ヴェルフ基金の歴史について』
ハンス・フィリッピ著
ニーダーザクセン年鑑
31巻、1959
ヒルデスハイム、アウグスト・ラックス出版社



第三章


われわれは一連の覚書からヴェルフ基金の外交機密費管理室による管理の実態を目の当たりにする偶然に恵まれた1883/84決算年に外務省割り当てられたのは60万マルクであった。18831213日に、収入と支出記録簿の管理に責任をもつ役人であるシュルツの次席である枢密顧問官ヴィークナーが、外交参事官フンベルトに一通の大至急便で報告したのは、下級政務次官ブッシュが自筆してフリードリッヒスルーエへ(ビスマルクへ)転送した現金出納命令に基づき、511千マルクの金額がヴェルフ基金から引き出されるという内容だった。現在在高は375千マルクにすぎなかったので、帝国宰相は有価証券の売却で不足分を穴埋めするように指示した。その際、一度に全部売る方法はとらず、少しずつ日にちを分けて、複数の金融機関を使うやり方を指示した。このやり方にすると、部外者にたいして人目を引かないのである。その緊急性がゆえに、有価証券が売却されるまで、通常財源からヴェルフ基金に立替えがなされたのである。証拠資料を並べてみると、次の一覧表のようになる。:


13/02/1884          50万マルクの額面の有価証券を売却。収益:518,000マル
                ク。

21/02/1884          額面不明の有価証券売却。収益181,000マルク。213日に
                 引き出した
18,000マルクの余剰金を勘定に入れ、口座の現
                 在高が
199,000マルクに達する。
17/04/1884          159,000マルクの予算財源の前払い。
19/04/1884          1884/85決算年度の第一回分割払い金の振替え:25万マル
                ク。
417日の前払いを払い戻ししたのちの残額は109,000
                マルク。

06/05/1884          150,000マルクの予算財源の前払い。これまでの債務の履
                行のために、
150,000マルクの有価証券を売却する。
20/05/1884          帝国宰相がヴェルフ基金のすべての有価証券の売却を命
                令する。

10/06/1884          予算財源から35,000マルクの前払い。現在在高は1,480
                 ルク。

13/06/1884          宰相が有価証券の売却により生じた50万マルクを払い出
                した。
610日の前払金の戻入目的ならびに当座の年金支
                払のため、下級政務次官ブッシュがまだ手元に残っている
                有価証券を売却してはどうかと提案する。

16/06/1884          枢密顧問官シュルツがこれにたいし、全権を与えられた。
                         フォン・ブッシュ瑣末に曰く:「今後は、宰相殿の支払指
                示の額高が現在高に不足している場合、まず第一に現状報
                告することが望ましい」。

20/06/1884          収益:62,600マルク。
26/06/1884          1884/85決算年度の第二回分割払い金が振替えられた。:
                          290,000
マルク。帝国宰相と財務大臣の口頭での申し合わ
                せに従い、
101日までに、1885/86年に期日がくる歳入
                にたいしあらかじめ
150,000マルクが振り替えられる。
18/08/1884          有価証券購入200,000マルク。
22/09/1884          1885/86年度の第一回分割払い金の振込:150,000マルク。
26/09/1884          予算財源からの立替金:100,000マルク。
16/10/1884          同有価証券の払い戻しのために120,000マルクで売却。
03/12/1884          枢密顧問官シュルツは、帝国宰相宛ての6200マルクの振
                替えをもって、ヴェルフ基金の現在在高を放出した、と表
                明した
。なお残っている有価証券は売却された:
83,000
                ルク。


外交機密費管理室の突然の積立金の引き出しはどのように説明がつくのであろうか? 文書からは明確な回答は引き出せないが、答えの想像はなんとなくつくのである1884211日、バイエルンの参事官フィステルは百万マルクの額面の領収書に署名した。極秘の任務で、バイエルンのルードヴィッヒ二世の政務次官であるフィステルは、過大に債務を負った内閣会計のための借入を目的として、王の名代として、ビスマルク並びにブライヒレーデル銀行と交渉するために、二月の初めにベルリンとフリードリッヒスルーエに行った。協議は望んだ結果にはならなかった。ミュンヘンでの差し迫った危機を避けるため、ビスマルクは、百万マルクの金額を前貸しして苦しい立場に置かれた王を助けるつもりだったらしい。その際の、この金額が供与されたときの条件は不明である。

