さて本文に戻るが、

伊藤博文はさらに引き続いて、622日には、破談を申し入れるための手立てとして、オリエンタル・バンクを日本政府の代理人とする旨の委任状をオリエンタル・バンク横浜に届け、(つまり、オリエンタル・バンク本店がレーにロンドンで面会して、破談にする旨伝えさせる目的)、引き続き、629日にはオリエンタル・バンクに委任替えする旨の命令書を発行し、レイ借款の破棄宣言を行った。

 つまり、523日からかぞえて、丁度一ヶ月で、伊藤博文は契約の一方的なキャンセルを日本政府の意思として公開した。

 この一連の伊藤博文の行動を詳細に調べると、「契約相手と相談するとか、交渉するとか」いう雰囲気がまったくありません。事実の真偽を吟味する姿勢もありません。借り主にとって不服となる諸点を精査して相手に是正をもとめる姿勢もありません。思い込んだら、命懸けなのです。先に手を出すのです。「デランジェ商会? わしは知らん(デラン)ジェ」、ゴツン、という調子ですね。

 これは明らかに「馬鹿」です。今現在我々が暮らしている民主主義の世界のルールに反しています。「豚箱にぶち込まれて当然」の馬鹿です。

画像:『ビゴー素描コレクション』2 芳賀徹他、岩波書店 1989 巻1
『トバエ』4号 1887年(明治20年)41

19 カドリーユは四人が組になって踊るダンス。
 シアンキビク仏公使(左)と伊藤博文を背負ったベルヘン独公使。そして女性二人の四人が踊る。伊藤(日本)はカドリーユのメンバーの員数外。ドイツにへばりついて、国際的には「赤ん坊の弧児」といった脆弱な立場に日本がいることを諷刺している。

注:当時のドイツ特命全権公使はテオドール・ホレーベン(Theodor von Holleben)。ベルヘンではない。

 日本のなかだけなら、この事態は伊藤博文の一人勝ちだったのでしょうが、理性の発達した西欧では、彼の行動と論理はまったく受け入れられませんでした。この結果、伊藤博文はひた隠しにしましたが、彼は酷い目に会うのです。彼は英国からきついしっぺ返しを受けることになりました。その結果が巡り巡って第二次大戦による敗戦につながっているのですから、我々はテロリスト伊藤博文の短慮(テロリスト気質)を喜ぶことは出来ません。東条英機を絞首台に立たせるよりも伊藤博文を立たせたら、第二次大戦の戦死者にたいする最大の弔問になったことでしょう。

(注:186212月長州藩の尊王攘夷の過激派武士7人による、品川の御殿山に建造中のイギリス公使館を焼討ちにする事件があった。過激派武士7人とは伊藤博文・井上馨・高杉晋作・久坂玄瑞・品川弥二郎らである。英国側は、どうやらこの七人を特定していたようであり、これから五か月後、長州藩の費用で貿易会社ジャーディン=マセソン商会の船に乗り渡欧したさい、上海のウィリアム・ケズィックは五人の渡航者のうち「日本のテロリスト」として英国側のブラック・リストに載っていた伊藤博文と井上聞多の二人を特定し、水兵扱いにして別の船に乗せ、ロンドン到着まで水夫としてこき使った。)

画像:フレデリック・フォーサイス

 こういう理由で、こういう経緯があって、(その後、カイゼル・システムを受け入れたこともあって)、英国は伊藤博文以来、日本をテロリストの国、「ルールを守らない卑怯な国」とカテゴライズしているのです。この認識は残念ながら現在も変わっていません。

 この話はとても大切なポイントなので、この論文の最後でくわしく議論することとしましょう。


さて、問題を明治初期にもどし、英国政府はこの日本の(伊藤博文の)行動をどのように受け止め、どのように理解したのでしょうか?

テロリストの定義

画像:Theodor von Holleben

画像Attack on the delegation of Sir Harry Smith Parkes to the Meiji Emperor, February 1868. Source: "Le Monde Illustre", June 13th, 1868.

