私は私たちの不幸の過程にあって人々が党派の指導者達に完全に彼らの忠誠を与えておらず、いろいろの原因で彼らに彼らの義務を思い起こさせたときには、簡単に彼らの権力域外に逃げ出していることを観察する機会にしばしば恵まれました。もっとも暴力的なジャコバン党員達が王妃を近くで見、彼女に話しかけ、彼女の声を聞く機会に恵まれたときには、彼らは彼女の熱狂的な徒党の一員となった。;そして、彼女がタンプル塔の監獄のなかにいたときでさえ、彼女をそこに閉じ込めようと貢献した人達の幾人かは彼女を再度解放しようと死ぬほど努力した。107日の朝、昨日威厳のある囚人達を乗せた四輪馬車を取り囲み、カノン砲にまたがり、とても口汚い言葉を発していた同じ女達が王妃の窓の下に集合し、宮殿のテラスで、彼女に会いたいと願った。王妃殿下が現われた。こういうときにはつねに群衆のなかにこのタイプの演説者があるものだ。つまり、他人よりもより多くの自信のある人達だ。;このタイプの女性のひとりが王妃に話した。あなたは落ちぶれた国王のような廷臣すべてをあなたから遠ざけるべきだ、そしてパリ市の住民達を愛すべきだ、と言ったのである。王妃は、彼女がヴェルサイユで彼らを愛した、そしてパリでも同様に愛する、と答えた。「そうそう、」ともう一人が話した。「でも714日には貴女はこの街を包囲して砲撃したがった。;そして106日には貴女は国境へ飛びたいと願った。」王妃は愛想良く答えた。彼らはそういう風に話を吹き込まれ、それを信じたのです。;彼らは人民と最善の国王の不幸の原因をつくりあげたのです、と。三人目が彼女にドイツ語で二、三言話しかけました。:王妃は、理解できない、と答えました。;彼女は彼女の母語を忘れてしまうほど完全にフランス人になっていた。この宣告は「ブラボー!」と拍手で返されました。;彼らはそのとき、彼女が彼らと契約して欲しかったのです。彼女は言った。「ああ、どうして私があなた方と契約をすることができるのでしょう?あなた方は私が負う義務が私に指し示すことに信頼を置いていない、しかも、それは私が私自身の幸福のために重きをおかなければならないものなのです。」彼らは彼女の帽子からリボンと花をはずすように要求した。;王妃殿下はそれらをご自身で外し、彼らに与えた。;リボンと花がこの人達で分けられた。彼らはほぼ半時間やむことなく泣いた、「マリー・アントワネット万歳! 我々の王妃万歳!」

パリ軍団がプラース・ダルム、シャトーの中庭すべて、パリ通りの入口を占拠した。彼らは王妃がバルコニーに姿を現わすことを要求した。:彼女はマダムと王太子とともに進み出た。「子供はいらぬ」との叫び声があがった。これは彼女から彼女がそうしているように若い家族の側に立つことによって獲得しようとしている同情を剥ぎ取るもくろみであろうか、あるいははたまた、民主主義者のリーダー達が、誰か狂気の男を出現させ、彼女に必殺の一撃を与えることを期待していたからだろうか?不幸な王妃は確かに後者を想念されたようだ。というのも、彼女は子供達を遠ざけ、天に向かって両手と目を揚げ、自らを献げる生贄のようにバルコニーに進み出たからである。

画像:マリー・アントワネットとルイ16世、プチ・トリアノン王妃の小村落でマダム・ランバルとともに。ヨーゼフ・カロー(Joseph Caraud)画。

 王妃は、106日朝、私を呼びつけ、私と彼女の貴重品を管理する私の義父をあとに残した。彼女はダイアモンドの貴重品小箱だけを携えて行った。ヴェルサイユの軍事政府が一時的に信頼していたド・ラ・トゥール=デュ=パンのグヴェルネ伯爵が来て、国民衛兵に命令を出した。この命令によれば、国民衛兵がアパートメントを所有することとなり、王妃の宿泊設備に必要であるとみなされる全てのものを移動させることを許可した。

