レイ氏によれば、「換言すれば、投資家の金のほぼ五分の一が仲介者としてのデランジェ・シンジケートによって吸い取られた」。「この債券への買い付け要望は莫大ではあったが、国務長官ユダ・ベンジャミンはこの取引を受諾した。というのも、これが欧州の資本家達をそそのかし、財政投資させ、南部連合の勝利に繋がることになる、と考えたからだ」

テキサスA&M大学の海事考古学研究所によれば、いわゆるデランジェ・ローンは、1863319日、欧州の5都市、ロンドン、リバプール、パリ、アムステルダムとフランクフルトで発行され、850万ドル以上を売り上げた。この債券は最初はうまく行って、90%のオファー価格から値をあげ、市場取引価格で95%に達した。

南部連合国にとって不運なことだったが、初期の債券買付者は申込日に購入価格の15%だけを納付する必要があるだけで、残りについては18634月後半の清算時までは払い込む必要がなかった。

欧州における合衆国の外交官達は、この債券の申込日と翌月の清算日との間の期間をうまく利用し、この債券が支払われるかどうかという疑問を植え付けた。

清算日の直前、ロンドンの新聞紙上でうわさ話が流れた。何年も前のことだが、南部連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスがミシシッピー州出身の合衆国上院議員であったとき、彼はほとんどが欧州人によって買取られていたミシシッピー州債券の債務不履行を公に弁護したことがある、という噂だった。

翻訳者による画像:連合国大統領ジェファーソン・デイビス

「だが、通常の債券のように発行国の信用や預金のみによって裏打ちされているものとは異なり、所持人が選択すれば、デランジェ証書はあらかじめ記載された数量の棉花の引換券と変換することができた」とフィル・レイ氏が「ディスユニオン」に書く。

連合国の通貨が戦争のその時点の欧州においてほとんど無価値だったので、これは重要なことだった。

棉花債券の換算率は、その当時48セントだった商品(木綿)の市場価格とは無関係に、1ポンドにつき12セントに固定されていた。おまけにこの債券は年利7%の利息がつくのであった。

レイ氏(Mr. Leigh)によれば、「言い方を換えると、1,000英ポンドの債券を購入した人は、これを木綿500lbs梱(ベール)80個と交換することが出来た。これはほぼ4,000英ポンドの価値に相当した」。「もし、木綿の値段が上昇し続けるならば、潜在的な債券の実質価値は歩調をそろえて上昇するのだ。欧州の投資家達はこの債券に群がった。そのなかには、後の英国首相ウイリアム・グラッドストーンやセシル卿(ロバート・セシル、第三代ソールズベリー侯爵)も含まれていた」。

しかし、この債券がこのように有利な報酬の可能性を約束したことには、健全な理由があった。すなわち、木綿は南部連合国のなかに存在し、その南部連合国は、連邦政府海軍の海上封鎖による支配下にあって、しかもどんどん強く締め上げられていたからである。

「棉花債券:
     1863
年に20世紀型の金融」

Disunionによれば、デランジェ商会は狼狽し、連合国が振込済みの資金のいくらかを公開市場で債券を購入に使い、債券価格を安定させることに同意しなければ、オファーをキャンセルする――口銭は保証されなければならないが――と脅かした」。

 連合国は債券収益のうち彼らの取り分を武器の購入と洋上の装甲艦の前金に使った。装甲艦は戦争終結前に引渡されることはなかった。

木綿債券の価格は戦争の残余期間の大部分、驚くべき高値で推移した。多分、部分的にだが、ジェームズ・メイソンのような連合国の代理人が、(テキサスA&M大学の海事考古学研究所報告によれば)、どのような結果になろうともこの債券は支払われるという噂を広めたせいだろう。

リヴァプール駐在の合衆国領事であったトーマス・ダッドレーが、木綿債券についてのこの地方の商人達の欺されやすさについて書き記している。:彼は国務長官ウイリアム・スワードに報告するに、「まったく奇妙に見えるが、反逆者を助け、こういう債券を取得、購入した当地のこの人達は、今後悪い事態が発生して合衆国が復権しても、合衆国政府は彼らのもっている債券類の支払に応じる、と考えている」。

