転回対位法によるフーガの「原形」
「フーガの技法」に含まれる2曲の転回対位法によるフーガには、
それぞれ原形と転回形があり、互いに上下転回した形となっています。
これらの曲は自筆譜と出版譜を比較すると、奇妙なことに、
原形と転回形の配置が逆になっているのです。このため、
時としてどちらが先におかれるべきなのかが議論の的になりました。
当然ながら2つのうち先に作られた方が原形だと思われます。
配置についても原形が先に置かれてしかるべきです。
そこで、「フーガの技法」に含まれるほかの曲との比較から、
2つのフーガの原形は本来どちらなのか、それぞれ調べました。
結論
「フーガの技法」に含まれる曲の音域に関する調査から、
この2つのフーガの原形と転回形は以下の表の通り特定されました。
すなわち、「フーガの技法」に含まれる曲の多くが一定の音域を守って
作られているのに対して、この2つのフーガの転回形は上下転回したために、
この音域を逸脱しています。よって原形と転回形を見分けられるのです。
なお、2つのフーガそれぞれの説明ページにおける
「原形」「転回形」の呼称は、この調査結果に基づいています。
以下に詳細を述べます。
音名の定義
論述をスムーズにするため、これから文章中で用いる
音名の表記を以下の楽譜のように定義したいと思います。
変音記号が付く場合には、アルファベットの前に#ないし♭を付けます。
他のページですでに用いている音名も、すべてこの定義に従っています。

例えば「フーガの技法」が作曲された当時の一般的な
鍵盤楽器の音域は、中央のドを中心に上下2オクターブですが、
これをこの音名を用いて表すとC-c'''となります。
1.Contrapunctus a 3
手始めに3声の反行フーガContrapunctus a 3から見てみましょう。
各曲で使われている音の上限と下限=音域は以下のようになっています。
曲のタイトル |
曲の冒頭 |
音域
|
Contrapunctus a 3 |
 |
B-e'''
|
Contrapunctus
inversus a 3 |
 |
F-c'''
|
前曲Contrapunctus a 3のほうが比較的高い音域で
作られていることがわかりました。
「フーガの技法」に含まれる曲のうち、Contrapunctus1〜11については
例外なくC-c'''の音域内で作られています。これは先ほども述べた
当時の鍵盤楽器の一般的な音域を意識しての事と思われます。
つまり、より多くの鍵盤奏者に弾いてもらうために、
「鍵盤が足りなくて演奏できない」という事態を回避したのです。
ところが前曲Contrapunctus a 3は、この音域の上限c'''を
3度も超過するe'''の音を、一度ならず二度までも使っています。
またc'''を2度超過したd'''の音もしばしば使っています。
これは単なる不注意では済まされない事態です。

上の譜例は37小節のソプラノです。
これに対して後曲Contrapunctus inversus a 3は、上記の通り
F-c'''という音域で作られており、C-c'''の範囲に入っています。
以上のことから、3声の反行フーガについては、反行形の主題に始まる

Contrapunctus inversus a 3が、音域に配慮して作られており、
先に作られた原形であることがわかりました。
転回形においては、その上下転回や声部の入れ替えにより、
C-c'''の音域の上限をやむなく超過してしまったものと思われます。
(転回や声部の入れ替えの詳細については実験1にまとめました。)
2.Contrapunctus12
先述のContrapunctus a 3に比べると、
4声のフーガContrapunctus12は原形の特定が困難です。
2曲とも曲全体の音域がC-♭b''と等しくなっているからです。
この曲の原形がどちらであるかは、さらに声部ごとの音域を調べ、
それを他の4声部曲の音域と比較することで明らかになります。
下の表には、Contrapunctus12と他の4声部曲のパートごとの
音域を示しました。当然曲によって声部ごとの音域は異なるため、
他の4声部曲は、各パートの最高音、最低音それぞれについて、
最も高かった曲の音と最も低かった曲の音を示しました。
|
バス
|
テノール
|
アルト
|
ソプラノ
|
最低
|
最高
|
最低
|
最高
|
最低
|
最高
|
最低
|
最高
|
Contrapunctus inversus 12 a 4
|
C
|
d'
|
G
|
f'
|
d
|
♭b'
|
g
|
♭b''
|
Contrapunctus inversus a 4
|
C
|
e'
|
c
|
a'
|
f
|
e''
|
a
|
♭b''
|
他の4声曲(Contrapunctus1-7,9-11)
|
C-D
|
♭b-g'
|
A-#c
|
a'-d''
|
e-a
|
e''-a''
|
d'-a
|
♭b''-c'''
|
※2声・3声の曲は各声部の音域がより自由になるため、比較対象にはしませんでした。
上の表において、各パートの最高音、最低音を比較してみると、
前曲Contrapunctus inversus 12 a 4については、テノール、アルトの最高音が
他の4声部曲の中でも群を抜いて低いことがわかります。
これに対して、正置形の主題に始まる後曲Contrapunctus inversus a 4は、
どのパートの最高音・最低音も、他の4声部曲に示す範囲に合致します。
つまり、先に作られたのは後曲であり、その転回形である前曲は、
上下転回と声部の入れ替えの結果として、テノールとアルトの
2つのパートが低い音域にかたよる事になったと考えられます。
従って、Contrapunctus12については、正置形の主題に始まる

Contrapunctus inversus a 4が原形であるとわかりました。
3.補足:カノンとその音域
4つのカノンのうち10度のカノンCanon alla Decimaと
拡大カノンCanon per Augmentationemの2曲についても、
対位法的な旋律処理の結果、C-c'''の音域を逸脱しています。
10度のカノンCanon alla Decimaは、曲の前半において
下声部を10度上で模倣する上声部が最高音d'''に達します。

Canon alla Decimaより18小節の上声部です。
8度の模倣が行われる後半は、C-c'''の範囲に収まっています。
10度上での模倣を意識しながらも、実は先に作られたのは後半の
8度のカノンなのかも知れませんが、真偽のほどは定かではありません。
拡大カノンCanon per Augmentationemは、曲の前半では
上声部を反行・拡大形で模倣する下声部が最低音B'まで下がり、
声部が入れ替わった曲の後半では、上声部が最高音d'''まで上がります。

Canon per Augmentationemより10小節の下声部です。
いずれも先行声部を反行形で模倣した結果、C-c'''の音域を超えたのです。
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