 行列の進み方はとても遅かったので、民衆によって囚人にされたこの威厳ある家族が市役所に到着したのは夕方の6時近くであった。バイイ市長がここで彼らを迎えた。;彼らは玉座に据えられた。ちょうどその時、彼らの先祖の(銅像)玉座が投げ出された。国王は確固として且つ優雅な態度で話した。;彼が話したことは、彼はパリの善良な街の住民達のなかにはいつでも喜びと信頼の念で来ることができる、ということだった。バイイ氏は国王に話かけようとやってきたコミューンの代議員達にこの見解を繰り返した。;しかし彼は信頼という言葉を忘れてしまった。王妃が直ちに大きな声で彼にこの脱落を注意した。国王、王妃、子供達ならびにマダム・エリザベスはチュイルリー宮殿に立ち去った。彼らをそこに受け入れる準備はまったく整っていなかった。すべてのリビング・ルームは長いこと宮廷に属する人達によって使われていた。;彼らは急いでその日それらの部屋を立ち去り、家具はそのまま残していった。これらの家具は宮廷が買ったものだった。ド・ラ・マルク伯爵夫人は、ド・ノアイユ元帥とド・ムシー元帥の妹なのだが、王妃用に充当されるアパートメントをこれまで使用していた。プロヴァンス伯爵夫妻はリュクサンブール宮殿へと立ち去った。

注:Jean-Sylvain Bailly、バイイ。当時のパリ市長

画像:漫画。ルイ、マリー・アントワネット、王太子、即ち「パン焼き職人と彼の妻と子供」を護送するパリの下層民、1789107

ブルボン王朝のコカイドは白色だった。

注:コカイド、花形帽章

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1789105日、ヴェルサイユの記念されるべき日

我々の現代のアマゾン(ギリシャ伝説のアマゾン、勇猛な女戦士)が勝利に勝ち誇って、馬とカノン砲に跨って帰る。国民衛兵の善良な男達がポプラの枝を手に持ち、なんども歓声を上げる。「国家万歳!国王万歳!」

フランス革命博物館90.46.129
銅版画、彩色水彩
13.6 x 21.1 cm

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 いくつかの声が「パリへ!」と叫んだ。興奮した声が直ぐに合唱となった。国王がパリへの移動に同意する前に、彼は国民議会と相談したいと願った。その結果、群衆はシャトーで座り込むこととなった。ミラボーはこの方策に反対した。こういう議論が進むにつれ、大衆の膨大な無秩序を抑制することがどんどん難しくなっていった。国王は誰に相談することもなく、人々に言った。:「あなた方、私の子供達よ、私はあなた方についてパリへ行く。:私は同意するが、私が妻と家族と離れることのないことが条件だ。」国王は付け加えて、彼の安全と彼の親衛隊の安全を要求した。;彼の言葉は歓声によって答えられた。「国王万歳!、親衛隊万歳!」親衛隊は彼らの帽子を空に投げ上げ、コケイドを示すために向きを変え、叫んだ。「国王万歳!、国家万歳!」すぐあとで、喜びの徴としてすべてのマスケット銃の一斉射撃が行われた。国王と王妃は1時にヴェルサイユから出発した。王太子、マダム、国王の娘、ムッシュー、マダム-[ここでマダムと言うのはプロヴァンス伯爵の妻]-、マダム・エリザベス、マダム・ド・トゥールゼル、が四輪馬車にいた。;シメ王女とその週の国王室寝室付き侍女達と侍従達が宮廷の四輪馬車に乗った。;四輪馬車に乗った百人の侍従達、それにパリ軍の大軍が行列の間を詰めた。

1:プロヴァンス伯爵とはルイ16世の弟。
2:シメ王女。Laure-Auguste de Fitz-James, princesse de Chimay。(王妃の)侍女

画像:ラファイエットとマリー・アントワネット、1789106
作者不詳、古銅版画
ラファイエットがマリー・アントワネットとともにバルコニーに立つ。
ラファイエットがマリー・アントワネットの手に接吻している。

画像:Google Map 2014
赤矢印で示すのは、国民議会が開かれていた(室内)テニスコート(Salle du jeu de paume)

画像:球戯場の誓い
説明
   55日、課税制度を制定するために身分制議会である三部会が召集されたが、第一身分と第二身分は激しく反発した。合同審議と個人別投票を主張する第三身分は617日、第三身分独自で国民議会を設立したが、19日、王弟アルトワ伯ら強硬派が働きかけ、国王命令で閉鎖された。1789620日、新たな議場をヴェルサイユ宮殿の球戯場とし、憲法制定まで解散しない旨の宣誓が行われた。
  従って、同年10月頃の国民議会はヴェルサイユのテニスコートである。

