現代の世界でこういう振舞に及ぶ男は、「気違い」か「馬鹿」ですね。筆者は伊藤博文を「馬鹿」だと断定します。約束事を破ること、すなわち「破談」は、約束を破った人間の社会的信用を傷つけるばかりか、巨額の賠償金につながるからです。

 こういう一方的な振舞に及ぶ彼には、なにかこう、一口では言えない、鬱屈した心があるのでしょう。「欧米の列強は、人を欺すことで利益を追求してきた。この汚い癖が早くも今回現われた。日本国は英国の餌食にされかけた」、とこう思い込んだのですね。

 彼は、大学はおろかろくな教育も受けていなかった。松下村塾に出席したと言いますが、軒先で吉田松陰の話を立ち聞きした程度で、素養もなにもありません。考えるよりも先に手が出るほうで、人の話をじっと聞いて理解し、筋道立てて理屈立てするという姿勢がまったくありません。

 喧嘩というのは先に手を出したもの勝ちだ。履いていた下駄を脱ぎざま、その下駄で相手の横面を張り飛ばしたほうが「勝ち」、と考える性格なのです。

 今回の喧嘩でも、思い込んだら命懸けの伊藤博文は、先に下駄を脱いで、脱いだ下駄でハリー・パークスの横面をひっぱたいたのです。清国の牢獄に収監されたときも、こんな酷い扱いを受けたことがなかったパークスは「呆気にとられた」。喧嘩に応じるより先に降参したのです。

3-B 契約破談と国債買上の申し入れ

 こういう経緯で明治政府は翌日、英国公使に事前通達したうえで、レーに対し、破談、あるいは、国債買上の申し入れを飛脚便で発送した。

 契約というものは、必ず、相互信頼の下に約束されるもので、従い、契約書にはその相互信頼の証として双方が署名して契約書になるのです。

 契約遂行の過程で疑義があれば、まず契約相手と話し合いを行うものであります。

伊藤博文は話し合いはおろか、「レー或は同人の名代人不日來着候へば、為引合一切此方に應接可仕儀を相拒候事、彼の奸謀を防禦するの一策と奉存候に付、云々」と称して、面会をも拒否することがレーの奸計に乗せられない最上策だと考えた。

 日本国国債第1号が1870423日にロンドンで発行されたとのニュースはすんなりとは日本に伝わらず、約一ヶ月後の5月下旬にはロンドンの新聞が到着していたはずだが、明治政府首脳の耳には入らず、レーからの明治政府への通知もなかった。

 さらに半月が経過した時点、6月上旬、伊藤博文が十一番館オリエンタル・バンク支店長ジョン・ロバートソンと会合したところ、ロンドンで「日本国債第一号」が発行されたことを知り、国債利率が9%であることを知った。

 このニュースに接し、伊藤博文が激昂した。

 その理由として伊藤博文は彼の上司である大蔵大輔大隈重信に宛てた上申書(旧暦)523日付で、左のようにのべている。

3. 伊藤博文の短慮による契約の破綻

3-A 伊藤博文の激怒

 当時は海外電信が開通しておらず、多分上海までは開通していたと思われるが、長﨑には到達していなかった。従って、1870年いっぱいの欧州との通信は従来通り郵便船、あるいは上海からの電信文郵送に頼らざるをえなかったことを頭に入れておこう。

画像:『伊藤博文伝』上 春畝公追頌会 (1940) P494

画像:クエンティン・マサイス
《金貸しとその妻》1514年、
ルーヴル美術館 
一部改変

 こういう内容に纏められよう。

1. レーが我々に話したところによると、レーの親友で富豪の人物がいるので、その男から借りる積りだ、ということだった。

2. ところが、実は、レーは添付する新聞記事でお分かり頂けるように、国債を発行し、公募した。

3. しかも、国債の利率は予め取り決められるわけがないにもかかわらず、我国とは12歩で取り決め、国債の利率は勝手に9歩と決め、レーが差額をポケットに入れた。

4. この行為はコミッション・エージェントとしてのレーの役割を逸脱している。

5. 本件については英国公使も証人として出席していたのだから、言い逃れはできないはずだ。

・・・・こう伊藤博文は主張している。

18706月の破談

画像:(『伊藤博文伝』上 春畝公追頌会 (1940) P494

画像クロード・モネ「印象-日の出」1872 マルモッタン美術館Musée Marmottan Monet

印象派の名前の由来となった絵画です。(1985年この美術館に強盗が入ってこの絵もひき裂かれた歴史があるようです)。普仏戦争終了後一年目、伊藤博文が「猿」になってから二年目に描かれた、と覚えておきましょう。

 現在私たちは英国流のビジネス作法で商いを取り進めているものだから、私たちは伊藤博文がどんな間違いを犯してしまったか、よく理解できる。


1. 金の貸し主についてだが、レーにとっては一人の金満家から金を借りるのであるから契約違反にあたらない。(金満家とは、フレデリック・エマイル・デランジェなのだが、レーが誰から借りるかは、契約が「一任契約」であるから、契約書に記載しておく義務はない)。

2. レーの親友である金満家がどのような手段で金をつくるかは事前の協議事項ではない。金の入手方法につき禁止項目があれば、契約書に記載しておくべきである。契約書に記載していない事項につき、借り主が自分の意中にあった(かもしれない)希望を事後になって主張することには効力がない。

3. 契約書に記載してある利率は12歩である。貸し主が彼の個人的信用のもとにどのような利率で金を調達しようと、それは貸し主の個人的な信用問題であり、借り主とは無関係だ。

4. 明治政府は「命令書」を手交したから、レーは明治政府のコミッション・エージェントである、という主張は無効である。「命令書」が「業務委託書」であるならば、レーは「受託書」を発行しているはずだが、その形跡はない。「命令書」は天皇が日本側交渉担当者にたいして発行する命令書である、と理解すべきだ。一歩譲って「命令書」が「業務委託書」であると理解するにしても、業務の対価が記載されていない「業務委託書」は「委託書」を構成しない。

5. 英国公使は確かに証人として列席していた。しかし、彼の見解は上記1.2.3.4.と同一である。

画像1870年当時の英国海底ケーブル網
  1871年(明治4)にデンマークの大北電信会社によって敷設された長崎~上海間と長崎~ウラジオストック間を結ぶ海底ケーブルによって日本の国際通信が始まった。長﨑-東京間に回線が繋がったのは1873年である。