 狂信的な愛国の志士の襲撃をうける番が、いよいよ私たちにまわってきた。私たちは絶えず君主の権利を擁護してきたのであるが、それでも襲撃を免れることはできなかったのだ。

 三月二十三日の一時に、われわれは智恩院を発して一路皇居へ向かった。騎馬護衛兵が行列を先導し、警視のピーコックと中井がその先頭に立った。そのあとからハリー卿と後藤、私とブラッドショー中尉、それから第九連隊第二大隊の分遣隊、そのあとからウィリス、J・J・エンスリー、駕籠に乘ったミットフォード(馬に乗れないので)、一行について上京した海軍士官五名、という順序だった。

 智恩院の正門に向かっている縄手(ナワテ)という往来をその端まで行き、ちょうど騎馬護衛兵の最後の者が角を右へ曲がろうとした途端、往来の向こう側から二人の男がおどり出し、抜刀を振りかぶりながら人馬目がけて襲いかかった。そして、列にそって走りながら、狂気のように斬りまくった。中井はそれを見るや馬から飛びおり、列の右手の男と渡り合ったが、相手(訳注林田衛太郎、元京都代官小堀数馬の家士)は相当手ごわく、斬り合ううちに長い、だぶだぶした袴が足にからんで仰向きに倒れた。敵は中井の首をたたき斬ろうとしたが、中井はわずかに頭皮にかすり傷を受けただけで、危うく太刀(たち)さきをかわし、同時に刀の切先(きっさき)を相手の胸に突きさした。これにひるんだその男が背中を向けたとき、後藤が肩に一太刀あびせたので、そのまま地上にぶっ倒れた。そこへ中井が飛び起きてきて、首を打ち落した。

 その間に、左手にいた騎馬兵が引き返し、その中の数騎がもう一人の凶漢を追いかけた。ハリー卿と私はまだ角を曲がり切っていなかったのだが、凶漢が往来をこちらへ走って来たので、・・・・・

引用:『一外交官の見た明治維新ーサトウ』下P182

 通常ならば、契約違反を指摘して契約相手との相談にはいるべきものを、伊藤博文は相手の考えを聞くこともしない。自己中心的である。現代人がもっとも嫌う「ジコチュウ」である。自分が正しいと自分で勝手に判断して、そう思い込んだら、後先のことも考えず、切り込んでしまう。

筆者は個人的見解だが、1868年(明治元年)323日、明治政府誕生直後、ハリー・パークスが明治天皇の謁見に接する途上、二名の暴漢に襲われた事件は、天皇の通訳役を務める予定だった伊藤博文の仕業、(少なくとも彼の手配によるもの)だと確信している。英国政府は伊藤博文による契約破棄ののち、あのときのあれも彼の仕業だったとして得心したようだ。これでやっと理屈が合ったのだ。

画像:襲撃現場の現在。右が新橋通り、左が縄手通り。(Google Map
騎馬隊は知恩院から新橋通りを西行し、縄手筋で右折した。

 フレデリック・フォーサイスという人は、英国人ですから、このテロリストの定義には肝腎のポイントが抜けています。英米人に共通している常識があって、それが書いてありませんから、日本人にはこの文章は「もうひとつ分りが良くない」のです。英米人は常にempiricism(経験主義)の見地から事態を分析しているのです。ドイツ人や明治時代以降の日本人のようにカイゼル・システムの教育を受けてしまうと、なにがテロリズムなのかよくわからなくなるのです。日本にも昔はきちんとした経験主義が存在していました。聖徳太子ははっきりとしたempiricismですから、明治時代以前は日本人もフレデリック・フォーサイスの述べるテロリズムの定義が理解できたでしょう。

 この問題は最後にくわしく解説するつもりですから、さておくとして、現代日本人からすると、18706月の伊藤博文の行為は、テロリズムそのものであります。伊藤博文の心のなかには先進諸国とくに英国・米国にたいする深い憎しみがあり、これが突発的に、論理の脈絡もなく爆発しているのです。

3. こうしたテロリストたちについて綿密に研究した結果、デヴロー(ポール・デヴロー、この小説のなかでCIA高官を演じている)は、同じ結論が彼らのリーダー、労働者階級出身の独り善がりのごろつきにも当てはまると確信した。・・・・イマト・ムグニャ、ジョージ・ハバシュ、アブ・アワス、アブ・ニダル、その他のアブもすべて、毎日たらふく食って生きてきた者たちである。しかもほとんど全員、学位を持っている。

4. このデヴロー理論によると、大衆向けレストランに爆弾を仕掛けろと部下に命じて、その結果生じる悲惨な地獄絵を想像して満足げに微笑むことのできる連中には、共通点が一つある。限りなく憎悪を再生産できる悪魔的な能力をそなえているという点である。そういう遺伝子を所与のものとして持っているのだ。まず憎悪があって、ターゲットはあとにくる。この順序が変わることはほとんどない。