 オルデンブルク宮廷での188411日祝賀の際、オルデンブルクの大公妃はプロイセン公使フォン・ティーラウに、ヴェルフ-プロイセン間の和解に尽力した。エルネスト・アウグスト公爵が彼の支持者を抑えることに精一杯で、かつその結果がはなはだ芳しくないことを遺憾に思っていた。ティーラウはとりわけ、ロシアの女帝マリア・フェオドロヴナはクンバーラントの公爵夫人ティーラの姉妹であるが、彼女が、オルデンブルクの宮廷を通じて自分の姉妹の夫に有利になるように働きかけたことの報告を忘れなかった。この活動のきっかけは、ブラウンシュバイクのヴィルヘルム公爵の間近に迫っている死去の見通しであった。グムンデンのクンバーラント宮廷は、ビスマルクの管財人の廃止、そしてブラウンシュバイクの継承権、並びにブラウンシュバイク公爵の遺産の取り扱いについての意向の糸口を入手できはしないかということに最大の関心をいだいていた。グムンデンからは、この任務のために、仲介者として前のプロイセン財務大臣ビッテルそのひと起用した。それにもかかわらず1884321日のビッテルによる仲裁はビスマルクに明確に拒否された。なぜならビスマルクにとって、この帝国憲法受容の申出は、公爵の側で、本腰をいれて紛争を解決する準備態勢が十分に整っていないとみなされたのである。グムンデンでは人は、このとりつくしまもない却下ののち、再び法律的公式見解へと引っ込んでしまった。18841018日に、ジビレンオルトでのブラウンシュバイク公爵ヴィルヘルムの死去がこの消極性のきっかけとなった。ブラウンシュバイク継承権におけるハノーファー家の権利を簡単に無視することができないことについては、プロイセンの宮廷でも認識しているところであり、従って、エルンスト・アウグスト公爵のブラウンシュバイク公爵領における統治権継承関する通達書について、ほかのあらゆる宮廷は違和感を感じたのである。ヴィルヘルム公爵が遺産として遺した相続財産を、ブラウンシュバイク-リューネブルク家の正当な相続人に渡さずにおくことをビスマルクが考え得たかについては、なんらの根拠も示しえない。それ故に、111日に英国ヴィクトリア女王が再度改めて彼女の娘婿にした干渉は、本来その必要は無く、政治への女のかしましさにたいしての宰相のいらだちを惹起するのが精々であったろう。1878年の出来事のあとで、ビスマルクは、すなわちこれ以降の決断は、クンバーラント公爵自らうった先手のような手段に依存するものであり、プロイセンからはほんの僅かの妥協をもほのめかしてはならない、と考えた。すなわち、この度の出来事を通じて、ビスマルクは敵対者としてのヴェルフ側に(交渉相手としての)善意が欠けていること、並びに非宥和的な物の考え方をしていることという彼のもっている持論への確信を更に強めたのである。公爵の公式見解を表現するその粘り強さは、それがゆえに、いかなる妥協への展望をも潰してしまった。よって、宰相の退職まで、その傷は癒されないままになった。1884年以降も利子がジョージ王の敵対的な攻撃の防衛のために、外務ならびに内務に流れ込んだ。実際の支出は、段一段と減少していった。なんとなれば、1887年に外交機密費管理室ヴェルフ基金の収入のうち、動産現在高を80万マルクと提示したからだ。

 ヴェルフ基金の著名な年金受領者を一瞥すると、まず筆頭に挙がるのがバイエルンのルートヴィヒ二世であろう。年数ははっきりしていないが、バイエルンの内閣出納局は年額30万マルク受け取っていた。そのうち、主馬頭ホルンシュタイン伯爵が(一定のパーセントの)歩合を徴収した。伯爵の全権委任者である枢密顧問官ベームにたいし、文献で立証できる最後として188810月にベルンの公使館を通じて17,000マルクを受け渡した。ハンガリーのスザキ伯爵は1883年に3000マルクを入手した。これは、彼が、1866731日にプロイセン政府とハンガリー義勇軍の間に締結された条約の原本を手渡したことによるものである。同様に、1866年に行った任務にたいしてハンガリーの将軍クラプカは額高不明の金額を受け取った。マドリッド帝国大使館はフランスのバゼーヌ元帥に1888年に四半期の分割払い金1200フランを支払った。教会の高位聖職者のなかに、ケルンの罷免された大司教、パウルス・メルヒャース博士とかつてのポーゼンの補佐司教ヨハネス・ヤニシェフスキーが言及できる。前者は彼の枢機卿への指名を受けて以来、年額16000マルクを、後者は8400マルクを受領した。また、1892年に、ウイーンのンティウス・ガリンベルティは彼の枢機卿への昇進を機に贈与された50000マルクはヴェルフ基金から取り出されたと考えられる。フライブルクの教会史研究者フランツ・クサーヴァー・クラウスはまずもって、爬虫類基金(政府の機密費)にときたま登場する学術的支援者ではなかった。ビスマルクは、彼の長年にわたり忠実だった協力者であり、枢密外交正参事官であったロタール・ブッヘルに、1886年の退官ののち、年2000マルクの年金手当てを承認した。同時代の人びとで知らない人はいなかったが、以前のハノーファー参事官オスカー・メーディングはヴェルフ側からビスマルク側へ寝返った報酬として7500マルクの年金を与えられた。最後に、ホルスタイン州の回想録記されている事柄に言及しておこう。それによれば、ビスマルク自身は1890317日並びに20日の間の職責からの引退の際、ヴェルフ基金から231000マルクの金額を要求した、という。

第 三 章