102日、軍人への歓待が続き、親衛隊宿舎での朝食会があった。親衛隊達が立法議会に反抗すべきではないとの議論があったと言われている。;しかし私はその朝食会で生じたことについてはまったく無視する。この瞬間からパリは常に動乱状態に入った。;暴徒が頻繁に生じた。すべての公共の場所でもっとも敵意に満ちた提案が聞かれた。;常にヴェルサイユへの行進が話された。国王と王妃はその処置を気にしていないように見受けられ、それに対する警戒を行わなかった。;105日夕方、軍隊が実際にパリを出発したときでさえ、国王はムードン(パリとヴェルサイユの中間、やや南より)で銃猟を行っており、王妃は一人でトリアノンの庭園におられた。彼女が彼女の生涯でトリアノンを最後に見ることとなったのはこのときである。彼女がグロットのなかに坐って辛い思い出に浸っていたとき、ド・サン・プリエスト伯爵から、ヴェルサイユへ帰ってくださいと嘆願するメモを受け取った。同時にド・キュビエール氏が国王のもとに出かけ、スポーツをやめて王宮に戻るように要求した。;国王は馬に乗り、とてもゆっくりと帰られた。数分ののち、国王が聞かされたことは、一群の女性達がパリ軍に先駆けて、パリからの街道の入口のシャヴィル(ヴェルサイユ東方4kmにいる、ということだった。

 王妃の寝室を去る際、これらの侍女達は部屋付きの召使いを呼び、併せて四人で王妃寝室のドアにもたれて坐っていた。朝の4時半頃、彼らは恐ろしい叫び声と武器の発射音を聞いた。;ひとりが王妃に走り寄って起し、彼女をベッドから出させた。;私の妹は騒ぎがおきているように思われる場所に走って行った。;彼女は衛兵室につながっている控えの間のドアを開けた。彼女が見たのは、衛兵の一人が手にマスケット銃を持ち、ドアを遮って立ち、一人の暴徒に攻撃されていた。暴徒はその衛兵に打ってかかっていた。;彼の顔は血で覆われていた。;彼は振り向いて叫んだ。:「王妃を助けなさい。マダム。;彼らは王妃を暗殺するためにきている!」。彼女は不幸な義務の犠牲者を見捨てて急いでドアを閉め、大きなかんぬきでドアを閉め、次の部屋を去るときも同じ注意を払った。王妃の部屋にたどりつくや彼女は王妃に叫んだ。「マダム、起きて下さい! 着替えをしないでそのまま;国王のアパートメントへ逃げて下さい!」。恐怖した王妃はベッドから飛び起きた。;二人の侍女は彼女にペチコートを羽織らせ、身繕いしないまま、王妃をウュ・ド・ブフ(oile-de-boeuf、)に向かって導いた。王妃の化粧室からそのアパートメントへと通じるドアはいままで閉められたことがなかった。閉められたのは王妃側からだけであった。なんという恐ろしいことだろう! このときは反対側が締め切られていた。彼女達は力のかぎり繰り返しノックした。国王の側仕えの一人の召使いが来てドアを開けた。;王妃は国王の部屋に入ったが、国王はそこにはいなかった。王妃の命が心配になって、彼は階段を降り、ウュ・ド・ブの下の廊下を通った。彼が王妃のアパートメントに行くときは、ウュ・ド・ブを横切る必要がないように考え、いつもこうしていたのだ。彼は王妃殿下の部屋に入り、そこに避難していた幾人かの親衛隊員を除いては、誰もいないのを発見した。国王は彼らの命を危険に曝したくなかったので、しばらく待つように言い、後に、ウュ・ド・ブへ移動するように命令した。マダム・ド・トゥルゼルは、その当時フランスの子供達(国王夫妻の子供達の意)の女家庭教師だったが、マダム・エリザベス(国王の妹)と王太子を国王のアパートメントに連れて行ったばかりだった。王妃は彼女の子供達にふたたび会うことができた。読者にはこの場面のデリカシーと絶望感を想像していただけよう。

注1国民衛兵とは、

  1789年夏のフランス革命前夜、極度の経済不振にあえぐパリ市内では騒乱と窃盗が横行し始めていた。714日のバスティーユ襲撃以前より王権の無能無策に失望していたパリ市民たちは自力で法と秩序を維持することを決意、中流市民による民兵組織が創設されるはこびとなった。これが国民衛兵(la Garde nationale(ラ・ガルド・ナショナル))の始まりである。715日にラファイエットが最高司令官に選ばれた。この動きにフランスの各地の都市もそれぞれの国民衛兵を組織した。