5. 動機もまた憎悪の能力の次にくる。ボルシェビキ革命も民族解放運動や何百とあるその変種も、合同から分離まで、すべて同じである。反資本主義的な熱狂という形をとる場合もあるし、宗教的な高揚としてあらわれることもある。

6. しかし、いかなる場合でも、まず憎悪が先にあり、次に原因、ターゲットがあり、それから方法がきて、最後に自己正当化がある。そうすると、レーニンのいう“役に立つ愚か者”が必ずそれを鵜呑みにしてくれる。


という内容になります。

 このフレデリック・フォーサイス著『アヴェンジャー』からの長たらしい引用を、ごく簡単に縮めると、


1. テロリズムが人々の貧困や欠乏から発生するものだという過去の論説は、たわごとである。

2.

帝政ロシアのアナーキスト
1916年結成のIRA
ユダヤ人がイスラエルを建国させる前につくった武装抵抗組織イルグンやスターン・ギャング
キプロスのEOKA
ドイツのバーダーマインホフ・グループ
ベルギーのCCC
フランスのアクシオン・ディレクト
イタリアの赤い旅団
ドイツの赤軍派
日本の連合赤軍

さらに、

南米ペルーの光の道(センデロ・ルミノソ
北アイルランド、アルスターの現代版IRA
スペインのETA

に至るまで、テロリズムを産んだのは、楽な生活を送り、高等教育を受けた中産階級出身の理論家であり、彼らの心は傲慢きわまりない虚栄心と恣意的で手前勝手な欲望にむしばまれている。

 では、「テロリスト」とは、何か。どのような概念でこれを捕捉すればよいのか、ということですが、手近な本に解説が載っていますので、簡便法としてこの部分を別項でお見せしましょう。

画像Sendero Luminoso

 このような人物のこのような振舞を分析して、英国と米国の学者は「テロリスト」とカテゴライズし、「テロリスト」を撲滅することを正義であると定義するのです。このカテゴライゼーションはカイゼル・システムを採用している国々には存在しません。カイゼル・システムを採用しているドイツでは、テロリストの頭目と見なされるヒトラーが出現しても、ヒトラーをテロリストだと認識させない教育がほどこされていたのです。即ち「カイゼル・システム」です。現在の日本は表面は民主主義、内面はカイゼル・システムですから、誰を「テロリスト」と定義するか、なにをもって「正義」とするかという概念が存在しません。だから日本にテロリスト(麻原彰晃)が現われたとき、日本人には事態の理解と対応が不可能になったのです。

 こうして伊藤博文は喧嘩に勝った気分になりました。

 文久21212日(1863131日)、品川御殿山で建設中のイギリス公使館を焼打ちしたときの昂揚感を味わうのが、それ以降の伊藤博文の癖になったのです。

画像: 
  フランスのマリにおける軍事行動は、イスラムに対する宣戦布告と同様だ。そのような声明をエジプトで発表したのは、「エジプトイスラムジハード」 を率いるムハメド・アズ=ザワヒリ氏で、フランス紙「ジュルナル・ドゥ・ディマンシ」に本日掲載されたインタビューの中で明らかになった。
   ムハメド氏は、ウサマ・ビン・ラディンの最側近で、国際指名手配No1のアイマン・アズ=ザワヒリ氏の弟。ラディン殺害後、2011年、アイマン氏は国際テロ組織「アルカイダ」を率いており、現在米国特務機関の捜索の目をかいくぐっている。

画像:名所江戸百景 品川御殿やま
歌川広重(うたがわひろしげ)(初代)画 安政3年(1856)刊

説明
・・・・1853年にペリーが黒船で来航します。幕府は黒船を防ぐために、御殿山を削った土で、品川沖に御台場を築きました。そのため山の形が変わってしまいます。そこで廣重は参考のためもう一度この絵を描いたと言ってます。それがこの絵のようです。その後、風光明媚なこの御殿山には英国公使館が建設されることになります。しかし、品川宿の妓楼土蔵相模に集結した長州藩士達が焼き討ちすることになりま す。1863131日(文久3年)、隊長が高杉晋作、副将が久坂玄瑞、火付け役が井上聞多らで実行されました。焼き討ちは成功し、英国公使館の建設は 中止されます。