第 二 章

ヴェルフ基金の歴史について』
ハンス・フィリッピ著
ニーダーザクセン年鑑
31巻、1959
ヒルデスハイム、アウグスト・ラックス出版社


第二章


187516日、ヘッセン選帝侯フリードリッヒ・ヴィルヘルムが死亡した。225日の国家委員会会議で、財務大臣代理の財政評議員ルードルフは、ヘッセンからの歳入を本年度をもって中止し、即座にハノーファーから切り離して処理するようにすべきこと、を指摘した。またヴェルフ基金に関しても、以前のハノーファーのメーディング参事会がジョージ王の健康状態について政務次官フォン・ブュローに報告したことをうけて、その終結という可能性を考えておくべきであると指摘した

ハーナウの侯爵夫人は、その夫君である選帝侯の死後、皇帝に直訴して、選帝侯財産中のヘッセン王家の非課税資産分割につき彼の同意を引き出した。差押えは1875726日の法令によって廃止され、すべての侯爵夫人に属する資産はその権利者に引き渡された。同年に、ビスマルクは彼の代理人であるところの政務次官フォン・ブュローを通じて、ヴェルフ基金余剰金全額を監視の目的で請求させた。だが、彼の同僚の抵抗に直面した。妥協ののちに、外務関連のために72万マルクの獅子の分け前(一番大きな部分)を得たことで満足した。この間にターレルとマルク通貨の1:3比率での切り替えが生じた。政務次官フォン・ブュローは1876115日、予算審議の前に財務大臣のところへ相談に行き、内閣とのビスマルクの事前の討議を引き合いに出し、その際、提言した。「かの基金が近々消滅しうる事態を顧慮して、当分の間、その歳入の一部をハノーファー州で公益的な目的に使用することを断念したらどうか。そして管理費用と特定の不可避な支出を差し引いた全額を、もっぱら防諜目的のみに限定して、外務大臣ならびに内務大臣に提供してはどうか。この提言にとって決定的だったのは、外務大臣の側からみて、後者(国防)の目的のための支出は徐々に少しずつでしか減らす(止める)ことができないために外務省に適当な大きさの予備基金準備する可能性を設けることが望ましくみえたこと、についての検討であった。(中略)基金の分配についてのこれまでにあったような内閣閣僚による下相談はこれにより不要になった」。

大臣ひとりたりともビスマルクの提案に反対する心構えができていなかった。そこで、いまや、その収入は、長期間の建築計画ならびに土地改良計画の続行を除いては、四分の一を内務大臣に、四分の三を外務属することとなった1876418日の政務次官による外務外交機密費管理室にたいする指示から読み取れることは、使われなかった金額は4.5%のプロイセン国債に投資したことであった。

押収を廃止するという意味での再三再四の努力に対しては、ビスマルクは不変の粘り強い手段で応じた1876927日、ハノーファーの州議会は、この観点で適切な措置を講じるべく帝国政府に要請した。州長官フォン・ベニクセンは、国民自由党左翼をしっかりと自分に引き寄せるために、この提案を支援したが、はっきりした結果は得られなかった。18771113日、進歩主義者オイゲン・リヒターが州議会で政府を相手に質問したときには、より強い反響が引きおこされた。かれの質問は、1871年以来何百万がジョージ王の監視のために支出されたのか知りたい、というものであった。この質問は数ヶ月に及ぶビスマルクのベルリン不在の間に行われ、内閣メンバーをひどい困惑に陥れた。リヒターの質問の回答は、18771117日の閣議での議題のひとつとなった。確固たる決断が不足していたため使い古された定型文を使うことで折り合いがついた。すなわち、政府は1869年にすでに王家の同意をとりつけていたため歳入の政治目的の使用に関しては、説明義務はない、ということである。しかしながら、そのような回答でもってリヒターが納得する気はなかった。彼は1121日の州議会本会議で政府に明確な回答を求めた彼にとって、内閣の説明義務の有無、そしてそれぞれの細かな内訳の額高は重要ではなかった。彼はただ、帝国政府がよりにもよって国内において接収法成立に動かされたのか、その道徳的な一面を追求したかったのである。彼は、彼に届いた風評によれば、農業省がジョージ王の敵対的な策動の防諜手段を講じていた、と指摘して議場に笑い声を生じさせた。

