国債第1
1869
12月の契約の成立(2)

 つまり、国債発行には国債未消化などのリスクが伴うが、デランジェ商会は、僅か3%のリスク・マネーで国債の発行に踏み切った。リスク・マネーとは、国債発行体がもつ社会的信用の裏返しとして発行体が収得するものである。国債の購入者は、日本国を信用して国債の購入を決心したのではなく、デランジェ商会の社会的信用に基づいて購入したのである。デランジェ商会の社会的信用がなかった場合、国債は成立しなかった。すなわち、リスク・マネーとは、借款者(国)と国債購入者との関係を緊密・円滑化するために借款者(国)が支払わなければならない口銭なのである。ひらたく言えば、外国の商品を直接輸入することのできない需要家が商品の輸入を商社経由とするとき、商社に支払う「口銭」のようなものである。

2-B 融資金の調達

 英国へ帰国後、ホレーシオ・ネルソン・レーは英国政府と相談し、英国政府がその力量を見込んで倫敦に呼び寄せたばかりのエマイル・デランジェに依頼して国債の発行による資金調達を行った。

 注:ホレーシオ・ネルソン・レーは186311月清国から帰国したのち、デランジェ商会に勤務して同社の倫敦駐在員として英国政府との連絡にあたっていた可能性が大きい。(「デランジェ商会による日本国債の発行」のなかのホレーシオ・ネルソン・レーの項を参照せよ。

 英国政府、エマイル・デランジェ、レーの三者は契約に先立ち、予め作成しておいた原案通り、日本国債の公募を利率9%で行った。日本側には知らされていなかったが、12%9%との差額3%はこの国債の発行体(引受け元)であるデランジェ商会並びにホレーシオ・ネルソン・レーの口銭(国債発行のリスク・マネー)として予定されていた。このリスク・マネーは当時の金融債発行体の口銭としては「普通」というか、むしろ慎ましい金額であった。(棉花債券でのデランジェ商会の口銭5%と比較せよ)。まったく問題がない。

画像1870年頃の英国銀行とロイヤル・エクスチェンジ
左側が英国銀行、中央がロイヤル・エクスチェンジ、右はグローブ保険会社。
  ロイヤル・エクスチェンジはSir William Titeの設計によるもので、18441028日、ヴィクトリア女王によって開館した。前庭に立つのは、Sir Francis Chantrey作のウエリントン公爵像

注:ウエリントン公爵
  初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー元帥(英: Field Marshal Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769429 - 1852914)は、イギリスの軍人、政治家、貴族。ナポレオン戦争で軍功を重ね、最終的に1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破った軍人として知られる。軍人としての最終階級は元帥。

2. ホレーシオ・ネルソン・レーによる資金調達

ホレーシオ・ネルソン・レーはこの契約に基づいて忠実に契約を履行した。


2-A 鉄道建設の手配

 英国への帰途、セイロンへ立寄り、鉄道建設の専門家エドモンド・モレルを雇用し、日本への派遣を命令した。エドモンド・モレルは、翌年1870423日、横浜に到着し、25日から測量を開始した。鉄道建設は「第2約定書」に記載されているとおり、すべてホレーシオ・ネルソン・レーの個人事業として取り進められる契約内容だったからである。

 セイロンの鉄道事情については別項を参照願いたい。

画像:ジョン・エヴァレット・ミレイ 「ハートが切り札」1872 ロンドン、テイト・ギャラリー
その当時の倫敦の上流階級市民生活を示す。とても優雅であった。

写真:現在のロイヤル・エクスチェンジ。左はその後改築された英国銀行

写真:第一号国債事件の時系列的メモ 

2-C 国債の発行

 1870423日、日本国国債第一号は、発行銀行をデランジェ商会(ロンドン本社)とし、発売窓口銀行をシュローダー商会として応募された。

 未開国の国債などというものは、国の信用がないから、よほど利率が高くなければ売れないものだが、この場合は驚異的な低い利率(9%p.a.)で即日完売したようだ。デランジェ商会の赫々たる名声と信用のお蔭であった。ここに明治政府と英国政府の目標は達成された。

  左の写真は、当時のロイヤル・エクスチェンジである。日本国国債は発行されると同時にこのロイヤル・エクスチェンジで取引が始まり、日々の相場価格が決定された。この相場価格の維持管理も国債発行体の仕事であった。

画像:現在のスリランカ、キャンディの聖跡、仏歯寺。最後の宮廷、シンハラ宮殿のなかにあり、世界遺産。

画像:キャンディの仏歯寺、セイロン。1870418
ニコラス・シュヴァリエ(1828-1902)
鉛筆画

仏歯寺(Dalada Maligawa)はこの島ではもっとも崇拝される寺院である。この寺院には、内部の聖壇に一つの重要な仏教徒の聖遺物がおかれているからで、それは、仏陀自身の歯である。信じられているところでは、この歯は紀元前6世紀に仏陀の葬式の積み薪の焔のなかから持ち出されたされたもので、紀元4世紀に、一人の姫君の髪のなかに隠されて、スリランカにこっそり持ち込まれ保管された。これはもっとも重要な仏陀の聖遺骨の一つであるため、歴代の王様とともにいろいろの首都を転々とし、最後に16世紀になって、キャンディに安置された。元々の聖骨箱の小さな残骸と現在の構造物は大部分が17世紀後半のものである。この聖骨は有名な「8月の月(Esala Perahara)」フェスティバルの間、象の背中に乗せた小箱のなかで行進する。行列に従うのは、伝統的な踊り子達と族長達で、彼らは古代キャンディ王国王の華美な盛装とドレスを身にまとっている

3-D 70万ポンドの倫敦東洋銀行への振込

 なお、レイは明治政府との契約履行のため、国債発行に先立ち、70万ポンドを1870331日に倫敦東洋銀行に振り込んでいる。(187063日付レー書簡を参照せよ)

 かくして、レイの契約遂行状況には一点の落ち度も見受けられないことがわかった。