上の記述で軍隊というのは国民衛兵という名の民兵である。

 パンの欠乏と親衛隊の宴会は1789105日と6日の暴動の口実であった;しかしはっきりと言えることだが、この人々の新しい運動は党派のもともとの計画の一部であった。というのも9月初めからずっとレポートがせっせと回覧されていて、その内容はというと、国王は彼の家族と大臣達とともに引退し、どこかの要塞に引き籠もる、というものであった;そしてすべての人民会議において繰り返し沢山話されていたことは、国王を拿捕するためにヴェルサイユへ行く計画であった。

 最初は女達のみが姿を現した。城の鉄格子は閉ざされていて、親衛隊とフランドル連隊はプラース・ダルムで整列していた。その怖い日の詳細については種々の作品で精密に語られているので、私はパレスの中全体に行き渡った一般的な驚きの事態と混乱のみを述べよう。

101日歌劇場(現在のヴェルサイユ・オペラ座)での宴会)

 熱狂が広がった。;国王陛下夫妻が到着した瞬間にオーケストラは私がすでに述べたあの曲("O Richard, O mon Roi!"『おおリチャードよ、おおわが王よ』)を再演し、そののち、「逃亡者」のなかの一曲『愛する者を苦しめることができようか?』を演奏した。これはそこに居た人たちに強い印象を与えた。:会場全体に国王陛下夫妻の賞賛、愛情の声、陛下夫妻が蒙った事態を残念に思う表現、拍手、そして歓声「国王万歳!、王妃万歳!、王太子万歳!」を聞くことができた。この時は白色のコケイド(花形帽章)が着用されたと言われている。;これは正しくない。;事実は、ヴェルサイユの国民衛兵la Garde nationaleの数人の若者がこの催しに招待されていて、彼らが彼らの国家帽章の白い内張を裏返していたのである。すべての軍人達がホールを去り、国王と彼の家族を彼らのアパートメントまで送った。こういう感情の激発に陶酔が伴っていた。:軍隊が散々浪費したのち、彼らの多くが国王の窓の下でダンスをした。;フランダース連隊に属している一人の兵隊が国王の近くで「国王万歳!」と叫ぶために国王の部屋のバルコニーによじ登った。(翻訳者注:この当時は一般に立憲君主制が妥当であると広く信じられていた);部隊の幾人かの士官達から聞いたのだが、まさしくこの兵士が105日、6日の暴動における反乱者の一人であり、もっとも危険な人物であった。同日夕刻、同じ連隊の他の兵士一人が剣を使って自殺した。私は私の知り合いのひとりで王妃付きの牧師と一緒に食事したのだが、彼はその男がプラース・ダルムの一角で手足を広げて倒れているのを見た;彼は倒れている男のところへ行って、彼に精神的な援助を与え、彼の告解を聞き、最後の息を引き取った、と話してくれた。彼は国王の敵達によって堕落させられてしまったことを後悔して自殺したのだが、国王と王妃、王太子に拝謁して良心の呵責が彼の頭をよぎった、と言ったのだそうだ。

注:Place d'Armes(プラース・ダルム、武器広場):ヴェルサイユ宮殿の正面からcour d'Honneur(中央広場)、次にla cour Royale(王の広場)、の次に来る扇形の広場で、これがl'avenue de Paris(パリ通り)に接続する。

カンパン夫人回想録(1)

                1789/10/05 Versaille

画像:左のドアが女王寝室へ通じるドア。親衛隊員がここで殺された。

1:サン=プリースト伯爵:François-Emmanuel Guignard, comte de Saint-Priest (12 March 1735 – 1821)。この当時、国務大臣。

2:デスタン伯爵:Jean Baptiste Charles Henri Hector, comte d'Estaing フランスの海将だった。この当時は親衛隊長。国王派だったため、のちに恐怖政治の最中にギロチンで落命(24 November 1729 – 28 April 1794)

3:中央広場(cour d'Honneur)は南北が大臣翼に挟まれている。そこで別名、大臣翼中庭(the courtyard of the ministers)という。