大臣はばつの悪い議論から逃れ、内閣の政務次官補ホーマイヤーを議会に送った。ホーマイヤーは、閣議決定を読み上げることによってまず最初に野党の好奇心を呼び起こし以下の代議士達、ヴィルホフ、ヘーネル、ヴィントホルスト達に自由主義的の法治国家秩序の基本原則の喚起を迫った。すなわち政府が議会の質問にたいしどの程度まで明確な回答をする義務があるか、ということである。リヒターが1124日に自らの質問を繰り返したので、内閣は内閣の見解の見直しを迫られた政務次官フォン・ビュローは、この問題に誇張された意味づけがなされようとしている印象を打ち消そうとしているとき副首相兼財務大臣カンプハウゼンは、実際に使われた額は世間のひとが思っているよりも少額であることを説得しようとした。内閣のこのような非自主性は、議会の政府に対する質問への明確なひとつの返答に閣内で折り合いがつかなかったこと、よってこの問題が宰相の決裁にまわされたことにはっきりと表された。その指示は内閣報告理事会ヴァルツィンのフォン・ティーデマンから政務次官フォン・ビュロー宛て121日付の一通の文書により明らかになる。:「貴職閣下から帝国宰相に、このような報告(前述のカンプハウゼンの報告の意味です)に対し、見解を発表していただくようお願いしていただけませんか。これは彼の意見によれば、意図した効果をもたなかったようです。というのも、議員集団のなかで、120万の金額を僅かの金額として扱うことはできないからです。政治目的のためにその全額が使用されたことはない、と言及することがせいぜいできることの限度のように思われます。」

125日と6日に下院で開かれた会議では、荒れ狂った経過となった。ヴィントホルストは、ジョージ王の不当に奪われた権利について王(の立場)を断固支持し、王への処置を野蛮行為と表現する渡りに船の機会となった。ミケルは一般的な政治目的への予算の使用は法律の文言に抵触するとの見解を示した中道左派陣営では、補償条約そのものに対して、また特に金額の多寡に対して、論争を起こした。その論争と関連して、ヘルベルト・ビスマルク伯爵は127日に政務次官に帝国宰相の考えを伝えた。すなわち、「もし万が一、ジョージ王に対する補償が十分すぎることはないという結論に達したのであれば、それ相応の行動をとらなければならないだろう。ジョージ王をもってしても、今現在の補償状況は十分すぎてあまりあるといわざるを得ないはずである。その額が決められた当時は、ジョージ王の権利を金で買い取ったと見做しその理由付けをしたはずであったのだ。しかし王がそれ(王の権利の放棄)に理解を示さず、したはずの王とプロイセンの合意に沿わなかったので、プロイセンは裏切られたかたちとなってしまったのである。補償額全額あるいはその一部が返還される前に、たぶん、1868/69年のその当時の交渉の修正審議に入ることを迫られる羽目になるであろう。そしてジョージ王の差し押さえた財産から、1870/71年の戦争費用の負担分を遅ればせながら徴収しなくていいのかという議論へと発展するであろう。なんとなれば、ナポレオン皇帝は、ドイツの援助を確信していなかったら、われわれに対する戦争を開始しなかったであろうことは、疑いの余地がないからだ。そのほかにも、ブラウンシュバイク公爵がもし、彼の王家のこの敵対戦線(注:ジョージ五世の意)に全財産を遺贈することがあるなら、ジョージ王と彼の王家の敵対的な扇動と悪い性癖を鑑みてとても容認し得ない事態になるだろう。ビスマルク侯爵には閣下よりのコメントに関し、折に触れて、カンプハウゼン、フリートベルクの諸氏の本件についての意見を確認するように、そして両名に彼の考えを理解納得させるよう、話して頂きたいと思います。」

すでに長年患っていたハノーファー王のジョージ五世は1878612日、パリで死亡した。この出来事にたいしてベルリンではどう対処すべきであろうか? ヘッセンの選挙侯の死亡の際にとった同じやり方で、会計年度の満了とともに、管財人管理の廃止しなくてよいのか

