンペーンがなされたこともあり、驚くほど高値に維持された。ジェームズ・メイソンのような代理店が著しく効果的な噂を流し、戦争がどのように終ろうともデランジェ債券は必ず支払われる、とした。リヴァプールのアメリカ領事であったトーマス・ダッドリーは、デンビー号(翻訳者注:「デンビー」はリヴァプール南西近郊の町の名前)が封鎖ランナーに改造されたことを報告し、連合国の恥知らずな行為とこの地区の商人の素朴さに驚いた。ダッドレーは国務長官スワードに次のように報告した。「実に奇妙なことだが、当地の人々は反逆者達を助け、この債券をひきとったり購入したりしても、もし事態が悪くなって北部諸州が勝ったら、アメリカ合衆国政府が彼らの所有する債券を支払ってくれる、と考えているのです」。

デランジェ棉花債券

原典:The Erlanger Cotton Loan

付属資料2

The Erlanger Loan デランジェ・ローン

1863318日、南部連合はデランジェ商会を通じて棉花債1,500万ドルを売り出した。デランジェ商会の売値は額面の90%であったが、買値は77%で、且つデランジェ商会は5%の口銭を入手していた。18654月の南北戦争終結までにデランジェ商会は全額を売り切った。戦争終結とともに、この国債は無価値となり、この債券を購入した投資家の全損となった。南部連合がこの国債で入手した金額は600万ドルであった。

戦争前、アメリカは英国にたいする最大の棉花供給國であったため、英国は終始中立を守り、棉花仕入れ先を他国に切換えた。戦争終結が間近になると、黒人が棉花の栽培を止めたため、国債の担保物件も消失した。

封鎖ランナーは大きな比率で北軍艦船の網をくぐり抜けたが、海上封鎖が完成してくると、海軍の哨戒線を破るに最も適した船のタイプは、小さく軽量で、喫水の浅いものだった。これは封鎖突破には適していたが、南部が最も必要とする重い武器、金属などの資材を大量に運ぶには適していなかった。南部の援助を成功させるためには繰り返し航海する必要があったが、捕獲や沈没の危険性も増した。

翻訳者による画像:映画「アナコンダ」(1997年)監督ルイス・ロッサから文化人類学者ケイル(エリック・ストルツ)

アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは1861419海上封鎖を宣言した。その戦略は、ウィンフィールド・スコット将軍のアナコンダ計画の一部であり、アメリカ連合国の海岸線3,500マイル (5,600 km)と、戦争勃発前は綿花の上位輸出港であるニューオーリンズモービル、および大西洋岸のリッチモンドチャールストンサバンナおよびウィルミントンを含む主要12の海港の閉鎖を求めた。この目的のために北軍は500隻の艦船を就役させ、戦争遂行中に約1,500隻の封鎖ランナーを破壊または捕獲したが、それでも封鎖ランナーは6隻のうち5隻の割合で封鎖を突破する事に成功していた。ただし封鎖ランナーはその性格上通常の貨物量からみれば少量の貨物しか運べなかった。このためアメリカ連合国の綿花輸出量は95%減少し、戦前3年間に1千万俵であったものが、封鎖期間中は丁度50万俵となった。

画像南部連邦の封鎖ランナー「デンビー号」の絵。この船は欧州貿易会社所属であり、1864729日アラバマ州モービル港を棉花を積載して出港したところを示す。

あきらかにこれは事実に反する。北部諸州は連合国の証書を支払ったり通貨を受け取ったりはしない。そして戦後直ちにその方針を成文化して法律にしてしまった。1868年に裁可されたアメリカ合衆国憲法の修正14條の規定の一つは、「アメリカ合衆国もどの州も、アメリカ合衆国に対して反乱あるいは反抗するのに使われた債務や債務証書を引受けたり支払うことはない。・・・・そのようなすべての債務、債券や請求は違法であり無効である」。だが、戦争終結時に棉花債券を所有していた人達は投資額を失ったのだが、このデランジェ債券は連合国をして欧州で何百万ドルの借金を可能にし、この金は船艦の建造、弾薬の購入や糧食の入手に使われ、これらの全てはデンビー号のような封鎖ランナーによって南部の港に持ち込まれた。

Sources: Steven R. Wise, Lifeline of the Confederacy and the Macmillan Information Now Encyclopedia, The Confederacy

画像:現金の少なかった南部では、いくつかの棉花債券が共通通貨であった。このミシシッピー州発行の1ドル「棉花保証書」が約束するのは、保持者にたいし、棉花と交換して将来現金支払を約束するものであった。

画像:The Erlanger Cotton Loan デランジェ棉花債券
デランジェ債券は額面が500ポンドあるいは12,500フランスフランであった。
債券の時価は南部連合の運命とともに浮動した。通常は下降傾向をしめした。

翻訳:

パリのエマイル・デランジェ商会とは、ドイツのフランクフルト生れのユダヤ系商人、フレデリック・エマイル・デランジェ男爵が、1864年パリに設立した投融資銀行で、その当時、主としてフランスの資本をアメリカ南部の鉄道建設と土地開発に振り向ける役割をした。有名なのは南北戦争の間に発行したThe Erlanger Cotton Loanで、この債券が南部のアメリカ連合国の事実上の通貨となった。

南北戦争(1861-1865)の後半、南部連合の経済を動かしていたのはパリのデランジェ商会が発行した所謂デランジェ債券(またの名を「棉花債券」)であった。南部連合国の貨幣は欧州では無価値だったので、デランジェの棉花債券が南部連合にとっての事実上の貨幣となった。南部諸州はこれを使って、船舶、物資、戦争必需品を海外から買い付けた。実際問題として、その将軍達が敗北に敗北を重ねていたときでも、デランジェ債券が連合国にすくなくとも部分的な経済流動性を与えた。

  デランジェ債券は欧州の五都市で発行された。ロンドン、リヴァプール、パリ、アムステルダムとフランクフルトであった。発行日は1863319日であり、総額は1,759,894ポンド(US$8,535,486)であった。債券の売り出し価格は額面の90%であり、(南部)連合国において連邦政府の所有する木綿で償還されることになっていた。この最後の項が封鎖実行を刺激するに重大なきっかけとなった。なんとなれば、エルランジェ債券の所有者はこれを現実の商品に変えるためには、北部連合の海上封鎖を破る必要があったからである。