パリの守備隊の幾人かの用心深さと尊敬すべき感覚、海兵隊中将であるムッシュー・ド=ヴォドゥルイユ、並びに親衛隊のひとりであるムッシュー・ド=シュヴァンヌの賢明な行為は国民衛兵の近衛兵と親衛隊との間にひとつの理解をもたらした。ウュ・ド・ブのドアは閉め切られた。そして、その部屋に通じる控えの間には、親衛隊を虐殺する目的で入ってこようとする(国民衛兵)近衛歩兵連隊の兵を詰め込んだ。ムッシュー・ド=シュヴァンヌがみずから買ってでて、彼らが一人の犠牲者を欲しているのであれば、自分がその犠牲者になると申し出て、彼らが一体なにをしたいのかを尋ねた。彼らの階級の兵士の間にひとつの報告が出回っていた。親衛隊が国民衛兵に反抗するために、彼ら全員が黒い花形帽章を着けた、というのである。ムッシュー・ド=シュヴァンヌは、彼らに兵団と同じように自分の身に着けている制服の花形帽章を示して見せ、;親衛隊が彼らの花形帽章を国家のそれと交換すべきことを約束した。これが実行された。;彼らは近衛連隊の帽子を親衛隊の帽子と交換することまでした。;守備の任にあたっていた者はショルダーベルトを外した。;たちまちに交歓の抱擁と恍惚の念が生じ、一隊を殺害しようとする獰猛な熱望に取って代わった。これは君主への大きな忠誠を示す結果になった。叫び声はいまや「国王、国家並びに親衛隊万歳!」となった。


注:Joseph Hyacinthe François de Paule de Rigaud, comte de Vaudreuil (1740–1817)  ド・ヴォドゥルイユ伯爵か? だとすれば、彼はフランス革命の際、comte d'Artois(後のシャルル10世)とともに騎乗でオーストリア領オランダに逃げ、そこで25年間反革命を組織した。

画像:「第三身分の目覚め」
  地面に倒れているのは第三身分の男で、「アンシャン・レジームの悪夢」から目覚めている。鎖をはずした彼は武器に手を伸ばし、貴族と僧侶は恐れて後退している。背後には、バスティーユの破壊と1789714日のパレードで誇示された槍先の生首が新しい秩序の到来を再確認している。すなわち、武器をもった人民が中心的役割を担うのである。178910月以降は革命のイメージは団結と連合にシフトする。

カンパン夫人回想録(2)

                  1789/10/06 Versaille

 [国王は1時までヴェルサイユを離れなかった。王妃、王太子、マダム・ロワイヤル(ルイ16世の長女)、ムッシュー(プロヴァンス伯爵のことか?)、マダム・エリザベス(ルイ16世の末妹)、マダム・トゥールゼル(女家庭教師)は国王陛下の四輪馬車のなかにいた。次の四輪馬車に乗っていたのは、百人の侍従達であった。二人の親衛隊員の首を携え勝ち誇った山賊共の分遣隊は前衛部隊となり、二時間早く出発した。これらの人食い人種どもはセーヴルで一旦停まり、残酷にも血だらけの首を不運な髪結いに強要し化粧させた。;大部分のパリ市軍団は彼らの近くに従って行った。国王の四輪馬車の先を昨日パリから到着した「下賤な女達」が先導した。そして売春婦の群れ、セックスのゴミ溜めがいまだに憤怒とワインに酔っぱらっていた。彼らの幾人かはカノン砲に跨っていて、とてもおぞましい歌にあわせて、彼らがやってのけた犯罪あるいは他人が犯した犯罪を自慢していた。国王の四輪馬車にもっとも近くにいた奴らは、バラード(物語歌)を歌った。それを野卑なジェスチャーで王妃に当てつけていたのである。とうもろこしと小麦粉を満載した荷車-ヴェルサイユから持ち出したのだが-の行列は近衛兵によって先導され、それを女性と弱い者いじめ達がとりかこんでいた。彼らのうちには槍で武装しているのもいたし、ポプラの長い枝を運んでいるものもいた。距離を置いてみると、行列のこの部分はもっとも奇妙な印象を与えた。:それは動く森のように見えた。森のなかで槍の穂先と銃身が光っているようだった。野獣的な喜びの感情が激発して、女達は通行人達を呼び止め、国王の四輪馬車を指さして彼らの耳のなかに喚いた。:「元気を出して、友よ;私たちはもはやパンは欲しくない! 私たちはパン焼き職人と彼の妻とパン焼き職人の小さな男の子を連れている!」陛下の四輪馬車の後ろには彼の忠実な警護兵が何人かいた。あるものは裸足で、ある者は馬に乗っていた。彼らの大部分は無帽であり、全員が武装しておらず、飢えと疲労で疲れきっていた。;竜騎兵(騎銃を持った騎馬歩兵、フランダース連隊、百人のスイス兵、ならびに国民衛兵が馬車の縦列を先導し、同伴し、後続していた。私は胸が張り裂けそうなこの光景を目撃した。;私は不吉な行列を見た。すべての騒ぎ、喧噪、歌唱のなかで、マスケット銃がしばしば発射されて邪魔がはいり、いつなんどきひとりの悪党あるいは無骨者の手が簡単に致死の事態を引き起こさせるかもしれないなかで、私は王妃がもっとも勇気ある精神の平静さ、高貴さと言葉に表現しにくい尊厳さ、を保持されているのを見た。そして、私の目は憧憬と悲しみの涙でいっぱいになった。-「ベルトラン・ド・モルヴィルの回顧録」]