勿論、これは起らなかった。1868年に批准された(合衆国憲法)改正第14條の規定の一つは、合衆国は合衆国にたいしての暴動や反乱を助けることに使われた債務や債務関係を引受けたり支払ったりすることを禁止している。

1865年春、戦争が終結したとき、木綿債券はほぼ10セントの価値であった。だが、HT.com.の報告によれば、南部は戦争全体についての債務問題の規定にたいし支払をした。

デランジェ商会はベストをつくした関係者のように思われる。債券取引で作った約300万ドルに加えて、欧州トレーディング会社も幾分成功した。彼らの主たる船は、18655月に座礁するまでに、モービル港とハヴァナ港の間を73航海完了した。

(Above: Erlanger Cotton Bond, issued in 1863.)

翻訳者による画像1860年代初頭、ジョージア州サバンナ近郊で綿花を収穫する奴隷家族 (© Bettmann/CORBIS)

「船賃をとったうえで、この会社の船は木綿を引き取り、合衆国の戦艦をくぐり抜けてキューバに届けた」とレイ氏は述べる。「だが、このサービスは安くはなかった。だから、少数の金持ちの投資家達がこれを利用する一方で、大多数は、南部連合国が勝利するのを期待しつつ、別の道を歩かなければならなかった。結果として、この債券の市場価格は南部連合軍の成功と不成功を映して浮動した」。

だが、主としてこの棉花交換オプションがあったがゆえに、この債券はヒットした。

1,500万ドルのオファーにたいして8,000万ドルもの注文が殺到した。

しかし、デランジェが知っていたことだが、連合国は現金が不足してにっちもさっちもいかない状態だった。デランジェ商会は5%の口銭を稼ぐばかりではなく、この債券を額面の77%で買い付け、初回発行分を額面の90%で再販した。

翻訳:

最近、種々の歴史家、大学人、その他の個人など、戦争の特異な面に精通する人達によって執筆されている「内輪もめ」という連載記事が、1863年アメリカ連合国により発行された財政証書である「棉花債券」という独創的な概念に照明をあてている。

1863年の1月、アメリカ連合国議会は、秘密裏に、有名なパリの金融家デランジェ商会の銀行家に、英ポンドあるいは仏フラン建てで総額1,500万ドルの連合国債券を引受する権限を与えた。

ニューヨーク・タイムズの連載記事「内輪もめ」から「棉花債券:1863年に20世紀型の金融」

原典:Cotton bonds: 20th century finance in 1863

経済歴史協会のEH.netによれば、投資家達は南部連合国に存在する棉花を引き取らなければならなかった。

債券を(棉花現物と)交換するには、連合国当局の責任は「航行可能な河川あるいは鉄道の10マイル地点」内で棉花梱包を引渡せばよいだけで、新しい荷主が最終目的地までの輸送を手配しなければならなかった、とレイ氏は記述する。

つねに野心的な経営体であるデランジェ商会は、これを好機と見て、債券保有者達に封鎖突破線をほんのちょっぴり越えさせる欧州トレーディング会社を設立しその機能を彼らに提供した。

翻訳者による画像:アメリカ連合国の地図、1861年~1865年。赤い部分は領有を主張したが実効支配できなかった部分(ケンタッキー州とミズーリ州の分離主義者政府など)。またウェストバージニア州の脱退は反映されていない。

翻訳者による画像:収穫期の綿

南部連合の封鎖ランナー(突破)船「デンビー号」の絵。欧州トレーディング・カンパニー所属のこの船が棉花を積載し、1864729日アラバマ州モービル港を出港するのを示す。

翻訳者による画像:北軍による海上封鎖の風刺画。
北軍総司令官ウィンフィールド・スコットの立案した、ミシシッピ川、大西洋、メキシコ湾の主要な港を抑えて南部を封鎖する「アナコンダ作戦」の一部をなす。