第 四 章

ヴェルフ基金の歴史について』
ハンス・フィリッピ著
ニーダーザクセン年鑑
31巻、1959
ヒルデスハイム、アウグスト・ラックス出版社



第四章


 ベルリン日刊新聞は1889713日、「ヴェルフ基金と皇帝フリードリッヒ」という記事でこのテーマについて一般輿論の議論を喚起した。これによって人々は、崩御した皇帝フリードリッヒが、彼の政綱領のなかで、とりわけヴェルフ基金の廃止を計画していたことを知った。なんとなれば、48百万マルクの財産の利子、すなわちビスマルクが執権を有する王朝の国家財産を自由に使用することは、帝国宰相に驚愕的な権力を授けることと同義だったからである。そこでこの新聞はさらに掘り下げたのだが、皇帝は所有者が有利になるような解決法をたてたのではなく、プロイセンの国庫が有利になるように努めたのである。論文の意図は露骨にビスマルクに対して向けられていた。確かにこの論文は、18901の段階では、議会での政府当局に対する質問を不適切を理由として却下されたのだが、結果として彼の失脚を伴うこととなった3月の出来事ののち、いままで一般的な議論を妨げていた圧力は消滅した。数週間も経たずに、ヴェルフ基金は報道業界の大事件となった。国内外のどの著名な新聞も、この並外れてやりがいのあるテーマを取りあげ、同時に失脚した宰相の政治手腕弾劾しないものはなかった。必然的に、長年の抑圧は、偏見と憎悪が入り混じり、かつ、ごく少ない肯定的な事実無視する、多種多様な思惑という結果を生んだ。実際上、一般の人びとには、ハノーファー州における文化的、教会の機関への補助金は完全に公知とならないようにされ、従って人の噂になることもなかった。世間の沸き起こる憤激は、秘密の自由裁量基金のあるなしに対してではなく、またヴェルフ王朝の不幸な命運への強い正義感に基づく同情でもなく、結局のところヴェルフ基金の発生理由と使用目的が明らかに互いに相容れないものであることに向けられた。ヴェルフ基金を検査できない状態で使用することにより、ビスマルクは二十年間を通じて、御用ジャーナリストや工作員など信奉者を利用して、輿論に彼の意向を反映させたのである

帝国宰相フォン・カプリヴィにとって、この最高にうさんくさい資金源は禍々しい遺産であることがはっきりし、それを片付けることがもっとも重要であるように見えた。カプリヴィの官僚主義的正確さを伴う性格により、この事件を間近にみればみるほど驚愕させられた。そして、批判好きの新聞を顧慮して、189045日の閣議で、この件に関する政府見解の表明は避けて通れないとの見方をした。単にハノーファーの州議会がこの件を議題にして、この基金をその所有者に引き渡そうとするのみならず、帝国議会も支出の閲覧を要求した。政府はこの閲覧を外務に配慮して却下しなければならなかった。後ろ盾を確かめるために、カプリヴィは、歳入の分配を元通り内閣の裁量とすることを提案した。基金の返還は、敵対的な策動をしているヴィントホルストに特におもねるようで、彼にとっては論外であった。ヴィントホルスト417下院度ハノーファー王家を断固支持した。彼は紛争の幸運な解決をその目で見ることはできなかったが、彼の論拠は「ゲルマニア」によって日の目を見、反ビスマルク的報道陣によって引き継がれた

グムンデンのクンバーラント宮廷にとってプロイセン政府の窮境は手に取るように分かった。そして、エルンスト・アウグスト公爵は422日の領邦議会本会議の五日後に、彼の母親の従兄弟、ザクセン-アルテンブルク公爵エルンストに、皇帝に彼の財産問題にかかわらせるにはどうしたらよいか相談した。クンバーラント公爵は今回もまた私法上の、すなわち、もっぱらホーエンツオレルンとブラウンシュバイク家のみの係争の性格を出発点とし、ヴェルフ基金が議会の場にもちだされたことに遺憾の意を表明した。彼はヴィルヘルム二世の正義感に訴えかけ、とあるドイツの侯爵を通じての私的な仲介を提案した。ザクセン-アルテンブルク公爵は522日皇帝にこの手紙を自らの同意書とともに転送した。