注:ベルトラン・ド・モルヴィルAntoine François de Bertrand de Molleville

下賤な女たちが陛下達の四輪馬車の前と周囲に群がり、叫んでいた。「私たちはもはやパンはいらぬ! 我々はパン焼きと彼の妻とパン焼きの子供を連れている!」この人食い軍団のなかには殺された親衛隊員二人の首が棒の先に付けられて運ばれていた。これらを勝利のトロフィーにした悪党どもは、セーヴル(注:街の名、パリ西郊)のかつら屋を脅して生首を飾り立て、その血だらけの髪の毛にパウダーをつけさせる、という恐ろしいアイデアを思いついた。こういう恐ろしい仕事をさせられた不幸な男はこのショックの結果死んでしまった。

 [パリ市民の行進の情報がパリ出身の代議員の一人によって伝えられたとき、国民議会が開会されていた。何人かの議員達はこの行進をすでに知っていた。ミラボーはこれを利用してオルレアン公の玉座就任に利用したいと願っていたように見える。ムニエJean Joseph Mounierは、国民議会議長であったが、このおぞましいアイデアを拒否した。ミラボーは彼に言った。「君、君、君にとって、ルイ16世の代わりに国王としてルイ17世を推戴することにどんな差があるというのかね?」(オルレアン公は洗礼を受けたルイであった。)]

注:ルイ・フィリップ2_(オルレアン公) フランスの王族でオルレアン派。マリー・アントワネットの政敵。

 私は王妃陛下が、王妃のパリへ向けて出発されるほんのちょっと前に、彼女の部屋にひとりでおられるのを拝見した。;彼女はほとんど話すことができなかった。;涙が顔を覆っていた。彼女の身体のすべての血がそこに噴出しているように見えた。;彼女は身を落として私を抱擁され、ムッシュー・カンパンに手にキスをさせ、私たちに言った。「直ちに出発してパリで落ち着きましょう。;私はあなた方をチュイルリーで泊めさせてあげます。;行きましょう、今後は私を一人にしないで。;このような瞬間には忠実な召使いは便利な友人になります。;私たちは負け、多分死に向かって曳きずられていきます。;国王達が囚人になったとしたら、まさにその状態に近いです。」

下の:ルイ16世のパリ入城、1789106日。(部分)
Jacques François Joseph Swebach-Desfontaines (1769–1823)
1789
メトロポリタン美術館

画像:マリー・アントワネット、12歳。 マルティン・ファン・マイテンス画、1767-1768年頃。

 国王がパリに到着してから二日後、パリ市と国民衛兵は王妃に劇場へ姿を見せるよう伝えさせ、彼女と国王の臨席により彼らが首都に滞在することを喜んでいる証にさせようとした。私はこの要求を伝えに来た代表団を案内した。王妃殿下は答えた。私は、とても喜んでパリ市の招待に同意すると答えるべきなのだが、;これまで生じた、そして私がとても痛めつけられた悲惨な事件の回想をやわらげるための時間がほしい、と。付け加えて彼女は言った。忠実な親衛隊員達は命懸けで君主達を護ろうとして、ドアの前で命を落とした。その(刈り取られた生)首に先導されて私たちはパリに来たのだが、このような形の首都への入城をお祝いで締めくくるわけにはいかない。;しかし、パリの住民のなかに姿を現すときに常に感じた幸福感は私の記憶から消えてはいない。だから、私は自分がそうできるときが来たと思ったら、できるだけ早くそうしたい、と。

画像:国王の家族がパリに向かいヴェルサイユを離れる。(銅版画)

画像:現在のヴェルサイユ宮殿正面。2014/05/20撮影。正面二階のバルコニーにマリー・アントワネットが立った。

画像:現在のテニスコート、外観。