プロイセン州の財務大臣、ホープレヒトはすでに613日、ビスマルクに問い合わせた。彼は、押収財産の管理を即座に変えることに反対である。その理由は、そのようなことは法律によってはじめて成立するからである。ビスマルク周囲で同意の空気が広がった書類にはもう一つの覚書添付されていた。「これに従って、答弁すべし。少しばかり付け加えるならば、殿下は王子にそのように伝達済み。陛下も同意されてます。若いクンバーラント公爵が自ら動くときまで待つべし。」

その時は、ジョージ王の忘れ形見、エルネスト・アウグスト王子の方向を制御する努力が欠けていたのでは決してない。いや、ヴェルフ家にとってとても意味のあるブラウンシュバイク公国における将来的な相続の、財産問題の円満な解決と深い関係があったウイーン帝国大使館理事のカール・ドンホーフ伯爵は、614日、報告した。ウイーン宮廷のいたるところで、うわさされていると。すなわち「皇太子エルネスト・アウグスト王子はいまや、プロイセン王国政府に接近しようとしていて、彼の父親が苦労して守ってきた請求権を放棄しようとしている」と。帝国政府のなかでは有事に備え法的状況を確認しはじめた。財務大臣のホープレヒトは72日に、ヘッセンの先例を指摘したが、差押え命令は、王の死によってはその有効性には抵触しないという客観的な性格をもたせた。けれども、この問題が、本来法律によって解決されなければならなかったこと、そしてとりわけ現状のハノーファー家による追認が本来先行されなければならなかったことが懸念材料だった。押収が法的に続いていることから、結果として政府が引き続き資金を使う資格をもち、かつ王の後継者に対しても使途説明義務を生じないということになっていた。「ヴェルフ基金の使用は明らかに内政問題であるが、以下の二つの行動の違いをおろそかにしてはならない。すなわち本来の所有者であるハノーファー王の折衝のやりかたに対しての政府のとるべき行動と、接収令により政府へ移譲された自治権に基づく政府のとるべき行動の二つである。前者の場合、政府の管理委員会による現状の優先でありまた後者の場合では王の死以外にも及ぶヴェルフ家の行動がプロイセンにとってマイナスになる結果という証拠の提示をもってのみ正当化されるところの敵対的策動に対する防諜である。従って、王の死後の時点で、歳入の余剰の支出方法につきすくなくとも正式な議決が必要である、と財務大臣の見解はしめくくられた。法務大臣レオンハルトも710日付の所見は、法改正の必要性から成り立っているが、ホープレヒトよりも断固たる態度で、「帝国政府の法にのっとった判断に基づいた目的に使用されることが不可欠であるとみなされるかぎり」この歳入は今後も財源として機能するであろう、と結論づけた。

実際のところかの時期においては、このハノーファー家との衝突の解決果たして望ましかったのかどうかについては、評価が定まらなかった。特にビスマルクに対する英国の影響力が行使された。同じ時期に、ベルリンで会議が開かれ、ヴェルフ問題もビスマルクと英国首相の間の話題となった710日に、ビーコンスフィールド卿は帝国宰相に次の手紙を送った。:


極秘
ベルリンにて、1878710

拝啓

私は私達が昨日話していたあの紳士についてのもう一通の書状を入手しました。そして、本日の会議には出席できないことになりました。このことにつき貴下を煩わせることになります。貴帝国政府は、(クンバーラント公爵に)即時のそして正式の権利放棄を絶対に主張しないまま、現在の状態が(クンバーラント公爵のドイツ帝国にたいする)忠誠の徴と同じことだと考えてはくださらないでしょうか?