 ベルリンはこの争いの私法的な性格に同意する気がなかった。皇帝ヴィルヘルム二世の寛容さへの訴えかけ感じ取ったとしても、彼の宰相の意見を聞かざるを得なかった。そしてカプリヴィは内閣官房のロッテンブルクならびに外務省のキーデルレン・ヴェヒター各参事官に、専門家としての所見の推敲を依頼した。前者は、1888年のビスマルクの発言を引き合いに出した。その発言とは、すべての譲歩に反対し、ヴェルフ財産を法的方法で国庫に統合する、すなわち、贈与金の取消か或いは消滅時効の方法での統合が生じるかであった。キンダーレンの演繹法は本質的にブラウンシュバイク公国内のなかのヴェルフ家の相続についての論究に限定される。そして、ビスマルクの以前の発言の準拠についても同様に、すべての要求を拒絶し、公爵にたいしヴェルフ基金から「一片のハンカチ」すら与えなかったという結果に行き着いた。528日に皇帝ヴィルヘルム二世はザクセン-アルテンベルク公爵エルネストにキーデルレン・ヴェヒター作成した草案に基づいて、拒絶回答をした。すなわち、問題は国法の問題であり、私法的の問題ではなく、彼は、帝国とヴェルフ家との間に完全な講和がなされないかぎり、彼の臣下にヴェルフ基金の廃止についての提案をすることに同意できない、と述べた。

 ザクセン-アルテンベルク公爵の仲裁が不成功におわったのち、主導権はハノーファー州の州知事エルンスト・フォン・ハマーシュタイン・ロクステン男爵の手に移った。彼はしばらく前から、ハノーファー家に忠誠を誓っている著名人士と手を結んだ。その共通の目的は、クンバーラント公爵をもって彼の言い分に加担させ、彼を紛争の解決への道筋に突き動かすことだった。ハマーシュタインは1017帝国宰相に、クンバーラント公爵の、プロイセン王との合意ののちのさしせまった要望を知らせた。以前に彼の父親にした約束にもとづき、ハノーファー王位公式な断念は到底できはしないのだが、しかし、財産の案件につき穏やかな調整とブラウンシュバイク家の相続についての、ハノーファー家の要求を決して繰り返さない、という約束をした。これに先立ってなされた協議に関連して帝国宰相が、189119日、ハマーシュタインに知らせたことは、もしかりに公爵が皇帝にたいして利子を直接的にも間接的にもプロイセン政府に敵対的に使うことは決してしないと華々しい表現で確約する前提条件をして、管財人廃止の提案はじゅうぶん実現可能であるということであった。公爵が、決してするつもりのない公式の断念を表明しないかぎり、彼のいかなる行動はなんの意味ももたないと固く信じていたため、この時点での予備折衝は実現しなかった

189138日付「ベルリン最新情報」紙が奇妙な暴露をしたので、帝国宰相はこの案件に関して今までより一層強い対応を迫られることとなった。このベルリンの新聞は四日前に「ウイーン日刊新聞」の「秘密基金の歴史」という記事のなかに掲載されたものに依拠したものだった。317日、「フォシシェ・ツァイトゥング」が、内務省政務次官で内閣副総理のフォン・ベッティヒェル博士が近々辞任するという噂を広めた。そして、その三日後、小論文「フォン・ベッティヒェル氏とヴェルフ基金」を掲載した。こうして読者は、ベッティヒェルの舅の破産寸前の銀行が、1886年にビスマルクの350,000マルクの肩代わりで救われたことを知ることとなった。ベッティヒェル彼自身はこの金額がヴェルフ基金からのものであることにつきなんらの弁明をしなかったようである。

カプリヴィはこのスキャンダルについての輿論の反応の烈しさに震撼させられ、321日の閣議で、ヴェルフ基金の歳入について新たな枠組み協議のテーマとした。とっくに公然の秘密になっていたこと、すなわち「歳入のこれまでの使用は多少なりとも強引な解釈を用いてのみ正当化されるだろうということを認めざるを得なかった。彼の提案は、「外務省の側から支払われた金額は、それぞれジョージ王とその子孫と」無関係と位置づける方向性をもった。「帝国ならびに国家新聞」で見解を発表することにより、輿論興奮のうねりを鎮めようとカプリヴィは考えた。財務大臣フォン・ミケルは以前ハノーファー派だったので、この提案にもっとも積極的だった。そして、思惑が思惑を呼ぶ事態を避けるため、利子の一般会計予算への統合を勧めるべきだと信じた。彼の周囲は、基金の特質はハノーファー王家に属する人のものとして維持されなければならず、したがって、利子は国家予算の枠組みの中にあるものではない、との論点から反対した。内務大臣ヘルフルトは歳入のうち、内務省に割り当てられた部分を、多少の補償と引き換えに放棄してもいいと考えたなぜなら彼の談話からみえるように、その金はこれまで、ハノーファー、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン、ポーゼン州の州知事達に報道対策のために振り向けられてきたからである。内閣は、1892年からは用途の記述を添えた一般会計報告に移行することで合意に達した。さらにこの時すでに押収の廃止が視野にはいってきておりそれは最終的な規定ができるまでの収入はハノーファー州で使われることを目的としていた。