 このとき私は王妃殿下に付き従っていなかった。ムッシュー(誰を指すか不明、王弟プロヴァンス伯爵か?)が朝の2時まで彼女とともに居た。彼が王妃殿下の下から退出するとき、彼女は謙遜な様子で、限りなくやさしく、この時点での危険につき私を安心させるよう、そして、ド・ラファイエット自身の言葉をわたしにも伝えるように彼に頼んだ。ラファイエットの言葉とは、国王一家に就寝を懇請する際使った言葉なのだが、彼の軍隊については彼が責任を持つと請け合う、という誓約だった。

 王妃殿下はムッシュー・ド・ラファイエットの忠誠心にはちっとも信頼してはいなかった;だが、彼女がしばしば私に話したことだが、その日だけは彼女は信じた。というのも、ラファイエットは沢山の目撃者の前で国王にこう確約したからだ。彼はパリ軍に成り代わってお答えするが、指揮官としての名誉を汚したくないし、彼の誓約を履行することができるのは確かだ、と。王妃殿下が考えるに、パリの軍団は彼に忠誠を誓っており、それに彼がヴェルサイユへと行進することを強制させられたことにつき彼が話したことの全ては、単なる見栄だとも考えた。

注2:トリアノンのグロット

写真:2014/05/20撮影

国王の寝室

 親衛隊は、しかしながら、彼らがプラース・ダルムから宿舎に帰る際、石と小銃射撃で攻撃された。警告が甦った。;再び国王家族が逃げなければならない、と考えられた。;馬車が数台まだ残っていて、旅行の準備はできていた。;馬車が呼び集められた。;ところが彼らは街の劇場のみすぼらしい一人の役者によって止められた。次いで、群衆が止めた。;脱出の機会はこうして失われた。

 [この説明をフェリブル、ウエーヴァー、バイイ、サン=プリースト等の「回想録」に出てくる詳細と比較してみよう。次の文章はサン=プリーストの回想録から抜き出したものである。:

「デスタンは親衛隊をどう扱ったらよいか知らなかったので、取り敢えず、彼らを大臣翼中庭(別名:中央広場)の中に入れ、鉄格子を閉めた。それゆえ、彼らはシャトーのテラスへと進み、次いでトリアノンへ進み、最後にランブイエへと進んだ。

 「ムッシュー・デスタンが国王のところに来たとき、私はムッシュー・デスタンにたいし、彼がなんら軍事的配備を取ろうとしなかったのを見て、驚きを表現するのを控えることが出来なかった。彼は答えた。『ムッシュー、私は国王の命令を待っているのです』(国王は口を開かなかった。私は追及した。『国王がなんの命令も与えないときは、将軍が兵士の作法にもとづいて自分で決定すべきです。』この指摘にたいして反応はなかった。)」]

画像:ルイ16世、マリー・アントワネット並びに子供達、1789106日。ジュラ・ベンツール(Gyula Benczur)画。

画像オルレアン公爵ルイ・フィリップ2世ジョゼフ

画像:フランス革命:女性達のヴェルサイユへの行進(1789)。原画A. Scheffer、彫刻師A. Lefevreによる鉄版画、1836

画像:女性達が見物人から歓呼されてヴェルサイユへ急ぐ。(illustration c. 1842)

2オルレアン公

 多くの人が断言していることだが、厚地の大外套を着て帽子をだらしなく被ったオルレアン公が朝の4時半に大理石の階段の上に居て、王妃のアパートメントに通じる衛兵室を手で指し示していた、ということである。この事実は、105日、6日の出来事を尊重するために設けられた調査の過程で幾人かの個人によってシャトレで宣誓証言された。


1:シャトレ。何を意味するのか不明。

 暗殺者達が王妃殿下の部屋に入り込み、ベッドを剣で貫いたというのは正しくない。逃げてきた数人の親衛隊員だけがそこに入った人物である。;というのも、もし群衆がそこまで到達していたら、彼らは全員虐殺されていただろう。それにもしその群衆が控えの間のドアを押し開けていたら、従僕達や勤務中の士官達が王妃はもはや彼女のアパートメントにいないことを知っていて、彼らに真実味をもって話していただろう。真実というのはいつでも説得力のあるものなのだ。獰猛な大軍はたちまちのうちに、疑いもなく、彼女を途中で捕まえるべく、ウュ・ド・ブに向かって殺到したであろう。

ウュ・ド・ブSalon de l'Œil-de-bœuf、牛の目の間)