彼がベルリンに赴き、皇帝に報告し、そして皇帝が、ブルンスヴィックの相続権のある王子の称号につき、彼と相談し、彼が彼の財産の返還を期待する、ということで十分ではないでしょうか? 貴下はお忙しいので私に返信されるには及びません。この次、貴下とお会いするとき、この件に関しお話いただければ結構です。   敬具

ビーコンスフィールド


710日と日付された覚書の草案を、正枢密公使館参事官ビュッヘルのメモによれば、宰相はビーコンスフィールド伯爵に、口頭の解説しながら手渡した。ビスマルクはその際、交渉を成功させるための前提条件として、ハノーファーの王についてのエルンスト・アウグスト王子の完全で明確な断念を要求した。その前提のうえで彼はほかのいい条件を約束でき、財産の返還ならびにブラウンシュバイク家における相続を皇帝ならびに議会で主張するであろうとした。ビスマルクがこの提案をしたのではないということを示す理由はなかったが、まずは公爵からの第一歩を期待した果たして公爵はその一歩を踏み出したが、その一歩は想像していたものとは全く異なるものであった。英国を介した干渉とその結果を待つことなしに、彼は(エルンスト・アウグスト王子は)710日付ですべての宮廷と「プロイセン王」に、とくにハノーファー王国のすべての権利、君主大権ならびに称号の保持を通告した。それらの遂行には、実際の、彼にとっては法的拘束力のない障害があったため、彼はその障害がある期間、クンバーラント公爵、ブラウンシュバイク伯爵とリューネブルク伯爵に加え、王の称号を名乗ることを決めた。この通告は713日、外務省で宰相あての王子のメモとともに発表された。「たったいま、私は同封物を受け取り開封した。これは非常に奇妙に書かれており、簡単には返答できないものであろう。皇帝は貴下と714日、日曜日、午後二時半に話したいと望んでおられる。」

王子と内閣は716日、この通知文書を皇帝の権利と称号を無視しているがゆえに、さしあたり回答しないでおくことで合意した。王子は意志疎通が不可能であったことを伝えるために証拠として一通の写しを英国の女王に送ることを同意した。725日に、内閣は王子にたいして、新しいクンバーラントの挑発への回答として、政府間協議から距離を置くように助言した。フリードリッヒ・ヴィルヘルムは728日、これに同意した。

そうこうするうちに、英国のヴィクトリア女王が、この件は家庭内の問題であるとして、とくに不快であると反応した。彼女の娘であるプロイセンの皇太子妃ヴィクトリアに宛てた一通の電報のなかで、婿に見解表明を求めた。「一体全体あいつ(ビスマルク?)はハノーファーのエルンストになにを求めれば気がすむのか? 実際の権利放棄なんて誰だって要求できるものか!」これにたいして皇太子は核心部分を避け返事をした。すべての王宮に宛てられたといっているエルンストの手紙はあまりにも一方的に書かれているので、プロイセン側の歩み寄りを一切許さない形になっている。公爵がプロイセン王をハノーファーの現在の主権者として承認するならば、公爵を助けることも出来よう。そして、ブラウンシュバイク公国の相続もドイツ皇帝の承認ののち可能となろう。王子は二日後に政務次官であるフォン・ビュローと共に、バート・ホンブルグの王宮宿営でこの意見交換につき、彼の姑と話しあった。そして、その際、ロンドンの宮廷では、エルンスト・アウグスト公爵の早まった行動によってこのうえなく不快にさせられていることをほのめかした。人は之を彼の独自の希望意見の結果だとは考えずに、彼の側近グループの災いに満ちた影響の所為だと考えた。英国の女王が王家の問題でひどく頭を悩ませていることのこの重要性を顧慮して、王子は、政務次官に、キッシンゲンで湯治(療養滞在)中であった帝国宰相に直ちに報告するように頼んだ

ビスマルクの答えはネガティブ(否)であった。なんとなれば、彼が四週間前にディスラエリと交渉したときの前提条件は、公爵の通告のゆえに壊れてしまったからだ。いまや、ビスマルクは一歩を前進した。それによって、彼は明確に公爵の王位の放棄と同時に、ヴェルフ党の解散誓約組み合わせたいと欲した。ハノーファー州内での野党が満足するほどの信望を、若い公爵が十分にもっていなかったこと、特に、財産と承認を巡って格闘する公爵と、併合によって辛酸をなめ誇りを傷つけられたくからのハノーファー・グループの臣下との、それぞれの利益を軸とする団結については語るに足らないこと、そしてこの要求によって和解への展望が限りなく遠のいたことは、ビスマルクはとっくに知っていたにちがいない。ビュローが820日に皇太子に報告したときに、皇太子は宰相のこの思考過程に十分な賛意を表し、親類の愚かな行動の埋め合わせをするための方法を見つけたいと世話を焼いている彼の姑の立場への理解を同時に求めた。その点では女王の照会は私的性格のものであり、私的な仲介はのちのちプロイセンの利益となりうる可能性があった。しかしながら、この時点では意見の険しい対立があって、合意は期待できなかった。