 この繊細で厄介なテーマを些細なことのように見せるために、また、領邦議会での危惧される質問の機先を制するために、カプリヴィは1891/92年度の予算審議の際、ハノーファーの職業学校の建設のために、ヴェルフ基金を、認可された補助金の財源とする立場をとった。彼はたいへん率直に、秘密扱いの証拠書類は、毎年、皇帝の命により貸方記入の後、焼却されたようで、過去になされた支払についての正確な情報を示すことはできないと吐露した。彼は、歳入に万が一欠損が生じた場合、それ相応の政治的な自由裁量が出来る基金を外務省に認めることの必要性を指摘し、そしてこれをもって、ビスマルクのヴェルフ基金への終始一貫した固執という根本的な観点に言及した。ビスマルクは、明らかに、外交政治のため自由裁量可能の秘密基金を帝国議会に通そうとは努めなかったようである。彼が邪魔されることなくヴェルフ基金につき自由裁量することができる限り、このために、帝国議会と激しい論争を行うことはむだであると、彼には見えたのだ。そこで、彼は、公式には1870年以来、秘密目的で外務用途48000マルクの、どう考えても帝国の年々増加する支出規模とつりあわない自由裁量基金で満足することにしたのである

カプリヴィの演説は期待された鎮静効果をもたらさなかった。なによりも皇帝自らの所見表明が、失脚した宰相の独断的なやりかたに対する批判に追い風となったのである。きわめて政治的な証拠物件を焼却したことは、法治国家の観念とは相容れない行為のやり方だとして槍玉にあげられた。「ハンブルグ新聞」に掲載されたフリードリヒスルーエからの反響は、厳しい検閲の正当化にはほどたりず、さらにはヴェルフ基金が良い外交関係の維持に寄与したという暗示は、本来のあるべき使用目的がはなから無視されたという一つの証拠となってしまった。

 1891810日、宰相は次の自筆の手記を文書に残した。「陛下は本日、ホーエンツオレルン号上で次を私に知らせた。最近英国に滞在した際、英国の女王陛下が彼に言ったことは、ジョージ王が彼女を臨終の床で彼の遺言執行者に任命したこと、ならびにもし、彼女が死去する前に、ハノーファー家にヴェルフ基金が返還されるならそれは彼女の心に安らぎをもたらすであろう、と。陛下は返答に苦しんだ」。いまや、ことの展開大きな転換を見せた189111月、皇帝はハノーファー州を訪問し、州知事フォン・ハマーシュタインと、ヴェルフ基金の他目的使用とヴェルフ党の策動の沈静化をテーマとした、内密の話し合いをする機会をつくった。腹蔵のない率直さで、ハマーシュタインは皇帝に法的状況についての彼の見解を説明し、管財人の廃止と所有者への利子の返還を唯一の考えうる解決策とした。皇帝はこの説明によってみるからに感銘を受け、14日後、ハマーシュタインに、ゲールデの宮廷狩猟会で、エルンスト・アウグスト公爵の物の考え方につき最後まで残っていた懸念を晴らす機会をつくった。彼は、彼固有の衝動性で、ただちにハマーシュタインに、公爵そのひとと交渉し、ブラウンシュバイク家継承問題以外の点での合意形成の土台づくり命じた。皇帝が歩み寄れる妥当なきっかけを公爵がつくるのに必要な手助けをハマーシュタインに求めた。君主としての正義感、祖母の願い、輿論からの圧力、ハマーシュタインの男らしい対応、などが一緒に作用して、ヴィルヘルム二世をして管財人の廃止絶対的な必要性を納得させたのである

 カプリヴィは皇帝口火を切るのを控えめな態度で眺めていたというのは、彼はその感情的側面ではなく政治的な側面をより重視していたのである。彼の意見では、まずヴェルフ側からのブラウンシュバイク継承権の要求を主張しないことを誓約するという歩み寄りが必要であった。ハマーシュタインは1891年末に、帝国宰相から御前での謁見に呼ばれたそこで彼は、皇帝の寛大な決意と内閣の批判的な留保との間に大きな溝があることをみてとった。「彼は、だから、最終的に、二人の内閣構成員と協議したのち、ハマーシュタインとの第三回目の話し合いの際に屈服し、彼自身が、公爵との交渉に必要な(祈願によって手に入れた)基本方針と全権を(ハマーシュタインに)与えた。」「カプリヴィは、皇帝の願望と意志に基づく圧力を少なからず感じていたので、二人の閣僚との協議ののち、ハマーシュタインとの三度目の話し合いの際、やっとのことでようやく譲歩し、皇帝の考えが反映された基本方針と、公爵との交渉の際に必要な全権をハマーシュタインに授けた。」14日に、カプリヴィは内閣に皇帝の意向を説明した。ハマーシュタインは、グムンデンで仲介者として活動し、好都合な時間をつかむことをためらわなかった。21日、彼はカプリヴィに、公爵の皇帝への書簡について彼がグムンデンで起草した草案を提示した。輿論ならびに領邦議会の反応を考慮して、カプリヴィはミケル、ハマーシュタイン、並びに枢密顧問官ブリュール博士をしていくつかの修正を行わせ、210日に草案は、ベルリンの、あらゆる方面からの承認を得た。ハマーシュタインは公爵の枢密顧問官で行政執行長官のフォン・デル・ヴェンゼ男爵にことの状況を細密に伝えた際、再度の修正を公爵の側が希望する場合、帝国宰相はこれを交渉の挫折と位置づけざるを得ないとはっきり通告した石頭どもが、それがきにいらないからとふたたび交渉の席から降りることのないよう圧力をかけることが重要に思えたからであった

