次の三年間、デンビー号はリヴァプールとウエールズの海岸都市リール間を航海した。そして、新聞報道によれば、デンビー号は「とても速い船であるとして好意的に受け止められた」。18639月、デンビー号をユーロピアン・トレーディング・カンパニーが買取った。この会社はデンビー号を中立国スペインの港であったハバナとアラバマ州モービル間に就航させようと計画していた。この会社は最近設立された会社であり、モービルの街の問屋であるH. O. Brewer Company、英国マンチェスターの銀行J. H. Schroeder and CompanyとパリのErlanger and Companyとの間で結成された合名会社であった。

 同じ頃、デンビー号はリヴァプールのアメリカ領事トーマス・ダドリーの目にとまった。英国中の港で、アメリカの外交官が封鎖突破船あるいは連合国の戦艦に改造されそうな船につき監視をつづけていた。全員がこのような船につき詳細な記録をとり、後で同定できるように写真を撮った。外交官によって集められた記録はアメリカ国務省に送られ、さらに、封鎖艦隊のなかで配布されるべく海軍に送付された。

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 ダドリー領事はこのパドル蒸気船の詳細な物理的説明書(左図)を作成し、甲板上の装具、索具、色彩について注意深く記録した。デンビー号の乗組員は、船長、航海士二人、機関士二人、水夫六名、火夫七名、コック一名、ボーイ一名である、とこの領事は記録した。最後にダドリーはデンビー号が18631019日にリヴァプールから出港したことを記録した。

とても速い船

   デンビー号の肋材は1860614日に組立てられ、8月に進水し、926日水曜日に試験航行を行った。二回航行し、そのうち一回は風向と潮流に順向で、一回は逆向であった。まとめると、二回の航海の「蒸気速度」は13.7ノットであり、その際、蒸気船のパドル側輪は分速38-40回転した。

デンビー号を注文したのはマンチェスターのロバート・ガードナー氏だ。(リヴァプールの対岸)バーケンヘッドにあるジョン・レアード造船所は1860128日に最初の引合いを受けた。詳細な仕様と支払条件について往復があったのち、515日にガードナー氏が注文し、翌日この造船所はこの注文を受けた。買付総額10,150ポンドは2,030ポンドずつの五回均等払いであり、初回の支払は519日に行われた。その後の支払は、肋材の組立時、装甲時、進水時、完成時におこなわれることとなっていた。

翻訳者注:アラバマ号事件
  アラバマ号は,アメリカ南北戦争に際して中立の地位にあったイギリスの民間造船所(レアード)に,南軍が発注し,1862年に建造された。建造中におけるアメリカ=北軍の警告と抗議にもかかわらず,建造後同船はポルトガル領アゾレス諸島で武器,弾薬,兵員の供給を受け,64年に撃沈されるまで北軍に属する商船の捕獲に従事し,北軍に多大の損害を与えた。戦後,アメリカの損害賠償請求により,71年の英米のワシントン条約によって仲裁裁判に付せられ,翌72年イギリスの 中立義務違反が認定された。

とても速い船

原典:"An Extremely Fast Boat"

翻訳:

翻訳者による画像:©2013 Google。リヴァプールの対岸にあるバーケンヘッド

画像John Laird, Sons & Co. shipyard at Birkenhead, near Liverpool
  リヴァプールの近くのバーケンヘッドにあるジョン・レアード造船所はとても有名で、アメリカ南北戦争の際、もっとも注目すべき船の幾つかを造った。1863年にレアードが造ったのは、二隻の旋回砲塔を備えた遠洋航海用の装甲艦で、これらは北部諸州の艦艇のどれよりも勝れていた。中立を常に意識しつつ、またアラバマ号事件で既に恥ずかしい思いをした英国政府は船を捕まえては、英国海軍に挑発した。1857年の外観から、デンビー号の建設中の造船所はどのように見えたかを推察できる。