この事態を目の当たりにして帝国政府は議会の招集までに政府見解の準備を決定した。財務大臣は927日に、所見を提出した。そのなかで、彼は以前主張した自らの見解部分否定し、押収命令の文面がジョージ王個人のみに限定されているわけではないと懸念を示した。なぜなら1868/69年の交渉の際、彼の死亡後の(効力の)継続は考慮されてはいなかったからである。敵対行為の防護についての支出項目は、たぶん残されなければならないであろう。その理由は、1869年の首相による明確な説明に基づく男系親族の法的地位不可侵のものであるからである。もし帝国政府が管財人管理の廃止を不適切と見なすのであれば、すくなくとも、防諜目的に使われる余剰歳入を、今決算年度末ののちに、財産に加えなければならなかったはずだったそしてそこで問題となってくるのは、補償条約修正は適当であるとみるべきではなかったのか、そしてそれによってクンバーラント公爵の敵対的な態度に口実を与えるであろうということである。

外務担当代表としての政務次官フォン・ビュローの18781014日付の所見以下の観点が基になっている。すなわち、政府は「押収によってヴェルフ党による敵対的策動にたいし政府に貸与された武器は、ヨーロッパとドイツの現状において、確たる理由なしに、手放さない義務がある。財務大臣が、翌年のさらなる使用をすでに支持したのであれば、その後においてもそうあるべきであると認識している。」法文のなかに使われている「ジョージ王」という表現は物理的な人間(のみ)に制限されるのではなく、「ハノーファー王位の継承者にたいしての、既に過去のものとなっている名称である。」法律の意図は従って、王位継承権を要求し続けている公爵本人という、王の後継者に対してさえも向けられていた。ビュローはそれ以上の法的理由付けの必要性を認めなかった。なんとなれば、それは彼の時勢に沿った政治的理由によるものであり、かつ、上層部の判断の機先を制することができなかったからである

内閣副総理であるシュトルベルク伯爵は1017日、財務大臣の意向に沿って意見を述べた。ただ、彼は、男子親族の要求は別のかたちの評価を望んだ。すなわち、彼らの財産の保護である。歳入の権利は彼らのものとはならなかったその歳入の押収が、前(さき)の国王そのひとのみに対してであり、それが彼の息子や法的後継者にたいして撤廃されるべきいかなる根拠も見つからなかった。「ジョージ王」という概念は、当時、法律上は、家族と家族世襲財産の代表者として使用された。遺産相続人が父親によって勘当されないかぎり、なんの変更もかんがえられないのである。