帝国宰相はすでに前年、ヴェルフ基金からの収入がなくなったため、その補填に関するミケルが作成した草案を帝国議会にもちこんだそれをうけ帝国議会は、189237日、外務関連として年間500,000マルクの自由裁量基金を承認した。この関連でなされたミケルの所見にほのめかされたのは、その時以来、外務省に流れ込んだ歳入割当て分のうち、とりわけ年間40,000マルクが「(われわれはこう呼んではいけないが)ヴェルフ義勇軍」への年金にとりおかれた

帝国議会審議の三日後、クンバーラント公爵は、管財人の廃止要請の書状を皇帝に発送した。回答は内閣への勅令の形式でだされ、その内容は、押収の廃止の時期が到来している、というものであった。

ブラウンシュバイクの後継問題のさしせまった変化の対する輿論の見方、そしてドイツの諸侯間でのヴェルフ家の将来における位置づけはなんの根拠もなく、この一連の交渉は、ハマーシュタインの提案と皇帝の明確な要望により、ヴェルフ基金の返還にのみ限定されており、ブラウンシュバイク問題の更なる進展の前提を意味するものでは決してなかった。」317日の御前会議で管財人の廃止に係わる法案を論じた。領邦議会での審議終了の10日後に、ベルリンでプロイセン・クンバーラント間条約がプロイセン財務大臣フォン・ミケルと、他方はフォン・デル・ヴェンセ男爵とブリュール博士の、双方の全権大使によって署名できた廃止法公示1892410日付であった。

ハノーファーの継承権の放棄をはっきり表明しないまま、そして現状維持を公式に是認しないまま、さらにブラウンシュバイク家相続の確約もなきまま、ジョージ王の跡取りであるエルンスト・アウグスト公爵は彼の財産から生ずる利子の使用権を取り戻した。それにより接収法公布前の状態が復元された。補償額それ自体はこの時点ではまだ支払はなされずそれはプロイセン国にたいするブラウンシュバイク・リューネブルク家の未払い債務として記帳された。総ての財産の返還はこの協定では留保された。

 幸運な方向転換についての安堵は世間共通の認識だった。ベルリン英国大使、エドワード・ボールドウィン・マレー卿は314日、皇帝に女王の感謝状を手渡し、デンマーク王は、コペンハーゲンのドイツ公使館を通じ、彼の満足感を異例な表現で表明した。ウイーンにおける帝国大使、ハインリヒ七世ロイス王子の315日付報告で皇帝の宥和的な意思表示について、ウイーン宮廷でたいへん好意的な印象を記した。外務大臣カルノキー伯爵は、交渉の事前中断を避けるために、公爵ならびに公爵夫人が彼らの宮内参事官キールマンゼックの強情をいかに強く説きつけなければならなかったかを、とりわけ説明した。にもかかわらずウイーンでは、皇帝の決断に、ロンドン、コペンハーゲン、ザンクト・ペテルスブルク諸宮廷の影響があったと思われた。皇帝の側近はそれにつき次のように述べている。「笑止。やつらはなにもわかっちゃいない。」

帝国大使の資格で公爵の宮廷を無視すべきか、というロイスの質問にたいし、対応は今までどおり、との皇帝の指示だった。以前はしばしば姻戚関係になっていたブラウンシュバイク家とホーエンツオルレルン家が、両家のこのたびの反目を新婚姻関係によって融解するようになるまでになお20以上の年月が流れなければならなかった。ヴィルヘルム二世治世下で、プロイセン王室は、1866年ヴェルフ家になされた不法の埋め合わせをしようとした。すなわち財産の利子の返還に加えて、エルネスト・アウグスト皇太子のプロイセン家のヴィクトリア・ルイーゼ王女との1913524日の結婚ののち、19131027日付の連邦参議院決議により、ブラウンシュバイク公爵領をブラウンシュバイク・リューネブルク家が相続することが承認されたことである