画像:ウュ・ド・ブフというのは写真に見える円形の窓を意味する。この部屋には南北の壁に2つ円形窓がついている。

 王妃は朝2時に就寝され、とても痛ましい一日の出来事に疲れ果てておられたが眠ろうとされた。彼女は、その晩はすくなくとも恐れることはなにもないと考えられて、二人の侍女にベッドに行くように命令された。;しかし、不幸な王妃は、彼女達が命令に従わなかった予感によって命拾いされたようなものである。私の妹は問題の女性達のひとりであったが、翌日語ってくれたことは次であった。

この暴動は特に王妃に対して差し向けられた。;私は今になってもあの下賤な女達とか、あるいは暴徒達のことを思い起こすと身震いがする。彼女達は白いエプロンをつけていて、彼女達が叫んでいることはマリー・アントワネットの内蔵を受け取ることであり、それを花形帽章にしてしまう意図であり、こういう恐ろしい脅迫をもっとも下品な表現を織り交ぜて発言していた。

注:親衛隊(Gardes-du-corps

画像:ルイ16世時代の親衛隊のユニフォームと連隊旗
皇帝軍事歴史博物館、サロン==プロヴァンス

マリー・アントワネット宮廷回想録
マダム・カンパン
第二巻、第2
1056日部分の翻訳です。素人による稚拙翻訳ですから、信用してはいけません。かならず原文を参照なさってください。(出典)。なお原文にはここに載せる画像は含まれていません。ここに載せる画像はすべてこのホームページ作成者によるアレンジです。画像の出自はそれぞれの画像に付記してあります。

画像:現在の衛兵室。左手のドアが王妃寝室へ通じるドア。

写真:2014/05/20撮影。

画像:ジャン・フランソワ・ジャニネ(版画家)
1789106日の出来事
「一人の山賊兵による王妃のアパートメントのドアにおける親衛隊員の虐殺」

写真:現在の王妃の寝室。左手のドアから逃げ出して化粧室を抜け、ウュ・ド・ブフを通って国王の寝室へ抜けた。

画像:ベルサイユ宮殿二階見取り図, 1679。一部修正。
106日早朝、歩哨もおかずに開かれていた宮殿中庭の鉄柵から民衆が侵入し、近衛兵士官デ・ユットが大理石階段下で殴り殺され、衛兵室のドアの前で逃げ遅れたヴァリクールが殺され、二人の首が槍に突き刺された。
(『フランス革命史』田村英夫、大東出版センター、1974P60

王妃の寝室

画像:武器広場(プラース・ダルム)から眺めたヴェルサイユ宮殿、1722年頃。
ルイ14世の第四次建設期終了当時の景色。

 パリ市民の行進が最初に噂されたとき、ド・サン=プリースト伯爵は、国王とその家族並びに随員達の引っ越し先としてランブイエ(ヴェルサイユの南西30kmを用意し、馬車も引き出された。;しかし、女性達が国王の好意ある回答を報告したとき、「国王万歳!」という叫び声がいくつか聞こえたので、その実行は見送られることとなった。そして、軍隊を引き下がらせる命令が出た。

画像105日、パリの市民達によってむりやり指揮をとらされたラ・ファイエット将軍がパリ国民衛兵部隊と1500人ほどの志願兵の先頭に立って、ヴェルサイユへ向かった。到着は夜の12時半。直談判により、王宮の警備はパリ市民軍にまかせることを国王が了承した。これが6日午前2時。(G.ルノートル、P34

画像:女たちのヴェルサイユへの大行進。105日早朝、自然発生的に集まった女性達が市役所前のグレーヴ広場に集り、市の武器庫に乱入して800丁の銃と4門の砲を持ち出し、6,7人の鼓手と2門の砲を先頭に立ててヴェルサイユへ向かった。(『ヴェルサイユの落日』G.ルノートル、白水社、P26

画像:ヴェルサイユの歌劇場における親衛隊(Gardes du corps)の乱痴気騒ぎ:1789101
Jean-Louis Prieur画、パリ歴史博物館

 家には沢山の人達がいた。アラスの代議員ド・ボメッツ氏(M. de Beaumetz)はぞっとさせられるような雰囲気で私の説明を聞き、私が話し終わるや素晴らしい話だ、と話したが実のところ;立法議会の性質については知っており、今晩のドラマは最大の悲劇によって引き継がれることになっている、と彼は話し;翌日立法議会の左翼に移るか、あるいは見過ごすか、どちらにすべきか熟慮する時間が欲しいとして立ち去りたいと申し出た。彼は結局後者をとり、私の仲間のなかに再び現われることがなかった。