1024日付の文書で、法務大臣レオンハルトは一つの独特な見解をした。防諜監視経費は、1868年の通達文面に依るのであれば、明確に王そのひとにたいしてであった。王の財産は、その死によって、王の財産ではなくなって、後継者の財産となったのである。それゆえ、政府が利子を引き続き使用する権限があるかどうか疑わしい。なんとなれば、措置は個人的、かつ君主そのひとに対してのものであり、これに抵触したときのみ、自由裁量が制限されるものだからだ。彼の死とともに、政府は押収の法的撤廃の時点で法律上の後継者に、押収された財産のこの部分の管理に関する一般的な規則に従って、本来、会計報告をしなければならないそして政府は、それ故、歳入の政治使用に関しひとまずそれを見合わせ、領邦議会に議案を提出しなければならない、とレオンハルトは結ぶ。文化大臣ファルクは、1026日付所見で政府のやり方は政府が負っている義務について、特に「諜報員の死去したひとによる任務は、依頼者の死によって放棄されるものではないと考えられうる」ので、敵対的な策動を阻止するために法的にみて議論の余地はない他の閣僚の発言は、新しい視点が欠けているので、語るに及ばない。ビスマルクの1878119日付の所見が最終的な決定要因となったすなわちそれは、政治的な合理的判断によって決定されたものであり、宮廷的でも司法的でもなく、純粋に政治的な情勢判断であった。財産押収の経緯を思い描きながら彼はとりわけ以下を強調した。「二つの連続している立法上の文書作成に携わった人々すべては、本来、あらゆる事態を想定した綿密な対策といった裁判官的な、弁護士的な、解釈に対する鋭さによって、穴を塞いでいくという観点、すなわち司法上の契約という、厳密性の表現という観点からはるかにかけ離れていた(〜という観点をもちあわせていなかった)のである。それ故に私の考えは、全ての贈与金は法に抵触することなしに、また新法の必要なしに、ジョージ王の相続人の誤解しようのない声明によってその前提がくずされた今、国庫に納(い)れることができる、と」。

閣議決定は到達出来ない有様だった。内務大臣が1879331日に、次の予算年度のヴェルフ基金からの彼の予算希望額を申請したとき、ビュローによると、ヴェルフ基金収入の今後の使用は法律上の規則に反してはいない、という内容の48日付けの回状がすべての大臣に出状された。英国宮廷で大多数を占める要望を予め見越した英国の首相ディズレイリの口利きと、ザクセン-アルテンブルク公爵の要請がまえもって必要であるという内容だった。それによって1879514日付の(皇帝の)勅令の文面によって、前(さき)のハノーファー王妃すなわちザクセン-アルテンベルク家女とその娘達に毎年26万マルクの年金が、何時の撤回もありうるという留保条件つきとはいうものの、ヴェルフ基金から認められることとなった。

1879年だけで、外交機密費管理室から30万マルクの有価証券に投資されるほど国庫準備高が潤沢になったことから、ビスマルクと内閣は、ヴェルフ基金の廃止の可能性を視野にいれることとなった。1882年にも、もう一度、進歩党から、政府へのヴェルフ基金の委任に関する動議出された。ディリクレ議員動議により、221日、この案件が領邦議会で審議され、ベニクセンは、エルネスト・アウグスト公爵による敵対的行為はもはや問題になり得ず、よって管財人の廃止も許容される情勢となっている、との観測を表した。中央党と国民自由党はこの基本方針を前進させることでは一致したが、議会の過半数はこの動議から通常議事の進行に移り内閣は、遠慮のない質問から逃れることができた。

188315日の勅令で皇帝は、帝国政府にたいしヴェルフ基金の今までの位置づけを解放した。すなわち:


「貴下の口頭報告により、朕は確信を得た。つまり、押収により入手したジョージ王ならびにヘッセン旧選挙侯の財産のこれまでの歳入の使用は、186832日付政令(法令集166/67)並びに1869315日付法令(法令集321/22)の観点に合致する方法で執行された。朕はそれゆえ貴下をこれをもって過去に対するこの基金に関しての管理責任から以下の効力をもって解放する。すなわち、貴下あるいは貴下の前任者により直接にあるいは相応する指示でなされたこの基金からの全ての支払は朕のこの布告にもとづいて合法化されたとみなされるべし。また、貴下あるいは関与した公務員によって、いかなる時点での支出も、その額高と使途について、証明を要求されてはならないものとする。同時に、朕は上に言及した法律上の指示従って、問題となっている支出についての請求書と証拠書類は、これを破棄するものと定める。また、朕は近い将来、適当な時期に、これが行われるものと思う

ベルリンにて、188315
署名 ヴィルヘルム」


謄本として文書に添付された公文書には、ビスマルク、内務大臣フォン・プットカマー、並びに財務大臣ショルツによる副署がされてある。外務省外交機密費管理室、枢密外交参事官フンベルトは指示通り、進行中の支払案件の証拠として役立つ書類を除くすべての証拠を焼却した。外交機密費管理官の枢密顧問官シュルツは機密費の管理について別の帳簿を作るよう指示された