セ イ ロ ン の 鉄 道
この歴史からもわかるように、コロンボ、キャンディ間の鉄道敷設の主目的は、コーヒーの運搬にあった。
大英帝国は1796年、前任者オランダをほとんど戦闘もせずに破り、ついでキャンディに王宮を構えていたキャンディ国王ラージャディ・ラージャシンハの行政権を奪った。同国王は1798年英国に送られたが、継承者のなきまま死亡し、1798年10月12日セイロンは英国の植民地となった。
英国はキャンディ王国を征服したときに、ハングランケタの「王の庭園」と呼ばれる広大な土地にコーヒーが栽培されているのを見つけている。1820年、ジョージ・バードがキャンディでコーヒー・プランテーションを作った。その栽培が増えてコーヒーはセイロンからの最も重要な輸出産品になった。
1827年に輸出量80トンだったものが1847年には1万5千トン、1870年には5万トンを超えた。
1846年、コロンボとキャンディを結ぶ鉄道建設会社が設立された。
1847年、トリントン卿が領事となった。この年、コーヒーは生産過剰となり、併せて欧州での需要が落ち込んだことからコーヒー価格が急落した。コーヒー・プランテーションが次々と閉鎖され、暴動を招いた。1850年、貿易が回復しコーヒー栽培は再び活況を見せた。
1867年、コロンボ・キャンディ間の鉄道が全線開通した。
画像:現在のKandy, Sri Lanka
画像:キャンディ到着の4km手前、マハウエリガンガ河(プトレマイオスのガンジス河)を渡る鉄橋
出典:1870年4月18日付セイロン・オブザーバー紙
画像:コロンボ、キャンディ間の鉄道の写真。1870年頃。
画像:コロンボ、キャンディ間の鉄道の写真
これらのセイロンの鉄道写真は1870年代にBourne と Shepherdによって撮影されたものである。セイロンの鉄道が英国によって計画されたのは1850年代で、この国を発展し統一するという目的だった。
コロンボから東に54km離れたアンベプーサまでの幹線の建設は1864年に完成し、営業を開始した。最初の汽車が走ったのは1864年12月27日であった。その後この幹線はいくつかの段階で延長されていき、1867年にコロンボからキャンディまで貫通した。この写真はコロンボ・キャンディ線での岩盤を刳りぬいたトンネルをくぐりぬける線路である。
セイロンに鉄道建設する目的は、主として、旧領地からコロンボへの茶並びにコーヒーの輸送だった。
画像:コロンボとキャンディの位置(青い下線)