『ヴェルフ基金の歴史について』
(ハンス・フィリッピ)
画像:Gebäude des Zweitsitzes von 1955 am Rhein in Bonn。(ボンの外務省、1955年)
たまたま見つけたこの論文の原本をドイツから取り寄せ、自分で翻訳はしたのだが、ドイツ語の古い書き方で書いてあるため、正確な翻訳が難しかった。そこで、専門家の河野友弘氏に校正をお願いして、全面的に書き直してもらったのが、この翻訳である。従って、この翻訳文の著作権は「©2013 河野友弘」となります。
なお、ハノーファー王「ジョージ五世」は、ドイツ語で「ゲオルク五世」であります。同名の「ジョージ五世」は後に英国王室にも現われましたから、「ゲオルク五世」としたほうがよいのかも知れません。「ゲオルク五世」は、普墺戦争で領地を失いましたから、遺骸は、彼の死後、(ヴィクトリア女王の命令で)、ウインザー城のセント・ジョージ礼拝堂地下に安置されています。
原題は:
„Zur Geschichte
des Welfenfonds“
Hans Philippi
Niedersächsisches Jahrbuch
Band 31, 1959
August Lax. Verlagsbuchhandlung・Hildesheim
筆者注:『ヴェルフ基金の歴史について』が、彼のボンの外務省勤務期間(1954-1964)における唯一の出版物であることから、少なくともボンの外務省勤務の前半はヴェルフェン・フォンズに関する調査を集中的に行っていた、と理解される。『ヴェルフ基金の歴史について』の内容を読み通すと、その内容はきわめて精密で、彼が外務省で第二次大戦後に英国関係修復のためのもっとも重要な調査を行っていたことは明白である。
つまり、ヴェルフ基金に関しての第一人者はどうやらHans Philippiその人であることが推察される。
彼の出版物を調べても、ヴェルフ基金論文以外は、注目に値する論文は見当たらない。
Hans Philippiの写真は見当たらない。
以上。
Hans Philippiについての資料については、辛うじてドイツ語版Wikipediaのなかで見つけることが出来る。
Hans Philippi は1916.11.22マインツの医者の息子として生まれる。(Wikipediaドイツ語版旧版による)
以下最新のwebsiteの簡単な翻訳:
ハンス・フィリッピ(1916年11月22日マインツ生-2010年4月27日ラオバッハ没)はドイツ人の歴史家であり文書保管人だった。彼は1973年から1981年までマールブルクの国立公文書館長とマールブルク公文書学校長を努めた。
経歴
フィリッピは1936年グリュンベルクのギムナジウムの終了試験に合格し、引き続き、マールブルク、ウイーン、ミュンヘン大学で、法律、歴史、法制史及び新哲学を勉強した。
1951年、マールブルク大学で博士論文を書いた。ビューディンゲン伯爵領についての研究であった。
1952年から1954年まで試補見習としてマールブルクの公文書学校が設立される前の数年間出席し、そこで、上級公文書職務のためのキャリア試験第三科学コース参加者として合格した。
彼の職業活動は1954年外務省の政治公文書館で開始された。(筆者注:ちなみに『ヴェルフ基金の歴史について』が出版されたのは、1959年)
1964年、フィリッピはマールブルクの公文書館に帰り、1973年にそこの館長に就任した。この職務と同時にマールブルク公文書学校校長も兼任した。彼は退職(1981年)までこれらの二つの職務を果たした。
彼は2010年、93歳でラオバッハで死去した。
本稿は、
『ヴェルフ基金の歴史について』
ハンス・フィリッピ著
ニーダーザクセン年鑑
第31巻、1959年
ヒルデスハイム、アウグスト・ラックス出版社
の翻訳である。
画像:マールブルク旧大学。元々はドミニコ派修道院であったものが1875年頃改修されてマールブルク大学が入居した。大学そのものは1527年創立。この建物は第二次大戦の空襲により破壊されて、大学は1950年丘の上のマールブルク城に移った。1950年の頃のマールブルクには自動車1000台、バイクも1000台しか登録されていなかった、という。
画像:©2013 Google 一部改変
マールブルクとボンの位置関係
画像:旧大学前の繁華街Rudolphsplatzの1950年頃の写真。この時代の電車の軌道は1m幅しかなく、曲がり角でとくに危険であったので、1951年に廃線となり、バスに変わった。
Hans Philippi